↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
33/33

32話 署名

 わたしの名前は、いま、この手紙のいちばん最後にある。


 羽根ペンを握って、わたしは今日も「愛しています」と書く。けれど、もう姉の名ではない。姉の署名でもない。わたしの言葉で。わたしの、名前で。


 宛先は、エイダン。七年、便箋の余白でだけ言葉を交わし、いまは同じ屋根の下で朝を迎える人。


    *   *   *


 あの人は、朝、わたしの声で目を覚ます。夜、わたしの手をとって眠る。


 七年、文字だけだったものが、いまは声になり、ぬくもりになった。かつては、この世にひとつきりの手蹟だけが、あの人とわたしをつないでいた。いまは、その同じ手を、あの人が両手で包んでくれる。


 かつて、これは姉の恋だった。わたしはただ、その手にすぎなかった。名前のない、ただの手。


 けれど、いまは違う。


 これは、わたしの恋だ。わたしの、言葉だ。そして、この手は、わたしの手だ。


    *   *   *


 あの日、こわくて気づかないふりをしていた、あの一語。


 恋文の下に、あの人が命がけで隠していた、もう一通の手紙。読み解いてしまえば、ただの恋では済まなくなると知りながら、わたしは、とうとうそれを読んだ。


 いまなら、分かる。


 あの一語を読んだからこそ、あの人は生きている。名前のないわたしの、たったひとつの取り柄だった「読む力」が、あの人を救った。いちばんこわかった一語が、いちばん深いところで二人を結んでくれた。


 こわがらずに、読んでよかった。


    *   *   *


 今日、わたしは、あの人の妃になる。


 白い衣をまとって、鏡の前に立つ。そこに映るのは、もう、うつむいた影ではない。顔を上げた、ひとりの女だ。名前を持った、シャルロット・ラヴィエールだ。


 支度の合間に、わたしは、書きあげたばかりの手紙をもう一度読み返した。あの人への、はじめての、わたし自身の恋文。借りものの言葉は、ひとつもない。


 そして最後に、羽根ペンで署名をする。


 姉の名では、ない。


 シャルロット。


 七年、どこにもなかったわたしの名前が、いま、この手紙のいちばん最後に、たしかにある。


    *   *   *


 窓の外は、よく晴れていた。


 どこかで、婚礼の鐘が鳴りはじめる。


 わたしは、書きあげた手紙をそっと胸に抱いて笑った。


 ——お前の言葉に価値などない、と言われた娘は。


 いま、自分の名前で、笑っている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。