32話 署名
わたしの名前は、いま、この手紙のいちばん最後にある。
羽根ペンを握って、わたしは今日も「愛しています」と書く。けれど、もう姉の名ではない。姉の署名でもない。わたしの言葉で。わたしの、名前で。
宛先は、エイダン。七年、便箋の余白でだけ言葉を交わし、いまは同じ屋根の下で朝を迎える人。
* * *
あの人は、朝、わたしの声で目を覚ます。夜、わたしの手をとって眠る。
七年、文字だけだったものが、いまは声になり、ぬくもりになった。かつては、この世にひとつきりの手蹟だけが、あの人とわたしをつないでいた。いまは、その同じ手を、あの人が両手で包んでくれる。
かつて、これは姉の恋だった。わたしはただ、その手にすぎなかった。名前のない、ただの手。
けれど、いまは違う。
これは、わたしの恋だ。わたしの、言葉だ。そして、この手は、わたしの手だ。
* * *
あの日、こわくて気づかないふりをしていた、あの一語。
恋文の下に、あの人が命がけで隠していた、もう一通の手紙。読み解いてしまえば、ただの恋では済まなくなると知りながら、わたしは、とうとうそれを読んだ。
いまなら、分かる。
あの一語を読んだからこそ、あの人は生きている。名前のないわたしの、たったひとつの取り柄だった「読む力」が、あの人を救った。いちばんこわかった一語が、いちばん深いところで二人を結んでくれた。
こわがらずに、読んでよかった。
* * *
今日、わたしは、あの人の妃になる。
白い衣をまとって、鏡の前に立つ。そこに映るのは、もう、うつむいた影ではない。顔を上げた、ひとりの女だ。名前を持った、シャルロット・ラヴィエールだ。
支度の合間に、わたしは、書きあげたばかりの手紙をもう一度読み返した。あの人への、はじめての、わたし自身の恋文。借りものの言葉は、ひとつもない。
そして最後に、羽根ペンで署名をする。
姉の名では、ない。
シャルロット。
七年、どこにもなかったわたしの名前が、いま、この手紙のいちばん最後に、たしかにある。
* * *
窓の外は、よく晴れていた。
どこかで、婚礼の鐘が鳴りはじめる。
わたしは、書きあげた手紙をそっと胸に抱いて笑った。
——お前の言葉に価値などない、と言われた娘は。
いま、自分の名前で、笑っている。




