第11話 恩人とアルゴリズム
定時退社を死守した火曜日の夕暮れ。
私、一ノ瀬あかりは、いつもの純喫茶『琥珀』の奥の席で、深く焙煎されたブレンドコーヒーの香りに包まれていた。
使い込まれて飴色になった木のテーブル。
少し暗めの照明。店内に流れる控えめなジャズのレコード音。
先週まで観光協会の運用トラブルですり減っていた私の神経が、この「愛すべきノイズ」の中でゆっくりと溶かされていくのを感じる。
「おっ、あかりちゃん。今日もきっちり一八時上がりか。優秀だねえ」
突然、背後からかけられた声に振り向くと、くたびれたジャケットを着た男性が立っていた。
無精髭に、少し寝癖のついた髪。右手には分厚い文庫本が握られている。
フリーランスのライター、小寺真一さん。皆から「デラさん」と呼ばれている、この店の常連仲間だ。
「デラさん、お疲れ様です。今日は原稿、進みました?」
「全然。フリーの特権で、今日は早めに仕事じまいにしちまった」
デラさんはガハハと笑い、私の向かいの席にどっこいしょと腰を下ろした。
デラさんは、うちの会社の外部パートナーとして、時々取材やライティングの仕事を受けているライターだ。
特に「効率モンスター」こと佐伯賢人とは、彼が新人だった頃からよく組んでいたらしい。取材対象者の懐への入り方や、相手の言葉を引き出すイロハは、すべてデラさんが叩き込んだのだと聞いたことがある。
「そういや、最近どう? 佐伯の奴、元気にやってるか?」
デラさんがポケットから煙草の箱を取り出しながら――今は吸わないが、手持ち無沙汰で触るのが癖らしい――、ふと尋ねてきた。
「ええ、相変わらずですよ。今日もAIと睨めっこしながら、爆速で仕事してましたよ」
「ハハッ、アイツらしいな」
デラさんは笑ったが、その目尻の皺の奥に、ほんの少しだけ寂しげな翳りが差したのを私は見逃さなかった。
「……最近、アイツから全然声がかからなくてな。まあ、佐伯ももう立派なディレクターだ。俺みたいなアナログな人間の手は、もう要らないんだろうな……」
「そんなことないですよ。佐伯さんはただ、予算と効率を優先しているだけで……」
フォローしようとした私の言葉を、デラさんはひらひらと手を振って遮った。
「いいんだよ、あかりちゃん。実際、AIの吐き出す文章は綺麗で整ってる。情報伝達って意味じゃ、俺よりよっぽど優秀かもな。……まあ、少しだけ『体温』が低い気はするけどな」
デラさんはコーヒーカップの縁を指でなぞりながら、遠くを見るような目をした。
その横顔を見て、私は胸の奥が少しチクリと痛んだ。
***
翌朝。
「一ノ瀬さん、少し打ち合わせの時間、取れるか?」
出社するなり、佐伯が私のデスクにやってきた。手には真新しいクリアファイルが握られている。
「はい。新しい案件ですか?」
「ああ。中小企業ではあるが、やりがいのありそうな案件だ」
ミーティングルームに移動し、佐伯は大型モニターに、とある企業のロゴを映し出した。
「クライアントは、創業八〇年の老舗『大和金属工業』。主に工場向けの精密部品を作っているBtoBの会社だが、長年の技術力を活かして、一般消費者向けのキャンプギアの新事業を展開することになった」
「へえ、面白そうですね」
「それに伴い、企業ブランド全体を見直したいというのが先方のオーダーだ。ブランディング含め、コーポレートサイトの全面リニューアルを予定している」
ブランドの刷新。コーポレートサイトのリニューアル。
それはつまり、単なる「情報」や「コンテンツ」の整理ではない。その企業が何を大切にし、どこへ向かうのかという『魂』を言語化し、デザインに落とし込むという重い作業だ。
私はふと、昨晩の喫茶店での光景を思い出していた。
(……魂の言語化。デラさんの出番じゃない?)
「佐伯さん。ブランディングとなれば、社長や社員の方々の想いを汲み取る、入念な言葉選びが必要ですよね……」
私は探りを入れるように尋ねてみた。
「キャッチコピーやライティングがサイトの出来を左右する重要な要素になります。プロのライターをアサインしますか?」
私は「小寺さん」と直接名前を出すのは避けた。あくまでプロジェクトを進めるにあたっての真っ当な提案として問いかける。
しかし、佐伯は一瞬だけ考える素振りを見せたものの、すぐに首を横に振った。
「いや、予算とスピードの観点から、今回は社内で巻き取る」
「社内で、ですか? でも、私たちライティングの専門家じゃないですよね……」
「私が社長に直接ヒアリングを行う。その録音データを最新のAIに読み込ませ、市場データと照らし合わせながらペルソナ分析とコピーを生成する」
佐伯の口調は、いつも以上に滑らかで、論理の隙間がなかった。
「外部のライターに依頼すれば、スケジュールの調整や原稿の確認で最低でも十日はロスする。AIを使えば、ヒアリングの翌日には数十パターンのコピー案が提示できる。品質的にも何ら問題はない」
佐伯の意見は紛れもない正論だ。
プロジェクトを管理する立場として、コストと納期を圧縮するのは正しい判断だと言える。
でも、私は佐伯の横顔に、ほんの少し『不自然な固さ』を感じていた。
佐伯は、デラさんの実力を誰よりも知っているはずだ。
それなのに、なぜそこまで頑なに「自分とAI」だけで完結させようとするのだろうか。
それはまるで、「自分はもう小寺さんの教え、あるいはアナログ的な手法がなくても、ひとりで完璧なディレクションができる」と、自分自身に証明しようとしている意地のようにも見えた。
「……分かりました。では、私はデザインの方向性を検討しておきます」
「頼む。明日の午後、早速ヒアリングに行ってくる」
ミーティングルームを後にする佐伯の背中を見つめながら、私は嫌な予感を拭えずにいた。
数字や理屈では割り切れない『企業ブランド』という魔物に、AIの生成能力がどこまで通用するのか。
そして、佐伯が否定しているように見えた「アナログな体温」が、どれほど重い意味を持つのか。
この時はまだ、誰も気づいていなかったのだ。




