第三章:大劇場の黄金と過飾の支配者
第三章:大劇場の黄金と過飾の支配者
階段を登りきった二人は、楽屋裏の通路を抜け、観客席の最上階——もっとも後方にある重厚な防音扉の前に辿り着いた。
リュシアンが隙間からそっと扉を押し開けると、目の前に広がっていたのは、19世紀パリの芸術の殿堂、ガルニエ宮の巨大な大劇場だった。
赤絨毯が敷き詰められた壮麗な桟敷席、天井から吊り下げられた煌びやかなシャンデリア。だが、本来なら絢爛豪華な熱気に満ちているはずのその空間は、冷たく異様な静寂に支配されていた。
観客席の豪華な金箔や壁画の細工は、すべてあの不気味な「幾何学的な冷たい黄金」に飲み込まれ、まるで劇場全体が一枚の巨大な絵画として固まったかのように息絶えている。
「……兄貴、あそこ……!」
隣で息をのんだゲブが、防音扉の影から舞台の方角を指差した。
無人の観客席を見下ろす広大な舞台の中央。
スポットライトのように天井の隙間から差し込む一筋の月光の下に、一人の男が佇んでいた。
深く被った紫のシルクハット。
仕立ての良い漆黒のコートを纏い、その胸元には重厚で禍々しい彫刻が施された「金の装飾壺」が抱えられている。
男は誰もいない客席に向かって静かに両腕を広げ、うっとりとその「完成された黄金の劇場」を見仰ぎながら、甘い金属の匂いを漂わせていた——。
舞台中央に佇む紫のシルクハットの男——。
静まり返った大劇場に、リュシアンたちの緊張した息遣いだけがかすかに響く。
「……あいつが、街で噂されていた紫のシルクハットの男……」
「兄貴、すごい匂いだ。あいつが抱えているあの金の壺……あそこから、街中を飲み込もうとしている冷たい黄金の匂いが溢れ出してる……!」
観客席の最後方の陰から、リュシアンとゲブは息を殺して舞台上を見据えていた。
男は静かに自らの手に抱えられた金の装飾壺を撫で、まるで大観衆の拍手を浴びているかのように、完璧に固まった幾何学的な黄金の客席へと深く一礼してみせた。
「……素晴らしい。実に完璧な美だ」
男の口から漏れたのは、恍惚とした低い声だった。
「音も、呼吸も、朽ちゆく肉体の醜さも……すべてをこの完璧な黄金で覆い尽くせば、永遠の美としてキャンバスに留めることができる。パリは、やがて至高の芸術品となるのだ……」
その言葉を聞いた瞬間、リュシアンの胸の中で修復士としての怒りと衝動が跳ね上がった。
絵画や芸術は、生きている人間の感情や時間を守るためにある。生命の温もりを奪い、冷たい金で固めて閉じ込めるなど、芸術への冒涜以外の何物でもない。
リュシアンは意を決し、防音扉の陰から一歩踏み出し、観客席の通路へと姿を現した。
「——そこまでだ!」
静寂に包まれていた大劇場に、リュシアンの通る声が鋭く響き渡る。
「街の建造物や芸術作品を冷たい金で侵食し、人々の温もりを奪っているのは君か! 紫のシルクハットの男!」
声を聞きつけた男はゆっくりと動きを止め、深く被っていたシルクハットの鍔を指先で持ち上げた。
スポットライトのような月光の下で、男の口元が妖しく吊り上がる。
「おや……無人の劇場に、無作法な観客が飛び込んできたようだね」
男は広大な客席の最後方に立つリュシアンと、その隣で警戒露わに身構えるゲブを見下ろし、優雅に、だがどこか歪んだ嘲笑を浮かべた。
「修復士の匂いがするな、青年。……それに、紫のシルクハットの男、か」
男はクスリと短く笑うと、抱えていた金の装飾壺を片腕で優雅に抱え直し、もう片方の手でシルクハットの鍔を軽く持ち上げてみせた。
「失礼だな。私にはちゃんと名前があるのだよ——クリムージュ。完璧なる美を完成させる者、とでも覚えてもらうとしよう」
月光を浴びたクリムージュの瞳が、妖しいゴールドの光を帯びて爛々と輝く。
「君のような若き修復士が、この至高の芸術を『侵食』などと浅はかな言葉で呼ぶとは嘆かわしい。時間の経過とともに朽ち、薄汚れていく絵の具や建造物、そしていずれ醜く衰えていく人間の肉体……それらを永遠の美の中に封じ込め、完璧な作品へと昇華させてあげているのだよ」
「……永遠の美だって?」
リュシアンは一歩前へ踏み出し、客席の通路から舞台上のクリムージュを強く睨み据えた。
「触れたものの温度を奪い、幾何学的な冷たい輝きで強制的に息の根を止めることが君の美学なのか! そんなものは芸術じゃない、ただの『死の固定』だ!」
「兄貴の言う通りだぞ!」
ゲブがダボダボの袖をまくり上げ、クリムージュに向かって吠えた。
「僕にはわかる! お前のその金の匂いからは、何の命の温かさも感じられない! お前がやってるのは、綺麗な箱に閉じ込めて殺してるのと同じだ!」
「ふむ……生き生きとした直感を持つ少年と、歴史を守ることに固執する青年か」
クリムージュは不快そうに眉を潜めることもなく、むしろ哀れむような溜息をついた。
「理解できないのは無理もない。愚者ほど、形あるものが崩れていく儚さを愛たがるものだ。だが——この装飾壺がパリ全土を黄金のキャンバスへと塗り替えた時、君たちも私の創り出す『完璧な調和』の一部となるのだよ」
クリムージュが抱えた金の壺の口から、冷たく甘い金属の匂いが一気に爆発するように噴き出した。
「さあ、見せてごらん。修復士の腕とやらで、私の『完璧』を否定できるものかどうかをね」
「否定してみせるさ。君のその身勝手な美学も、パリを殺そうとする冷たい金も!」
リュシアンの叫びと同時に、クリムージュが静かに金の装飾壺を掲げた。
「では、最初の塗料を受け取るといい」
壺の口から、冷たい黄金の粒子が津波のようなうねりとなって噴き出した。
幾何学的な結晶の群れが、赤絨毯の通路を凍りつかせながら、圧倒的な速度で客席を駆け登ってくる。触れた空気さえもがキチキチと音を立てて金色の結晶へと姿を変えていく。
「兄貴、左だ! 匂いが薄い!」
ゲブの鋭い叫びと同時に、リュシアンは左側の桟敷席へ飛び込んだ。
間一髪、二人が直前まで立っていた通路は、瞬く間に冷たく硬い黄金の彫刻へと変わり果てる。
「速い……! だが、攻撃の軌道が直線的だ!」
リュシアンは修復士の目を研ぎ澄ませた。
波のように押し寄せる黄金の濁流。だが、その表面をよく見れば、幾何学模様が交差する点にわずかな「絵の具のバインダーの繋ぎ目(歪み)」が存在している。
「ゲブ! あの金の波、中央の結晶が交差している結節点を狙うんだ! 僕が歪みを解体する!」
「了解!」
人間の体を得たゲブは、驚異的な跳躍力で客席の手すりを蹴った。
頭上からクリムージュへ向かって一直線に飛び込み、視線を舞台へと誘導する。
「ほう、すばしっこい鼠だな」
クリムージュがゲブへ向けて壺の口を向けた瞬間——
「そこだ!」
リュシアンが手にした修復ナイフに定着油を走らせ、客席を伝って伸びていた黄金のメインライン(結節点)へ向かって一直線に突き立てた。
パキィン!
甲高い砕裂音が劇場全体に響き渡る。
ナイフが捉えた「歪みの起点」から定着油が侵入し、波のように押し寄せていた黄金の結晶が一気に推進力を失い、ただの脆い金の粉となって床へ崩れ落ちた。
「なに……!? 私の完璧な構造の結節点を、一瞬で見抜いて解体したというのか!?」
初めてクリムージュの表情から余裕が消え、紫のシルクハットの下の瞳が驚愕に見開かれた。
「言ったはずだ、僕は修復士だと! どんなに強固に見える絵の具でも、歪みがある限り、解読して元の形へ戻すことができる!」
間髪入れず、頭上から飛び降りたゲブが、クリムージュの手元にある「金の装飾壺」を目がけて力いっぱい手を伸ばす。
「その怪しい壺、渡してもらうぞ!」
「くっ……無礼な小童が!」
クリムージュは慌てて壺を抱え込み、後方へと大きく踏みみ外すように身を引いた。
ゲブの指先が壺の側面にかすかに触れ、爪が金の表面を引っ掻く。
ガリッという金属音と共に、クリムージュの足元がつき崩れ、彼は優雅さを失って舞台の壁際へと追い詰められた。
舞台裏の暗居を背にし、抱えた壺を庇うようにかばうクリムージュ。
通路を駆け下りて舞台へと飛び降りたリュシアンと、その隣で低く身構えるゲブ。
二人は挟み込むようにして、ついに冷たい黄金の元凶であるクリムージュを、舞台の角へと完全に追い詰めた。
「お前がやっているのは修復でも芸術でもない。ただの『歴史の隠蔽』だ。建物の亀裂も、人の皮膚の傷も、水や湿気という『生きている証拠』を内側に閉じ込んだまま、力づくで金で塗り潰しているだけだ!」
リュシアンの通る声が、冷たく凍りついたオークション・サロンに鋭く突き刺さる。
「それがどうした!」
追い詰められたクリムージュが激昂し、幾何学の金細工が施された両腕を広げた。
「傷や老い、不完全さなど醜悪な負債だ! 金の輝きですべてを力づくで覆い隠せば、人は衰えの恐怖から解放される! これこそが人を救う絶対の美だ!」
「いいや、違うね!」
リュシアンの隣で、ゲブが大きすぎる上着の袖を握りしめて叫んだ。
「傷があるから、不揃いだから愛おしいんだ! 兄貴が僕に教えてくれた! お前が塗ってる金ピカのやつなんて、中身が腐ったら全部ペロンって剥がれちゃうんだぞ!」
ポルページのあの一言——「内側から湿気でお腹をこわしちゃうんだぁ」という呟きを想起させるその言葉を放った瞬間、クリムージュの顔色が目に見えて変わった。
「な……なに……!?」
「見抜かれているぞ、クリムージュ」
リュシアンは静かに、だが確信に満ちた声で追い打ちをかけた。
「お前の『黄金の結晶絵の具』は、基材である異世界の黒き結晶の膨張率と、パリの湿度の変化を計算に入れていない。お前が金で塗り潰したセーヌ川の橋も、貴婦人たちの黄金像も……あと数日もすれば内側からの圧力に耐えかねて、すべて惨めに崩壊する」
「言わせておけば……この無知な修復士めが!!」
追い詰められたクリムージュは狂ったように叫び、懐から一本の金の絵の具チューブを取り出すと、サロンの床へと叩きつけた。
——ドカンッ!!!
まばゆいばかりの金の粉塵と光が爆発的に空間を埋め尽くした。
「兄貴、前が見えないよ!?」
「くっ……目のくらまし連中か!」
リュシアンは咄嗟にゲブをかばい、袖で視界を覆った。
金の粉塵が舞う中、サロンの最奥——オペラ座の地下深くへと続く壁が観音開きに割れ、そこから冷たい夜風が吹き込んできた。隠された地下蒸気機関の逃走用ルートだ。
金の光の奥から、憎悪に満ちたクリムージュの絞り出すような声が響きわたる。
「……認めん。私の金飾美学が破綻しているなど、絶対に認めんぞ……!」
「待て、クリムージュ!」
リュシアンが光の幕を押し分けて飛び出したが、すでにクリムージュは蒸気仕掛けの密閉トランク型車輌に飛び乗っていた。
鉄の扉が閉まる直前、クリムージュは血走った目でリュシアンとゲブを睨みつけ、金箔に塗れた指先を突きつけた。
「パリの愚民どもに私の美が理解できぬというのなら、もはやこの街に用はない! 私は『真の金の都』へ向かう……! 芸術が、装飾が、金箔が正当に崇められるあの地へな!!」
——ガシャンッ! ゴオオオオ……!
重厚な鉄の扉が閉まり、地下線路を伝って車輌が凄まじい速度で闇の奥へと走り去っていった。
あとに残されたのは、急速に輝きを失い、ボロボロと剥がれ落ちていくサロンの虚しい金箔の破片だけだった。
「……逃げられたか」
リュシアンは悔しそうに拳を握り締め、ナイフを収めた。
「兄貴、大丈夫! 奴の匂いは覚えたよ!」
ゲブがダボダボの袖で鼻を拭い、力強くリュシアンの顔を仰ぎ見た。
「甘くて冷たい金属の匂い……どれだけ遠くに逃げたって、僕の鼻ならパリのどこにいたって追いかけられる! 奴が次の『キャンバス』を狙う前に、必ず見つけ出してみせるよ!」
「……ああ、ありがとう、ゲブ」
リュシアンは誇らしげに胸を張る弟の肩を抱き寄せ、静まり返った大劇場を見渡した。




