好奇心と焦がれ、辺境伯令嬢の目に映るもの
ヴェルヴェーヌ辺境伯家の応接間には、朝の穏やかな陽光が差し込んでいた。
エレオノーラ・ヴェルヴェーヌは、淡いミルクティーを一口含みながら、膝上に開いた書簡へと視線を落とす。紙の端には、整った筆跡で簡潔に記されていた。
――ラヴェンダー子爵領にて、市の開催が継続中。定期開催に移行し、来客も徐々に増加しているとのこと。
「まさか、本当に“市”を続けていたなんてね……」
呟きは、誰に向けたものでもない。
けれど心の内では、はっきりとひとりの少女の姿が浮かんでいた。
リリス・ラヴェンダー。
わずか八歳にして、あの王都で“自分の信念を語った少女”。
あの時はただの興味本位で招いたお茶会だったが、思いのほか深く印象に残ってしまったのが、エレオノーラにとっては少々気に食わなかった。
(あれから三か月……何もなければ自然と話題から消えると思っていたのに)
だが現実には、市は継続され、辺境伯領にまでその“妙な催し”の噂が届いている始末。
人が集まるところに商機は生まれる。そんなことは、貴族であれ分かっている。ましてや――あの子がそれを仕組んでいるというなら、なおさら確かめたくなる。
「別に、暇だったわけじゃないのだけれど……」
紅茶のカップを置いたエレオノーラは、すっと立ち上がった。
「ミレーユ、準備を。今日はラヴェンダー子爵領へ向かいますわ」
控えていた侍女がすぐに動き出す。
エレオノーラは窓辺に立ち、空を見上げた。まばゆい日差しの先に、まだ見ぬ“市”がある。その小さな世界が、どんな風に息づいているのか――
(ただの子供の遊びで終わっていれば、それでいいのだけれど)
それでも心の奥底で、ほんの少しだけ、期待するような焦がれるような感情が燻っていた。
馬車の扉が静かに開かれると、むわりとした夏の空気が流れ込んできた。
「……思っていたよりも、ずっと人がいるのね」
エレオノーラは、木製の仮設アーチをくぐりながら、広場の光景に目を細めた。
舗装されていない土の広場には、質素ながら整然と並べられた屋台と露店。そして、そこに集う人々の熱気。農夫、主婦、見慣れぬ商人、子どもたちの歓声――。
無秩序ではない。むしろ、意図された“流れ”があるようにすら見える。
「この程度の人出、どこにでもある小規模な市と大差ない……はずですわよね」
口ではそう言いながら、視線は次々と動いていた。
干し野菜の袋詰めが美しく並ぶ屋台、石鹸や香草の束が売られる商人の声色、卵を抱えて笑う子どもの姿。
そのどれもが、地方の小貴族の町にしては――奇妙なほど、活気に満ちていた。
(誰かが“考えて”、これを運営している)
直感が告げていた。
そして、その“誰か”の姿を探すのに、時間はかからなかった。
小柄な少女が、広場の中央付近、荷台の陰から人々の様子を見守っている。
整った金の髪。きちんとしたワンピースの裾が風に揺れている。
その傍らには、見覚えのある黒髪の侍女。
「……あれが、リリス・ラヴェンダー」
誰にともなく呟いた瞬間、少女がこちらに気づいた。
視線が交わる。相手の目は、かつて王都で見た時と、まったく同じ光を宿していた。
(やっぱり、あの子……ただの“田舎の令嬢”ではない)
鼓動がほんの少しだけ高鳴るのを感じながら、エレオノーラは口元に笑みを浮かべた。
「少し、挨拶をしてまいりましょうか」
軽やかにスカートを翻し、ヴェルヴェーヌ令嬢は人混みの中へと歩み出した。
「――ごきげんよう、リリス・ラヴェンダー」
ふと声をかけると、少女はほんの一瞬だけ目を丸くし、それからすぐに軽く会釈を返してきた。
「ごきげんよう、エレオノーラ・ヴェルヴェーヌ様。こんな辺境までようこそいらっしゃいました」
相変わらず、年齢不相応な口調と立ち居振る舞い。だが、どこかぎこちなさも含んでいた王都でのそれとは違う。今の彼女は、この土地の空気の中で――確かに“根を張っている”。
「最近、辺境伯領にまで噂が届いていましたの。子爵領で“市”が開かれていると。しかも、ただの年一回の収穫祭ではなく、定期的に」
「そうですね。今では月に二回。今日が七回目です」
「まぁ。よく続いているものですこと」
わずかに揶揄するように口にしたが、リリスはそれに乗らなかった。
「はい。おかげさまで。まだまだ不安定ではありますが、少しずつ流れは出来てきました」
感情を抑えた語り口、だが確かに手応えを持っている者の言葉だった。
その瞬間、エレオノーラは不意に、何かを刺すような焦燥感を覚えた。
(本当に“やっていた”のね、この子……)
あのとき、貴族としての矜持を語った小さな令嬢。あれは一時の背伸びでも、奇抜な演出でもなかった。彼女は今、目の前で――“有言実行”をしてみせている。
(でも、それがどうしたというの?)
心のどこかがざわめく。
認めたくない気持ちと、認めざるを得ない現実とが、入り混じって、内側で拮抗している。
「ずいぶんと、楽しそうですのね。“商人のまねごと”が」
それは、最後の意地だった。
貴族としてのプライド、辺境伯令嬢としての立場。あの子がどれだけ努力していても、それを正面から褒めてしまえば、何かが揺らいでしまう気がした。
だがリリスは、一切表情を崩さなかった。
「まねごとに見えますか? けれど、買いに来てくれる人がいて、喜んでくれる人がいるなら――その“まね”に価値があると、私は信じています」
その声は、まっすぐだった。
まっすぐで、まぶしかった。
エレオノーラは一拍遅れて、ふっと笑った。
「……相変わらず、言うことが憎たらしいですわね。あなたって」
人混みのざわめきが、どこか遠く感じられた。
目の前で話すリリスの姿を見つめながら、エレオノーラは静かに息をつく。
(どうして、こんなにも目が離せないのかしら)
言葉の端々に、視線の奥に、彼女の中にある芯の強さが透けて見える。
まだ幼い少女のはずなのに、時折その瞳には、まるで年長者のような確信が宿っている。
(私よりもずっと“地に足がついている”ように思える……それって、ちょっとずるいじゃない)
嫉妬にも似た感情が、胸の奥にきゅっと湧き上がる。
けれどそれと同時に、どうしようもない好奇心が抑えきれないほど膨らんでいた。
この少女がどこへ向かおうとしているのか。
彼女が見据えている先に、どんな景色があるのか。
それを見たいと、心のどこかが叫んでいた。
「――リリス・ラヴェンダー。あなたに、ひとつご提案がありますの」
少しだけ芝居がかった声で、エレオノーラは扇子を開いた。
辺境伯家の令嬢としての“顔”を、少しずつ前に出していく。
「近々、王都にてお茶会を開きます。私の友人たちも招いて。もちろん、格式ばったものではありませんわ。あくまで、社交の一環として」
リリスの表情がわずかに動く。だが、それを読み取らせまいとするように、彼女は口元を引き結んだまま。
「ただ――あなたが今なさっている“商売”にとっても、悪いお話ではないと思いますの。社交の場で培われる人脈というものが、時に想像を超えた可能性をもたらすこともありますから」
商売の話を持ち出したのは、彼女の誇りを傷つけないため。
社交の体面を守りつつ、こちらの関心を示すため。
けれど本当は――
(本当は、ただもう一度あなたと話したいだけ)
あのときのように。王都で、二人きりで会話を交わしたように。
今度はもっと、深く。
「正式な招待状は、従者を通じてお届けいたします。ご都合が合えば、ぜひご出席くださいませ」
そう言って、エレオノーラはそっと一歩下がった。
自分の心臓が高鳴っているのが分かる。
どこかで、期待している。あの子が“来てくれる”ことを。
(――これは社交の一環。ええ、あくまでそれだけ。なのに……どうしてこんなに、期待しているの?)
感情の名に、まだ彼女自身も気づいていない。
けれど、その芽は確かに――胸の奥で、静かに育ち始めていた。
帰りの馬車の中、エレオノーラは静かに目を閉じていた。
揺れる車体の音も、窓の外を流れる風景も、まるで遠くの出来事のように思える。
(あの子、本当に……たかだか8歳の子爵令嬢、なのかしら)
小さな声で自分に問いかける。
あの広場にいた人々の表情、活気、整然とした流れ――すべては彼女の意志がもたらしたもの。
それを、誰もが“子どもだから”と軽んじることができない現実が、そこにはあった。
「リリス・ラヴェンダー……」
名を口にすると、胸が少し痛んだ。
眩しさと、悔しさと、憧れと。
自分より年若いはずの少女に、心のどこかが追いつけないと感じてしまったことが、何よりも苦しかった。
(私だって、あの子のように――)
思いかけたその瞬間、エレオノーラはかぶりを振った。
自分には自分の道がある。ヴェルヴェーヌ家の娘として、果たすべき責務と、守るべき立場と。
それでも――
あの子と向き合っていると、どうしてもそれだけでは物足りなくなる。
(もし、私が……“貴族の令嬢”ではなかったら?)
ありえない仮定。でも、ふとそう考えてしまう。
あのまっすぐな瞳に、もう一度出会いたい。もっと知りたい。もっと話したい。
そう願ってしまった自分を、エレオノーラは否定できなかった。
「……だから誘ったのよ。お茶会に。べつに、ただの社交の一環でしかないけれど」
窓の外、夕暮れが始まる。
淡い光が、車内の金糸のカーテンを照らしていた。
リリスは、来てくれるだろうか。
この想いが、単なる“興味”では済まなくなっていく未来を、彼女はまだ知らない。
けれど、もしもまた会えるのなら――
そのときは、もう少しだけ素直に、自分の気持ちを確かめたい。
そう思いながら、エレオノーラは静かに唇を閉じた。
好奇心と焦がれの、その境界で揺れる想いだけを、胸に秘めながら。




