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スピンオフ02 合理主義者の休日

07:00 AM システム起動

***


 カーテンが自動で開き、朝の日差しが網膜を刺激する。

 アラームが鳴る3分前、6時57分。私の脳は覚醒した。


 スマートスピーカーが今日の天気(晴れ)と株価(微増)を読み上げる中、私はベッドから起き上がり、キッチンへ向かう。

 朝食は完全栄養食のゼリー飲料と、ブラックコーヒー。


 服はクローゼットにかかっている同じデザインの白シャツと、黒のスラックス。

 選択の余地はない。かの高名な経営者も実践していたように、衣服を選ぶという「決断のコスト」を朝から消費するのは愚策だ。


「今日の予定……神保町にて技術書3冊の購入、14時からジム、16時から来週の資料作成」


 完璧だ。一分の狂いもない。

 休日は休息の日ではない。平日のパフォーマンスを最大化するための「メンテナンス期間」だ。

 私は満足げに頷き、整然とした部屋を出た。



11:00 AM 神保町という名のダンジョン

***


 神保町の交差点。

 私の目的は、交差点を渡った先にある大型の新刊書店。

 そこには最新の技術書が体系的に並べられている。検索機もあり、在庫の有無も一秒で分かる。


 対して、この路地裏に密集する「古書店街」は、私にとって理解不能なエリアだ。

 検索性ゼロ。湿度管理も怪しい。紙魚しみと埃の巣窟。情報は古く、実用性など皆無に等しい。


「……行くか」


 信号が青に変わり、私は歩き出した。

 と、その時。

 路地裏の薄暗い古書店の前に、奇妙な物体がしゃがみ込んでいるのが見えた。


 くすんだマスタード色のワンピースに、瓶底のような丸眼鏡。

 その物体は、ワゴンの中の古雑誌を食い入るように見つめ、ブツブツと何かを呟いている。


「……待って、この時代の写植、詰めすぎじゃない? 愛おしい。インクの滲みがエモすぎて辛い……」


 聞き覚えのある声。いや、休日に聞きたくなかった声。

 私の脳内CPUが即座に計算する。


『対象:一ノ瀬あかり(休日Ver.) → リスク:回避推奨 → アクション:無視して直進』


 私は視線を正面に固定し、早足で通り過ぎようとした。


「あっ! 佐伯さん!?」


 バグ捕捉。

 背後から、平日には聞いたこともないような甲高い声が飛んできた。


「……奇遇だな、一ノ瀬さん。では」

「ちょっと待ってくださいよ! 今、一瞬『逃げよう』って判断しましたよね? その合理的判断、正解ですけど傷つきます!」


 一ノ瀬が私のジャケットの袖をガシッと掴んだ。

 近い。

 平日の「空気のような量産型女子」はどこへ行ったのか。今日の彼女は、距離感の設定がバグっている。


「離してくれ。僕は新刊を買いに……」

「新刊? ダメですダメです! 佐伯さんみたいな『左脳の塊』にこそ、このカオスが必要なんです。ちょっと来てください!」

「は? 僕は予定が……」

「いいから! ほら、この1970年の科学雑誌見てください! 未来予想図が全部ハズレてて最高なんですよ!」


 彼女は私の抗議を完全にスルーし、埃っぽい古書店の奥へと私を引きずり込んだ。

 予定外のプロセス発生。

 私の完璧な休日は、ここでエラーを吐いて停止した。



11:30 AM 検索不能な紙の森

***


「いいですか佐伯さん、ここはいわゆる『沼』です」


 店内は、古紙特有の甘酸っぱい匂いが充満していた。

 本が崩れそうなほど高く積まれ、通路は人一人がやっと通れるほど狭い。


「……一ノ瀬さん。僕は『React』の最新技術書が欲しいんだ。こんな昭和の遺産に用はない」

「チッチッチッ」


 彼女は丸眼鏡を押し上げ、ニヤリと笑った。


「検索窓に入力できる言葉なんて、自分が『知っていること』だけじゃないですか。ここは検索できないからこそ、未知の『出会い』があるんです」

「……詭弁だ」

「はいこれ! 見てください!」


 彼女が押し付けてきたのは、分厚い活版印刷の見本帳だった。


「この『あ』の字の髭! 活字の圧力で紙がちょっと凹んでるの、分かります? これが『物理』です!」

「物理なのは見れば分かる……」


 私は溜息をつき、しぶしぶその本を開いた。

 パラ、とページをめくる。

 目に飛び込んできたのは、整然としたデジタルのフォントとは違う、インクの濃淡と、紙の繊維に食い込むような力強い文字の羅列だった。


 情報は古く、実用性は皆無。

 だが……。


「……ふむ」


 指先で、文字の凹凸をなぞる。

 確かに、モニター越しには感じられない「質感テクスチャ」がある。

 情報が質量を持って、指先から脳へ直接流れ込んでくるような感覚。


「ね? ヤバいですよね? その『ぬ』の払いとか、職人の吐息が聞こえそうじゃないですか?」

「……吐息は聞こえないが、言わんとすることは分からなくもない」

「でしょ!? じゃあそれ、買いましょう。経費で落ちないけど心の栄養費です」

「なぜ君が決める」


 10分後。

 私はなぜか、数キロはあるであろう重たい見本帳を小脇に抱え、会計を済ませていた。

 彼女は「やった、布教成功!」とガッツポーズをしている。

 ……理解不能だ。だが、この重みは不思議と不快ではなかった。



13:00 PM ロード時間の長い喫茶店

***


「戦利品もゲットしたし、休憩しましょう」


 次いで連行されたのは、古書店街の地下にある純喫茶だった。

 案の定、行列ができている。


「一ノ瀬さん、20分待ちだ。時間の無駄だ。チェーン店なら待ち時間ゼロで……」

「佐伯さん、その『無駄』を味わうのが休日です。それに、並んでる間にさっきの本、読めるじゃないですか」


 彼女はそう言うと、持参していた文庫本カバーがボロボロだを取り出し、立ったまま読み始めた。

 私は小さく舌打ちを一つして、先ほど買った見本帳を開いた。


 30分後。ようやく席に通される。

 注文した「水出しコーヒー」が出てくるまで、さらに20分かかった。


「……遅すぎる。豆を育てるところから始めているのか?」

「一滴ずつ抽出してるから美味しいんですよ。ほら、飲んでみて」


 促されて一口飲む。

 雑味のない、深い苦味が口の中に広がり、鼻腔へと抜けていく。


「……悪くない」

「でしょ?」


 彼女はクリームソーダのアイスを崩しながら、満足げに笑った。


「佐伯さんの作るWebサイトは完璧です。でも、たまにはこういう『読み込みに時間がかかるけど、味が深いコンテンツ』があってもいいと思いませんか?」


 ドキリとした。

 彼女は、先日の仕事のことを言っているのだろうか。

 AIが弾き出した最適解ではなく、彼女がF12キーで書き換えた、泥臭いCSS。


「……君の言う『非効率』の正体が、少しだけ分かった気がするよ」


 私はコーヒーカップを置き、重たい見本帳の表紙を撫でた。

 効率化された世界では切り捨てられるノイズ。

 だが、そのノイズこそが、人の記憶にフックをかける「爪痕」になるのかもしれない。


「おっ、デレましたね? 合理主義の要塞が陥落しましたか?」

「デレてない。データの更新を行っただけだ」

「はいはい、そういうことにしておきましょう」



16:00 PM アルゴリズムの更新

***


 一ノ瀬と別れ、帰宅したのは16時ジャストだった。

 予定していた「来週の資料作成」の時間だ。


 私はデスクに座り、PCを開く。

 しかし、ふと視線を横に向けたその先には、今日買ってきた古びた見本帳が置かれていた。

 ミニマルな私の部屋には似つかわしくない、茶色いシミのついた異物。


「……ま、たまにはいいか」


 私はスケジュールアプリを開いた。

 『16:00 資料作成』の項目を削除。

 代わりに『16:00 インプット(紙媒体)』と入力した。


 PCをスリープモードにする。

 コーヒーを淹れ直し、私は重たい本のページをめくった。

 インクの匂いが、ふわりと漂う。


 合理的な男の休日に、ほんの少しだけ「余白」という名のバグが混入した瞬間だった。

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