第四章:残された金彩と楽都への旅立ち
第四章:残された金彩と楽都への旅立ち
崩れ去った黄金の粉塵が静まり返ったオペラ座の舞台上。
ふと何かに気づいたリュシアンは深く膝をつき、舞台中央に張り付いた「幾何学の黄金」の痕跡に修復ナイフの先をあてがった。
「……ただの金じゃない。このバインダー(結合材)に使われている特殊な樹脂の発色……それに、結晶が描く幾何学模様の意匠……」
修復士としての眼光が、冷たく固まった結晶の表面に刻まれた極小の技法を読み取っていく。
「これは19世紀末、ウィーンの工芸や分離派の芸術家たちが用いていた、特殊な金箔の装飾技法(金彩)と全く同じ『歪み』のパターンだ。クリムージュが使っている黄金の絵の具の原液——その真の供給源は、パリではなくウィーンの古い工房にある」
「兄貴、匂いもそうだ!」
隣で低く身構えていたゲブが、小さな鼻をヒクヒクと鳴らして闇の奥を睨みつけた。
「オペラ座の匂いの中に、かすかに『乾燥した菩提樹の花』と『古い羊皮紙』の匂いが混ざってる! この甘い金属の匂い、セーヌ川の湿気じゃなくて……もっと冷たくて、ずっと大きな川の風に乗って遠くから流れてきてるんだ!」
「冷たくて広い川の風……」
リュシアンの頭の中で、修復士の知識とゲブの鋭い直感が一つに噛み合っていく。
「……それはドナウ川の風だ、ゲブ。そして菩提樹の香りとウィーン特有の金彩の歪み、それにあいつは『真の金の都』とも言っていた。……間違いなく、クリムージュの目的地は楽都ウィーンだ。ハプスブルクの都にある美術史美術館や宮殿の装飾を、次のキャンバスにするつもりなんだ」
「へえ、ドナウ川にウィーンか! よし、どこまでだって追いかけよう、兄貴!」
崩落する地下水路を脱出した二人は、モンマルトルのアトリエへと急ぎ戻った二人は、旅の支度を整えながら議論を重ねていた。
「兄貴、ポルページさんはどうするの? 外は危険だし、ここに一人で残していくわけにはいかないよね……」
リュシアンはアトリエの壁際に腰掛け、絵の具の壺を手に「ぶくぶく、ゆらゆら」と楽しそうに鼻歌を歌っている元師匠を見つめた。
記憶を失い、今はただの絵が大好きな好々爺となったジョルジュ・ポルページ。だが、パリの地下排水溝からオペラ座へ繋がるルートを無意識に提示したように、彼の失われた記憶の欠片は、今なお絵の具や芸術の「真実」と深く繋がっている。
「……連れて行こう、ゲブ。一人にしておけばクリムージュの手先に狙われる危険もあるし、何より……ポルページさんのふとした言葉が、現地で僕たちを助ける鍵になるかもしれない」
リュシアンはポルページの前にかがみ込み、優しく語りかけた。
「ポルページさん。僕たち、これからウィーンという街へ遠出するんです。一緒に行きましょうか?」
ポルページはパッと顔を輝かせ、子供のように目を丸くした。
「行く行く! 街全体が美術館のような芸術の都だろう? 旅の写生帳なら、もう鞄に詰め込んであるよぉ!」
そう言って誇らしげに掲げた古い革鞄には、乱雑にスケッチブックと絵筆が詰め込まれていた。
雨上がりのパリ東駅。
深夜のホームには、東へと向かう長距離夜行列車の蒸気が白く立ち込めていた。
「わあぁ……大きな鉄の箱だね、兄貴! これに乗って風の向こうへ行くの?」
受肉した人間の身体で初めて見る蒸気機関車に、ゲブは大きな目を輝かせてリュシアンの服の裾を引っ張る。
「そうだ、ゲブ。汽車に乗って、フランスを越えてハプスブルクの都・ウィーンまで行くんだ」
「汽車ぁ?汽車に乗ってお出かけかい? 楽しみだねぇ、リュシアン!」
膝の上でスケッチブックを大切そうに抱えたポルページが、子供のような破顔を見せる。
リュシアンは二人を客室のシートへと促し、車窓の向こうで夜霧に濡れるパリの街並みを静かに見つめた。
ガタゴトと車輪が重い音を立て始め、列車は滑るように闇の中へと走り出す。
「待っていろ、クリムージュ。君がどれだけ力づくで金を塗り潰そうと……僕たちがその偽りの黄金をすべて剥ぎ取ってみせる」
過去の記憶を宿した相棒ゲブ、無邪気な余韻の中に真実を秘めた師ポルページ、そして絵画の歪みを解き明かす修復士リュシアン。
三人を乗せた夜行列車は、新たな芸術の侵食が待つ楽都ウィーンを目指し、夜の静寂を切り裂いて突き進んでいくのだった——。




