差し出された手と、心の準備
数日前の市が終わって、ようやく静けさを取り戻しつつあったラヴェンダー家に、一通の封書が届いた。
封蝋には、辺境伯ヴェルヴェーヌ家の紋章。
誰もが知る名門のそれに、使用人たちはどよめき、父クラウスは眉をひそめた。
「まさか、また妙な揉め事じゃなかろうな……」
そう警戒するクラウスとは対照的に、母リシアは封書を手にとってすぐに表情を引き締めた。
「これは――お茶会の招待状ね。あの子が言っていた“エレオノーラ様”から」
リリスは黙ってうなずく。
「昔の話になるけれど、貴族の令嬢が“お茶会に招く”というのは、ただの社交では済まないこともあるわ。あなたが見られる側になる覚悟もしておきなさい」
その声音はやわらかだったが、眼差しは真剣だった。
かつて貴族社会に身を置いていた者の、現場を知る重みがそこにあった。
「でも……」
リシアは小さく息をついたあと、リリスの頭を優しく撫でた。
「どんな場でも、あなたは“自分の意志”で立ちなさい。社交の仮面をかぶるのは大切だけれど、それに飲まれたら、きっと後悔することになるから」
リリスはしばし黙ったあと、小さくうなずいた。
「うん。ありがとう、お母様」
招待状を部屋に持ち帰ったリリスは、机の上にそっと置いた。
重厚な紙と筆跡からは、あのエレオノーラの整った姿勢と、少し距離を取るような気品が感じられる。
(……本当に、あのエレオノーラ様から)
(市に来て、私のことを見ていた……それだけで、少し、変な気分)
窓の外では、少し早い夏の風が木々を揺らしている。
ふと視線を落とせば、帳簿の脇に置かれた、昨日届いたばかりの「祝・九歳」と書かれた花束。
(私、もう九歳なんだ)
そう思っても、心のどこかではまだ、子どものままの自分がいる気がする。
でも、市の運営も、商会の帳簿も、商人たちとの交渉も、みんな自分がやってきたこと。
「“子どもだから”って甘えてる場合じゃない、か」
思わずつぶやいた声に、扉の向こうからノックの音が重なる。
「お嬢様、アイシャです。明日のご予定を整理しに参りました」
「……どうぞ」
入ってきたアイシャは、リリスの様子を一瞥してから静かに微笑む。
「お茶会の準備、進めましょうか」
「アイシャは、私がこういう場に行くの、どう思う?」
「そうですね――正直、あまり行ってほしくありません。ですが……お嬢様が“行く意味がある”と思われるなら、私は全力でお支えします」
その言葉に、リリスは静かに微笑み返す。
(私はもう“ただの子ども”じゃない)
(なら、もう少し先まで、背伸びしてみてもいいかもしれない)
夕食後、クラウスにお茶会の招待状を見せたリリスは、いつもより慎重に言葉を選びながら事情を説明した。
「……王都で一度お目にかかったエレオノーラ様が、市にいらしていたみたいで。改めて、お茶会にお招きいただいたの。今回は、お隣の辺境伯領のご自宅で開かれるみたい」
クラウスは黙って頷きながら招待状を眺め、しばらく思案するように眉を寄せた。
「まさか、こんな早くに“再訪問”があるとはな。……この家が没落してからは、貴族の社交界とは縁遠かったが……お隣の辺境伯家から正式に招かれるとは、なかなかのご縁だ」
彼は苦笑気味に言い添えてから、ふっと表情を引き締めた。
「いいか、リリス。貴族の娘同士の社交というのは、表向きの言葉の裏に、いくつもの思惑が潜んでいる。エレオノーラ様が何を見に来て、何を感じたか……お前にしか分からない。だからこそ、今回の訪問は、お前の判断に任せよう」
リリスは一呼吸置き、小さくうなずいた。
「行ってみたい。怖いけれど……ちゃんと、向き合いたい」
クラウスは満足そうに微笑むと、傍らのリシアへと視線を向けた。
「同行者は……やはり、アイシャが最適だな」
「はい。わたしでよければ、ずっとそばについています」
静かにうなずいたアイシャの声に、リリスは少しだけ肩の力を抜いた。
(どんな場であっても、アイシャがそばにいてくれるなら、大丈夫)
胸の奥に、小さな決意が芽生えはじめていた。
翌朝。リリスは早くから屋敷の執務室にこもり、メモ帳とにらめっこをしていた。
(服装は、堅すぎないけど上品さが必要。向こうは辺境伯家だけど、あくまで同じ貴族。媚びすぎても失礼……)
市場の視察から一転、お茶会という社交の場――しかも今回は、相手の“領地の屋敷”で行われる正式な招待だ。
リリスは自分なりに“好印象を持ってもらえる姿”を模索していた。
「悩みすぎると逆効果だよ、リリス」
執務室に顔を出したリナが、片手に持った布包みを掲げて笑った。
「春の終わりに仕立てた、あのワンピースがちょうどいいと思うけどね。明るい藍色のやつ」
「……あ、あれなら地味すぎず派手すぎず、ちょうどいいかも」
「でしょ? 髪飾りも揃えておくよ。アイシャちゃんには、仕上げの髪整えてもらわないとね」
「はい。髪は任せてください。お嬢様の魅力を最大限に引き出してみせます」
アイシャの頼もしい返答に、リリスは少し笑ってから、ふと手元のメモを見返した。
「……それと、手土産。市で売ってる物じゃ安っぽいし、ちょっと気が利いたものにしたいの」
「だったら、あれがいいかも。うちの発酵野菜の“蜂蜜漬けピクルス”、こっそり仕込んであったでしょ? 甘酸っぱくて、見た目もかわいいやつ」
「……あ、それ、いいかも」
何かを“買って持っていく”のではなく、“自分たちで作った品を選ぶ”という選択。
それが今のラヴェンダー家らしさだと、リリスは思えた。
「気負いすぎない程度に、ちゃんと誠意を込めよう。だって――この招待には、きっと意味があるから」
招待の手紙を受け取ってから数日後。空には薄雲が流れ、朝露がまだ芝を湿らせている頃。
リリスは馬車の前で深く息を吸い込んだ。
「……行ってきます」
リシアが手袋越しにリリスの手をそっと握った。
「あなたなら大丈夫。だけど“見られている”ってことを忘れないで。服も、言葉も、表情も……全部ね」
「うん」
後ろでは、荷物の最終確認を終えたアイシャが、丁寧に手土産の籠を馬車へと積み込んでいた。
籠の中には、ラヴェンダー家特製の蜂蜜ピクルスが並んでいる。
「お嬢様、準備できました。座布団、足元のクッション、ひざ掛けも忘れていません」
「ありがとう。心強いわ、アイシャ」
リナは門のそばで手を振りながら声を上げた。
「がんばってねー! あんまりお行儀よくしすぎて、お腹痛くしないように!」
「しないわよ……もう」
苦笑しながら乗り込んだ馬車の窓から、リリスは屋敷の姿を見つめた。
(お茶会――社交の場。昔の私なら、きっと震えてた)
けれど今は違う。市場に立ち、商人と交渉し、家族を支える中で、ほんの少しずつ自信を得てきた。
(怖くないと言ったら嘘。でも、今の私は“見られる立場”なんだ)
窓の向こうで手を振り続けるリナと、静かに頭を下げる母。
そして隣に座るアイシャが、そっとリリスの手を握る。
「大丈夫ですよ。リリス様は、どこにいても堂々としていらっしゃいますから」
「……ありがとう、アイシャ」
車輪がゆっくりと動き出す。
ラヴェンダー家の馬車が、小さな決意を胸に、隣の辺境伯領へと走り出した。




