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はじまりの市(いち)と、リリスの震える夜

 その夜、ラヴェンダー家の屋敷には、ひときわ静かな空気が流れていた。


 屋敷の一角、リリスの私室。

 テーブルの上には、市の配置図、出店者の名簿、道具の貸出記録、簡単な集客予測メモ――すべて手書きで整理された書類が広がっていた。


「……全部、見直したのに。まだ、足りない気がする……」


 ベッドに腰かけながら、リリスは紙を抱きしめるようにして、小さくつぶやいた。

 明日はいよいよ、市の初開催――それも、リリス自身が主導した“人生初めての市”だ。


 予定では十五区画中、十一区画が出店。塩漬け、甘味、保存食、道具の受注。

 ほんの半月前までは白紙だった図面が、今では埋まり始めている。


 それなのに、心は落ち着かなかった。


「……失敗したら、皆に申し訳ない」


 緊張が胃のあたりに小さく沈んでいく感覚。

 手のひらも、微かに汗ばんでいる。


 そこに、部屋の扉を軽くノックする音がした。


「お嬢様、まだ起きておられましたか?」


「……アイシャ?」


 扉を開けると、いつもより柔らかい表情のアイシャが、小さなトレイを手にしていた。

 湯気の立つハーブミルクと、小さな干し果実入りのクッキーが並んでいる。


「少しでもお休みになれるようにと思いまして。ラベンダーと蜂蜜入りです」


「……ありがとう。今日のアイシャ、優しさ三割増し」


「明日の朝、寝不足で顔がむくんでいては困りますから」


 アイシャが微笑むと、リリスもわずかに笑みを返した。

 けれど――その直後、視線を落とし、小さな声でつぶやく。


「……私、怖いのかもしれない」


 アイシャはリリスの隣に膝をつき、同じ高さから顔を覗き込んだ。


「“失敗したら”と考えるのは、準備をした人の証です。

 でも、明日お嬢様が迎えるのは“始まり”です。終わりではありません」


「……始まり」


「それに、お嬢様が思っている以上に、皆、お嬢様を信じています」


 アイシャの視線はまっすぐで、揺るがなかった。

 まるで、それだけが唯一の真実であるかのように。


「……うん、がんばる」


 ようやく、リリスの表情が少しだけほころんだ。


 そのとき、扉の向こうから、別の声がした。


「がんばらなくても、明日には勝手に朝が来るよー」


「……リナさん」


 リナが顔を覗かせ、ちょっと眠そうな声で言った。


「寝るのが仕事。明日の朝は、あったかいスープとリリスの好きなパン、用意しとくからね。

 お姫様はふかふか布団でぬくぬくしなさい」


「ふふ……それは惹かれる」


「でしょ? リナさんの朝ごはん、世界一だしね」


 そう言ってリナはウィンクひとつ残し、また自室へと戻っていった。

 アイシャも後を追ってそっと扉を閉める。


 ベッドに入ったリリスは、ミルクの香りに包まれながら、再び紙を手に取る。


「“市”のことを考えてたら、いつの間にか……」


 瞼が少しずつ重くなる。


“リリス様へ

 いつかあなたが大人になったとき、この日を思い出してもらえるように。

 私たちは、あなたの最初の一歩を信じています”


 書類の隅に、リナとアイシャの小さな筆跡でそんな言葉が書き添えられていた。


「……ずるいな、それ……そんなの、見たら……」


 最後の言葉はもう、眠気に溶けていく。


 やがてリリスは、紙を胸に抱いたまま、ゆっくりと寝息を立て始めた。


 明日は、きっと大丈夫。

 この手で始める、小さな市が――誰かの毎日を変えてくれる。


 翌朝――空は青く、風はやや冷たいものの穏やかだった。

 広場には既にいくつかの荷車が到着し、出店者たちがせわしなく設営を始めていた。テントの骨組みに布を張る者、木箱を並べる者、商品を包み布から取り出す者……。そのどれもが、まだ少しぎこちない。


 リリスはアイシャと共に、整えた髪と少し大きめの外套姿で現場に姿を見せていた。昨日のうちに“変装”はやめることに決めていた。もう商人たちの多くは、彼女が誰であるかを知っていたからだ。


「おはようございます、皆さん」


 透き通るような声が朝の空気を切り裂き、数人が顔を上げる。その中には、レイノの姿もあった。彼はにっこりと笑いながら手を振った。


「嬢ちゃん、いや、リリス様。こりゃ今日が始まりの日ってわけですねぇ」


「はい、どうぞよろしくお願いします。場所の配置などで不備があれば、すぐお知らせください」


 ひとつひとつ、区画を巡りながら挨拶をしていくリリスに、皆の反応はややまばらだった。彼女を歓迎する者もいれば、「まあ見るだけ見てみるか」といった様子で会釈を返す者もいる。


 そして、広場の正面通路。そこには、焼き菓子や塩漬け野菜、簡易な木工品などが並び始めていたが――客足はまだ、まばらだった。


「……最初はこんなものか」


 小さくつぶやくと、アイシャがすぐ隣から答える。


「予想通りです。“市”という言葉だけでは、まだ人の動きは鈍い。ですが、ここからが勝負です」


「うん。“最初は静かでも、次がある”って思ってもらえれば、それだけで一歩前進だものね」


 リリスは軽く深呼吸をして、表情を引き締めた。その顔を見たアイシャは、少しだけ口元を緩める。


「では、私たちも巡回を始めましょう。出店者の声を聞くのが第一です」


「お願い。まずは塩漬けの樽を見てみたい。味や保存状態がどう伝わっているか、気になるから」


 二人は広場を横切りながら、静かに動き始めた。


 その背後、通りの向こうから、ひとり、またひとりと村の女性たちが歩いてくる。小さな子どもを連れた母親、手に籠を提げた老婆。少しずつ、少しずつ、空気が動き出していた。 


 そう信じながら、リリスの“震える夜”は、やがて静かに、優しく幕を閉じた。


 最初の客が足を止めたのは、干し野菜と塩漬けの店だった。通りすがりの老婆が、並べられた瓶のひとつを興味深そうに覗き込む。


「なんだいこれは。大根かい? でも、見た目が少し違うねぇ」


 店主がすかさず声をかける。


「おひとつ、味見いかがです? 甘酢に白だしと香草を効かせてあるんですよ。若い子に人気でして」


 その言葉に、老婆はスプーンでひとつまみすくって口に運ぶ。そして、目を見開いた。


「おや……これ、うまいじゃないか。しょっぱすぎなくて、歯ごたえもいい」


「ええ、保存食なんですが、そのままでも美味しく食べられるように工夫してまして。冷たいままでも、お茶請けやご飯のお供にちょうどいいんです」


「ふむ……じゃあ、この瓶と、そっちのももらおうかね」


 最初の購入者が出たことに、リリスはそっと胸をなでおろした。けれど本番はここからだ。アイシャと共に数歩離れた場所から、他の店の様子を注意深く見守る。


「口コミが始まれば、連鎖して人が動くはず……」


 リリスの予想通り、しばらくすると老婆が知り合いらしき中年女性を連れて戻ってきた。


「あんた、これ食べてごらん。あたしが今朝買ったんだよ。しょっぱくないのに、ちゃんと味がしみててね」


「へぇ、本当だ……おいしい!」


 塩漬けと干し野菜の店には、次第に人が集まり始めた。味を確かめ、感想を交わし、買うかどうか相談する声が増えていく。


 リリスはその様子を眺めながら、指で帳面をなぞった。


「目に見える数字じゃないけど、これが“始まり”の手応えかもしれない」


 すると、別の店――小さな焼き菓子屋の前でも客が立ち止まり始めた。出店者の少女が笑顔で声をかけていた。


「こちら、卵を使わずに作った素朴な焼き菓子です! でも、香りと甘さはしっかりめで、日持ちもしますよ!」


 その言葉に、リリスは思わず足を止めた。


(あの子……自分で工夫した売り文句、考えたのね)


 誇らしさとともに、胸の奥が温かくなる。


 少しずつ、広場には笑い声と、品物を手にした村人たちの姿が増えていた。


 午前も半ばを過ぎたころ、出店者たちの顔にも変化が現れ始めていた。

 最初は様子見だった客たちが、今ではぽつぽつと品物を手にし、何かを尋ね、頷いていく。その光景を見て、幾人かの商人がリリスに声をかけてきた。


「お嬢様、やっぱりあんた、ただの令嬢じゃないねえ」


 そう言ったのは、塩干屋の主だった。額には汗が浮かんでいたが、表情はどこか晴れやかだ。


「最初は半信半疑だったが……今日だけでも十分、次に期待が持てる。あんたが“市”って名前をつけた理由、わかる気がするよ」


「ありがとうございます。でも、これは皆さんが工夫して商品を仕上げてくれたからこそです」


 リリスが頭を下げると、男は面食らったように手を振った。


「いやいや、お嬢様に頭なんて下げられたら、こっちが恐縮しちまうよ」


 そのやりとりを見ていた若い木工品職人も、苦笑を浮かべながら呟いた。


「……正直、今朝までは“どうせすぐ終わる遊びだろ”って思ってました。でも……」


「でも?」


「また出たいです。次があれば」


 その言葉に、リリスの胸がじんわりと熱くなる。


「もちろん、次もあります。次こそ“本開催”です」


「そいつは……うれしいな」


 彼らの言葉のひとつひとつが、リリスにとっては“成功の印”だった。まだ売上は確定していないし、利益も未知数だ。だが、“またやりたい”と思ってもらえたこと――それが何よりの収穫だった。


「……次は、もう少し多くの人が来るように、別の仕掛けも用意しなくちゃ」


 そう呟いたリリスの顔には、先ほどまでにはなかった自信の色が浮かんでいた。


 その日の午後、屋敷のバルコニーから市の様子を見下ろしていたのは、クラウスとリシアだった。


「……意外ね。最初の開催で、ここまで人が集まるとは思ってなかったわ」


 リシアが手すり越しに目を細める。

 広場の向こうでは、リリスが出店者と話をしながら、品物の並べ方やお釣りの扱いなど細かく確認していた。


「まあ、誰の娘だと思ってる。俺の血を引いてるんだ。やるときはやるさ」


「ふふ、珍しく親ばかね」


 笑いながらも、リシアの目元はどこか潤んでいた。

 ほんの一年前まで、何も知らず、何もできなかった娘が――今では人を動かし、言葉を通じて街を動かしている。


「きっと……私たちが思っているよりも、ずっと遠くへ行くわ、この子は」


 クラウスは何も言わず、ただ頷いた。


 一方、屋敷の一室。

 幼いルーファスとルシェルが、使用人に抱かれながら、窓から小さく見える姉の姿を指差していた。


「おねーちゃん、かっこいいね!」


「お姉しゃま、たくさんの人とお話してるの!」


 二人の声に、年配の家令ノエルもそっと目を細める。


「立派になられましたな……まったく、あの小さな体のどこに、あれほどの気概をお持ちなのやら」


 そして市の片隅――物陰からこっそりリリスを見つめる少女がひとり。


「……今日の主役、だね」


 リナだった。

 変装もせず、堂々と市の中央で動き回るリリスを見て、彼女はふっと笑みを浮かべる。


「ま、あれならもう心配いらないかも。リナさんの出番、減っちゃうかもね~」


 そう言いつつも、その目はどこか誇らしげだった。



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