交差する視線と、ひとつの決意
その朝、ラヴェンダー子爵領の中央広場には、すでに多くの人が集まりつつあった。簡素な布屋根の露店には、干し野菜や瓶詰、焼きたてのパン、わずかながら果物の姿も並んでいる。見知った商人もいれば、新顔もいる。月に二度の「市」が定着し始めてから、今日で七回目を迎えていた。
「……だいぶ様になってきたわね」
リリスは帳面を片手に、広場を見渡していた。アイシャとリナの二人は少し後ろで控えている。
住民の足取りは軽く、あいさつの声や笑い声がそこかしこに混じっている。品物の並べ方や値段の札も、最初の頃と比べれば随分とこなれてきた印象だ。
「“とろたまトースト”、今日も出てるねぇ。あのおっちゃん、最近いつも場所取ってるし」
「常連になってくださってるんですの。ありがたいことです」
アイシャの報告にうなずきつつ、リリスは帳面にさらさらと書き記す。
《第七回市:参加商人 二十一組。とろたまトースト 好評。干し野菜 安定売上。新顔二組。》
「売上は安定してきた。でも、決め手にはまだならないわね……」
リリスは帳面の端にそう書き加えると、静かに息をついた。
市の成功は、領民の暮らしを潤し、子爵家の財政を安定させる柱になる――その理想に向けての土台は整ってきた。だが、リリスの目にはまだ何かが足りないと映っていた。
「……あなた。こちらの市の責任者はどちらかしら?」
突然、背後からかけられたその声に、リリスはぴたりと足を止めた。
振り返ると、そこには涼やかな瞳を湛えた少女が、従者たちを従えて立っていた。仕立ての良いケープに控えめな金細工のブローチ。王都育ちの、上流階級の空気をまとう姿。
「エレオノーラ様……!」
思わず名前を漏らすと、少女――エレオノーラ・ヴェルヴェーヌは、ふっと唇を歪めて微笑んだ。
「ごきげんよう、リリス・ラヴェンダー。まさか本当に、こんな田舎で商人のまねごとに精を出しているとは思いませんでしたわ」
その言い方に含まれる皮肉に、アイシャが一歩踏み出しかける。だが、リリスがさりげなく手を伸ばして制止した。
「市の責任者は、私です。お越しくださり、ありがとうございます」
リリスは一礼し、声の揺れを抑えるようにして答えた。
エレオノーラはその姿をじっと見つめたあと、興味深そうにあたりを見渡す。露店、商人、並べられた商品、笑い声。上流の社交界とはまったく異なる空気に、眉をわずかにひそめながらも、どこか楽しげな様子すらあった。
「……聞いてはいましたけれど、こうして実際に目にするのは初めてですわ最近、辺境伯領でもうわさになっていましたのよ。ラヴェンダー子爵領で始まった“市”とやらが、ちょっとした話題になっているって」
一瞬言いよどんだエレオノーラは言葉を続ける
「どんなものか、少し気になって……今日はそれをこの目で確かめに参りましたの」
その言葉に、アイシャはまたしてもわずかに前へ出ようとする。だがリリスは笑顔でうなずいた。
「ええ。今日はちょうど“市”の日でしたから、よい機会かと」
エレオノーラはリリスをじっと見つめたまま、一歩近づく。
「案内してくださるかしら?」
その声は柔らかく、それでいて試すような響きがあった。
リリスはその視線を受け止めて、小さく頷く。
「もちろんですわ。エレオノーラ様」
市場の露店を並んで歩くリリスとエレオノーラ。後ろにはアイシャと、エレオノーラ付きの護衛たちが距離を取りつつ付き従っていた。
「……品物は想像していたよりも多様ですわね。干し野菜に、瓶詰め、焼きたてのパン……手をかけた物が多いこと」
「ええ、まだまだ小さな市ですが、“誰かの手で作られたもの”に価値をつけられる場所にしたいんです」
リリスの言葉に、エレオノーラはふっと鼻で笑った。
「ずいぶんと意識が高いのですね。子爵家の令嬢が、露店を並べて商人まがいの真似をするなんて、昔の私なら考えもしませんでしたわ」
「私も、昔の私なら考えもしなかったと思います」
そう静かに返すリリスの横顔を、エレオノーラが横目でじっと見る。その目に、わずかながら興味の色が宿っていた。
「それで、あなたは何を目指しているの? 商人にでもなるおつもり?」
「私は……家族が安心して暮らせる居場所を守りたい。それができるなら、商人でも構いません」
さらりとしたその返答に、エレオノーラは言葉を失いかける。思わずリリスの方へ視線を向け直すと、リリスは相変わらず前を向いたまま、まっすぐに歩き続けていた。
「……誇り高いわね、あなたは」
つぶやくようなその一言に、リリスはわずかに笑った。
「この場所では、そうでなければ立っていられませんから」
広場を横切る風が、二人の間をふっと吹き抜ける。
貴族の娘と、没落子爵家の令嬢。けれどそこに並ぶふたつの影は、不思議と同じ高さに見えた。
「……少し、印象が変わりましたわ」
立ち止まったエレオノーラが、そっと視線を横に向ける。リリスがきょとんと顔を上げると、彼女はふわりと微笑んだ。
「子爵令嬢としてではなく、ここで“働く者”としての顔。どちらが本当のあなたなのかは、まだ分かりませんけれど」
その言葉に、リリスは少しだけ視線を逸らし、けれどすぐに穏やかな表情で答える。
「どちらも“私”ですわ。たとえ人からどう見られようと、私の願いは変わりません」
エレオノーラは短く息を吐き、視線を空へ向ける。少し遠くで、焼き菓子の屋台が香ばしい匂いを漂わせている。
「……まったく、あなたという人は。子供のようでいて、妙に芯が通っている。話していると、なんだかこちらが試されている気分になりますわ」
「そんなつもりはありませんでしたけど……お話できて、よかったです」
その言葉に、エレオノーラはふっと微笑みを深めた。
「それで、ひとつお願いがあるのですけれど――」
リリスが目を見開くと、エレオノーラはくるりと踵を返しながら言った。
「近いうちに、またお茶会を開きますの。今度は私の“お友達”もご一緒に。あなたのことを、少し紹介したい方がいて」
「……ご紹介、ですか?」
「ええ。社交の一環とでも思ってくださればよろしいですわ。もちろん、出席はご自由に。ただ――あなたが今なさっている“商売”にとっても、悪くないご縁になると思いますの。お声をかけたい方々がいらして」
それだけ言い残し、エレオノーラは護衛を促して、足早に広場の外へと向かっていった。
残されたリリスは、その背中を見つめながら、何か胸の奥がざわめくのを感じていた。
エレオノーラの姿が視界から消えてもしばらく、リリスはその立ち去った方向をじっと見つめていた。
「……やっぱり、ただの視察じゃなかったんですのね」
アイシャがそっと呟いた。彼女の声には、ほんのわずかな警戒と、それ以上に戸惑いがにじんでいた。
リリスは首を横に振る。
「違うわ。確かに“見に来た”けれど、それだけじゃなかった……」
そのとき、背後から丁寧な足音が近づき、一人の従者が恭しく頭を下げて一通の封筒を差し出した。
「こちら、ヴェルヴェーヌ家より。次回のお茶会の正式な招待状でございます」
「……ありがとうございます。お預かりしますわ」
封蝋の刻印を指でなぞりながら、リリスはほんの少しだけ表情を引き締めた。
家族のために、領地のために、そして――
広場を見渡せば、人の往来はさらに増えている。農家の娘がトマトを抱えて走り、商人たちは小さな声で取引を交わし、パンの焼ける匂いが風に混じっていた。
「リリス様」
アイシャがそっと横に立った。
「お茶会に行かれますか?」
「行くわ。……行かなきゃ、きっと後悔するもの」
答えながら、リリスはまたひとつ、小さく息を吸い込んだ。
この場所を育てるには、まだまだやるべきことがある。
家族のために。子爵領の未来のために。
そして、自分の信じる「商人令嬢」としての道を、もっと遠くへ続けていくために。
「さあ、もう一巡りしましょう。今日はまだ、全部の店を回れていないもの」
「はい、すぐにお供いたします」
二人の姿は、喧噪のなかに静かに紛れ込んでいった。
市は続く――次の挑戦へと、静かに進みながら。




