スピンオフ01 量産型女子の週末
10:00 AM 脱皮と換装
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土曜日の朝、10時。
私はクローゼットの前で、平日の私――「量産型女子・一ノ瀬あかり」の抜け殻を見下ろしていた。
ベージュのトレンチコート。無難な白のブラウス。歩きやすいが個性の死んだパンプス。
これらは、月曜から金曜まで、私が社会という荒波を「波風立てずに」戦い抜くための戦闘服。
「よし、今週もお疲れ。来週までそこで寝てて」
私は平日の「鎧」を端に追いやり、奥から「本命装備」を引っ張り出す。
高円寺の古着屋で発掘した、昭和四〇年代製の柄ワンピース。くすんだマスタード色に、幾何学模様が散りばめられたそれは、見る人が見れば「お婆ちゃんの服?」だが、そんなことは放っておいて欲しい。私にとっては「神が宿る布」なのだ。
仕上げに、度の入っていない丸眼鏡をかける。
鏡の中の私は、どこからどう見ても「こじらせた文化系サブカル女子」だが、これがいいのだ。これが本当の私のデフォルト設定なのだから。
「……ん、よし。今日も世界は適度に汚れてる」
謎の確認をして、私は部屋を出た。
今日の天気は晴れ。絶好の「採取」日和である。
11:30 AM 谷中のフォント狩り
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目的地は、再開発の噂が流れる谷中・根津エリア。
私の目的は、食べ歩きでもインスタ映えでもない。
――「フォント狩り」だ。
路地裏に入り込むと、そこは宝の山だった。
まず目に飛び込んできたのは、閉店して久しいスナックの看板。
アクリル板が割れ、赤と青のカッティングシートが剥がれかけている。
『スナック 』
店名の後半が欠落し、ただの『スナック』になっている。
私はスマホを構え、その「ッ」の文字に限界まで寄った。
(……待って、尊い。この「ッ」の払いのカーブ、定規じゃ絶対に出せない角度。手書き職人の手癖がにじみ出てるじゃない……!)
脳内で早口のオタク・あかりが絶叫する。
風雨に晒され、紫外線に焼かれたプラスチックの質感。Photoshopのノイズフィルターを何回重ねても、この「本物の劣化」は再現できないだろう。
シャッターを切る。
カシャ、カシャ、カシャ。
傍から見れば、ゴミ捨て場を撮影する不審者だろう。でも構わない。ここには、AIが学習データから弾いてしまう「歴史」があるのだ。
ふと、大通りに出ると、新しい美容脱毛サロンの看板が目に入った。
ツルツルの肌をしたモデル。完璧なサンセリフ体のフォント。
『自信は、素肌からはじまる』
私は「うっ」と小さく呻いた。
眩しい。白すぎる。ノイズがなさすぎて、視線が滑り落ちる。
平日の私は、こういう「正解」を作る仕事をしている。でも、今の私には、あの完璧な肌よりも、このひび割れたコンクリート壁の方がよほど美肌に見えるのだ。
13:00 PM ジャンク品との邂逅
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路地裏の奥まった場所に、煎餅の匂いと古道具の匂いが混じる店があった。
店先には、みかん箱のようなワゴンが無造作に置かれている。
『ガラクタ ―ご自由にご覧ください―』
直球すぎるPOPに惹かれて覗き込む。
欠けた湯呑み、動かない置時計、作者不明、謎の木彫りの熊。
そのガラクタの海に、鈍く光る金属の塊があった。
ハーフサイズのフィルムカメラだ。
ずっしりと重い。メーカーのロゴは削れ、ファインダーはカビで白く曇っている。
値札にはマジックで殴り書き。
『ジャンク。動きません。500円』
「……500円かあ」
合理的な「平日あかり」の人格が、脳内で警告音を鳴らす。
『一ノ瀬さん、それはただの産業廃棄物です。修理に出せばオーバーホールで三万円コース。スマホの方が一億倍綺麗に撮れます。即刻リリースしてください』
正論だ。
佐伯さんがここにいたら、鼻で笑って通り過ぎるだろう。
けれど、私の指先は、そのカメラのシャッターボタン周りを撫でていた。
黒い塗装が剥げ、下地の真鍮が金色に覗いている。
(……これ、前の持ち主が、何千回もここを押したんだ)
家族を撮ったのか、恋人を撮ったのか、それとも風景か。
何千回もの「残したい」という感情が、この塗装を摩耗させたのだ。
そう思ったら、このボロボロの鉄塊が、過去の「瞬間」を何度も切り取ってきた『時間の塊』に見えてきた。
「おじさん、これください」
「んあ? お嬢ちゃん、それ壊れてるよ。飾りにもなりゃしない」
店主の爺ちゃんが煎餅をかじりながら呆れている。
「いいんです。この傷が、いい感じなんで」
私は五〇〇円玉をチャリンと置いた。
「モノ好きだねえ」
うん。最高の褒め言葉だ。
14:30 PM 心のF12キー
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近くの純喫茶に入り、ナポリタン(銀皿に乗った王道のやつ)を注文した後、私は儀式を始めた。
カバンから、常備している無水エタノールと綿棒を取り出す。
急遽、本日のメインイベントとなった「清掃」の時間だ。
Webデザインの仕事で、画像のノイズを除去する作業は「単純労働」だ。
けれど、このカメラの汚れを拭う作業は「対話」だ。
綿棒にエタノールを浸し、ファインダーの隅を優しく擦る。茶色い汚れが取れるたび、カメラが「ふう」と息をついている気がする。
(君は、どんな時代を見てきたのかな? 平成? それとも昭和?)
ボディの革張りの手油を拭き取り、レンズを磨く。
動かなくてもいい。ただ、こびりついた汚れを落として、刻まれた傷だけを残してあげたい。
三〇分後。
テーブルの上には、鈍い輝きを取り戻したカメラが鎮座していた。
傷だらけだが、威風堂々としている。
「やば……めちゃ、イケメンじゃん」
私はナポリタンを頬張りながら、独りごちた。
ダメ元で、巻き上げレバーを回してみる。
ジャリ、という砂を噛むような感触。
やっぱりダメか。
そう思いながら、シャッターボタンに指をかけた。
前の持ち主が、何千回も押した、その窪みに。
――カシュッ。
乾いた、それでいて芯のある音が、店内に小さく響いた。
「……え」
嘘。切れた。
シャッター幕が動いた気配があった。
もう一度、レバーを巻く。カシュッ。
「生きてる……?」
完全に壊れているわけじゃなかった。瀕死だけど、まだ息をしている。
きっと今の私は、今日一番の、いや、今週一番の笑顔だと思う。
17:00 PM エピローグ
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店を出ると、夕暮れが商店街をオレンジ色に染めていた。
私は生き返ったカメラを構え、ファインダーを覗く。
カビのせいで視界は白く霞んでいるし、ピントも合っているか怪しい。
露出計も死んでいるから、たぶんまともに写ってはいないだろう。
でも、ファインダー越しの世界は、高解像度の4Kモニターよりも、ずっと温かくて、愛おしかった。
カシュッ。
今日という一日を、不完全な音で記録する。
「……さて」
来週のスケジュールを思い出す。
月曜から、また佐伯さんと新しいLP制作だ。
求められるのは「清潔感」「信頼」「洗練」。
ノイズなど許されない、真っ白な世界。
「来週もまた、『正解』のデータを作りにいきますか」
私はカメラをそっと鞄にしまった。
少し重たくなった鞄の重みが、心地よい。
平日の私は、ノイズを消すオペレーターかもしれない。
けれど、私の鞄の底には、いつだってこの「愛すべきノイズ」が入っている。
そう思うだけで、あの殺風景なオフィスも、少しだけ息がしやすくなる気がした。




