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準備は整いつつある、自分が持てる物への気付き

 ラヴェンダー子爵家の執務室には、朝の光が静かに差し込んでいた。

 机の上には、整えられた市制度の草案と、地図、そして帳簿。

 リリスは腕を組んだまま、それらに目を通していた。


「……基盤は整ったわね。許可証も印刷済み。検査手順と料金表も用意して、広場の整備も進んでる」


「はい。屋台の枠も十数件分、仮設ながら形になっております」


 リリスの隣で控えるアイシャが、静かに報告を続ける。

 クラウスは眉間にしわを寄せたまま、手元の報告書をぱたんと閉じた。


「だが――肝心の“人”が来ていない」


 その言葉に、室内の空気が重くなる。


「現時点で正式な出店希望は、三件のみ。しかもそのうち二件は村の常連。旅商人の申し出は皆無だ」


 クラウスの指が机を軽く叩く音が、沈黙の中に響いた。


「書状も送ったわよね? 今まで取り引きのあった商人や、近隣の会合で顔を合わせた相手には……」


「すべて、送っております。返答があったのは半数程度。どれも『検討中』か『様子を見たい』というものでした」


 アイシャが広げたのは、びっしりと記録の書かれた報告書だった。筆跡も反応も、慎重なものばかり。


「“見知らぬ田舎で、どれだけ人が集まるのか不透明”だそうです」


「……つまり、“信用がない”ってことね」


 リリスは椅子にもたれ、深く息をついた。


(考えてみれば当然だ。市が制度化されるのは初めてのこと。しかも主導しているのは、没落子爵家の、八歳の令嬢――)


「だったら……」


 クラウスが顔を上げるよりも早く、リリスが言った。


「私が、一人ずつ、交渉に行くしかないわ」


「……リリス?」


「机の上で待ってるだけじゃ、人は来ない。“市”っていうのは、場所じゃなくて“人の流れ”でできるもの。なら、流れを作らないと」


 クラウスは口を閉じたまま、じっと娘を見つめた。

 その目に映るのは、幼子ではなく、何かを背負おうとする顔。


「……覚悟はあるのだな?」


「もちろんです。危ない場所へは行きません。アイシャと一緒に、交渉に回ります。お願い、お父様。やらせてください」


 しばらく沈黙が続いたのち、クラウスはゆっくりと頷いた。


「……わかった。無理はするな。だが、お前が望むなら、見守ろう」


「ありがとう、お父様!」


 リリスは小さく拳を握った。その顔に浮かぶのは、決意の笑み。


 その日の夕刻。

 リリスは書庫の一角にこもり、再び地図を広げていた。


「……まずは、村の中で顔見知りの商人からね。外部の行商人に交渉するには、地元で実績を積むのが先」


「お嬢様、本当に行くのですか? わたくしが代わりにお話を……」


 アイシャが戸惑いをにじませながら声をかける。


「いいの。これは、私がやるべきなの。だって……」


 リリスは、小さな声で呟いた。


「この“市”は、私の夢でもあるから」


 静かに立ち上がった彼女を見て、リナがにっこりと笑った。


「ふふ……だったら、リリスの“夢顔”で押せばいいよ。リリスの笑顔一発で、たいがいの男は落とせるっていう機能、あるでしょ?」


「……そんな機能、あったっけ?」


「あるある。職人系には純真キラキラ、商人系には無垢な策士風。あれ、最強だから」


「やめてよ、怖い分析しないで……!」


 ふっと、三人の間に笑いが生まれる。


「でもまあ、本当に動くのはアイシャとリリスだから、私は台所で手伝いながら応援してるよ」


「うん、それが一番助かる。リナさんの保存食、説得材料にもなるしね」


 だがその後のリリスの顔には、再び真剣な影が戻っていた。


「……でも本当に、“市”を開きたいなら、地道に一軒ずつ口説くしかない。

広場を整えても、人が来なければ、それはただの空き地よ」


 アイシャは、何かを確かめるように問いかけた。


「お嬢様……そこまでして、市を開きたい理由は……?」


 リリスはまっすぐに、アイシャの目を見て言った。


「だって――

“ここに来れば、何かがある”って、誰かが思ってくれる場所を作りたいの。

卵も、ラスクも、浅漬けも……全部、その先に繋がってるから」


 静かな声に、アイシャもまた微笑みを返した。


「……はい。では、全力でお支えいたします」


「当然! リナさんもついてくからね!」


「ふふ、頼りにしてるよ、ふたりとも」


 月光が差し込む書庫の窓辺で、リリスは帳面にペンを走らせた。

 名前を一つずつ書き出し、話をする順番を決めていく。


(小さな一歩から始めよう。いつか“市”の幕が上がるその日まで)



 翌日――店の前に立つと、古びた木戸と、干された塩袋が目に入る。

 引き戸を開けると、店内はむっとするような塩のにおいと、整然と並べられた袋の山で埋め尽くされていた。


 奥から現れたのは、灰色のひげを蓄えた老人。くぼんだ目に、厳しい皺の刻まれた顔。


「おや……これはこれは。ラヴェンダー家の、ちっこいご令嬢じゃねえか。まさか、あんたが店に出向いてくるとはな」


「こんにちは、ヘルベルトさん。少しだけ、お時間をいただけますか?」


 リリスは堂々と、けれど柔らかく挨拶を返した。

 商人の中には、もう彼女の名を隠しても無意味だということを知っている者も多い。

 だからこそ、最初から“正体を隠さず”堂々と向き合うと決めていた。


「ははっ……面白い。子爵家の令嬢がわざわざ塩を買いに来るとはな。まさか、お使いじゃねぇんだろ?」


「いいえ、私の仕事です。ラヴェンダー家が新たに開く“市”で、保存食品の販売を考えているの。特に、塩はこれからもっと重要になるわ」


「ふん……その話、他の連中からも耳に入ってきとる。“子どもが遊びで始めた市場ごっこ”だってな」


「“ごっこ”かどうかは、私が証明します。まずは、これを見てください」


 アイシャが差し出したのは、前回の売上実績と、保存食品の試作品リストだった。

 ヘルベルトは無言で受け取り、じろりとリリスを睨んだあと、紙面に視線を落とした。


「……へぇ、なんだいこれは。“甘じょっぱ漬け”だの、“干しじゃが”だの、“塩だけで七日持つラスク”? 冗談かと思えば……案外、まともにやってんじゃねぇか」


「ご試食用、あります」


 アイシャが取り出した小瓶を差し出すと、爺はしぶしぶそれを受け取り、一片の野菜を口に含む。


 もぐ、もぐ……。


「……塩っけは控えめ、だが味はしっかり残っとる。漬かりも浅すぎず、深すぎず……ほう」


 爺は鼻を鳴らす。


「婆さんが言ってた“やたら柔らかくてしょっぱくない野菜”、これのことだったか」


「たぶん、そうです。うちの試作品を村の小売屋に卸したので、流通していた可能性があります」


「……なるほどな。“味”だけは遊びじゃねぇってわけか」


 爺は腕を組んだまま、しばらく黙り込んだ。

 やがて、しわくちゃの手で書類をトントンと整えながら言った。


「いいだろう。試験的に付き合ってやらぁ。塩は“ものを腐らせねぇ”ためにある。

そして何より、……食わせるもんに“命”がある」


「ありがとうございます!」


 リリスが深々と頭を下げると、爺はぼそりと続けた。


「……まあ、あのクラウスの娘だ。意地でも投げ出しはしねぇと思ってたよ」


 そしてまた次の商人の所へと向かう。


「――で、結局のところ。お嬢さんが“市”ってのを開いたとして、どれだけ人が集まるっていうの?」


 城下の通り沿い、ちょっと洒落た屋台の奥から顔を覗かせたのは、浅黒い肌に栗色の髪を持つ若い商人だった。

 年の頃は十代後半、リリスよりずいぶん年上だが、王都ほどの洗練はなく、どこか“田舎者の兄ちゃん”といった気安さがある。


「この近辺にしては、商品の見た目も包装もずいぶん凝ってるのね。あなたの名前は?」


「シルクス商会所属、レイノって言います。名乗りにきたのが子どもとは驚いたけど……お嬢さん、ラヴェンダー子爵家のリリス様って本当?」


「はい。正式に、市を立ち上げる準備を進めています。あなたの商品――特に“蜜柑皮入り甘パン”や“はちみつ包み菓子”のような保存性のある甘味は、うちの市でも魅力になると思ったの」


「へぇ……なるほど。商人の目、してますね。ちょっとびっくりです」


 レイノはからかうような笑みを浮かべたが、その目には好奇の光が宿っていた。


「で、お嬢さん。正直に聞きたい。こんな辺境で、市をやるって本気? 冗談じゃなく、うちは距離分の運搬費もばかにならないんですけど」


 リリスは迷わず答えた。


「本気です。そしてあなたの言う通り、現状では来てもらう理由が足りない。それは……私も痛感しています」


「じゃあ、なんで“今”なんです?」


「……卵のため、かしら」


「卵?」


 リリスは小さく笑った。少しだけ、自嘲も混じっていた。


「私、子爵家のくせに、卵一つが贅沢で買えない時期がありました。でも、今は少しだけ、買えるようになった。

 そしたらね、“もっとたくさんの人に、ちゃんと美味しいものを食べてほしい”って思ったの」


「……子爵令嬢の言う台詞じゃないね、それ」


「そうね。商人にでもなった方が似合うって、よく言われるわ」


 レイノが鼻で笑う。


「……面白い人だ。じゃあ交渉といきますか」


 リリスは姿勢を正し、用意していた紙を差し出した。

 そこには、市の初回開催予定日・場所・広さ・客層の想定・交通経路などが細かく記されている。


「これが市の詳細資料です。場所は城下の公園跡地、最大で十五店舗程度の出店が可能です。

初回は“顔見せ”として出店料は格安に設定しますが……来客がほとんどなかった場合、その出店料はいただきません」


「……へぇ」


「ただし、“物が売れなかった”ことについては、私では保証できません。“人が来なかった”ときに限ります」


 レイノは腕を組み、しばらく黙ってから、ふっと笑った。


「条件は飲めます。お嬢さんの誠実さと、少しのお人好しに賭けてみたくなった」


「ありがとうございます!」


 リリスが小さく頭を下げると、レイノは口をひらいた。


「でも、約束しますよ。“市”が成功したら、次からは出店料倍にしていいです」


「それは交渉の余地ありね」


「ふふ、さすが商人顔」



 屋敷へ戻る道すがら、アイシャがそっと問いかける。


「……お嬢様、今回は本名で交渉されたのですね。やはり、その方が“信”を得られると?」


「ええ。少しずつだけど、“令嬢でも、商人でもある私”として覚えてもらえた方が、きっと先につながると思うから――あとどうせバレバレだったみたいだし」


 そう言って小さくはにかむとリリスは真剣な表情に戻った。


 そして心の中で、小さく呟いた。


(あと二人。あと二人、口説ければ――“市”は形になる)



 ラヴェンダー家の市に必要なのは、商品や人だけじゃない。

 屋台を張るための机や天幕、商品の陳列棚、雨除けの布、収納箱――いわば、市の“骨組み”となる道具類だ。


 リリスが次に向かったのは、城下で代々続く古道具屋《スタウト雑具店》。

 商人たちにとっては付き合いの長い店だが、あまりに在庫が煩雑なことでも有名だった。


「おーい、店主さん! いますか?」


 リリスの呼び声に、カラカラと鈴が鳴る。

 やがて、裏からのそのそと現れたのは、大柄で額に汗を浮かべた中年の男だった。


「はいはいはい、すみませんねえ、いま戸棚の裏が崩れてな……って、あれまあ、お嬢さん?」


「こんにちは。ラヴェンダー子爵家のリリスです」


「あんれ、子爵家の……あの、“浅漬けの子”か!」


「え、そんな通り名が?」


「いやあ、前にうちに卸しに来た行商人が言ってたんですわ。“あんたとこの保存瓶、あの浅漬けの子が使ってるらしいぞ”って。

 うちの瓶、案外名が通ってきたんですよ、はっはっは」


「それは……ありがたいけど、ちょっと複雑な気分……」


 リリスは苦笑しつつも、すっと手元の書類を差し出した。


「実は、お願いがあって来ました。市を開くにあたって、屋台や棚をいくつか借りたいんです。簡易なもので構いません」


「そいつぁ結構……と言いたいところなんですがね、うちも今ちょっと在庫がゴチャゴチャで。どこに何があるか……」


「見せていただいてもいいですか? 片付け、お手伝いします」


「……お、お嬢さんが? こんな埃まみれの倉庫を?」


「道具がなければ市は開けませんから。必要な物があるなら、自分で探します」


 店主はしばらく目をぱちくりさせていたが、やがて苦笑いした。


「……まぁ、止めてもやる顔してるなあ。いいでしょう、案内しますよ」


 倉庫の奥は予想以上の混沌だった。


 釘の入った箱が漬物石の下にあり、木製の棚板が鍋蓋と一緒に積まれている。天幕用の布は虫食いも多く、状態もまちまち。


「これ……正直、仕入れよりも、管理の方に問題がある気がします」


「ま、まあ……否定はしませんけども……」


 アイシャがさりげなく記録帳をめくりながら呟く。


「……この道具、記録上は“売約済み”になっておりますが、まだここにあります」


「え?」


「こっちの棚の“屋台骨”の束、数が合いません。帳簿では三組、でも実際は五組あります」


「……おいおい、うちの記録帳ってそんなにテキトーだったか……」


 リリスは、あえて言葉を強めた。


「お店としては、在庫ロスが出てます。これ、改善しないと他の取り引きにも響きますよ」


「……ぐうの音も出ないや……お嬢さん、商売人顔すぎる……」


「改善すれば、必ず得します。必要なら、帳簿整理も協力します」


「じゃあ、道具の貸し出し……ってことでいいんですかい?」


「ええ。“売れ残り”になってるこの天幕と、未登録の棚。それから、予備の木箱。修理込みで使わせてもらえませんか?」


「ふっふっふ……まいった。お嬢さん、うちの“在庫の神様”だ」


 翌日。

 リリスは整った道具リストを屋敷でまとめながら、ぽつりと呟いた。


「見えてなかっただけで、揃ってたのね。必要なもの、ちゃんとあった」


「それは……お嬢様ご自身にも、当てはまるかもしれませんね」


 隣で書類を整えるアイシャが、優しく微笑んだ。


 リリスは一瞬、戸惑いながらも――少しだけ、照れたように笑い返した。


 物も、人も、資源も。

 本当に“ない”ものなんて、意外と少ないのかもしれない。

 問題は――“気づけるかどうか”。



 屋敷の一室に、手書きの出店予定表と、簡素な市の地図が広げられていた。

 一週間前までは、紙の上にただの空白が広がっていた。

 けれど今は、ぽつぽつと“人の名前”が記されている。


「塩屋のヘルベルトさんは、この角のほうが合いそうね。日陰が多いから商品が痛まない」


「シルクス商会のレイノさんは、目立ちたがりですから中央通路沿いが妥当かと」


「スタウト雑具店は、出店ではなく備品貸し出し枠として別表記にしておこう」


 リリスとアイシャは、帳面と地図を見比べながら一つずつ配置を確認していった。

 机の上には、道具の一覧と収支予測。それに、各商人との契約内容。

 すべてが、ほんの数週間前までは「夢物語」にすぎなかった。


「……本当に、始まるんですね。市が」


 アイシャの声は、どこか感慨深げだった。


「うん。やっと“幕が上がる”感じがしてきた」


 リリスは手のひらで地図の隅をそっとなぞった。

 そこには、まだ名前の入っていない小さな枠が残っている。


「あと……一組くらい、増やせそうかな」


「無理に詰め込むよりは、まずは“信頼のある出店者”で形を整えるのが得策かと。

初回で印象が決まりますから」


「そうね。最初の一歩こそ、丁寧に」


 リリスは、ふぅと息を吐いた。

 この数週間、いろんな人に頭を下げて、交渉して、お願いして――

 それでも、「商売って悪くない」と思える日々だった。


「昔ね、前の世界では、市場って“ただの場所”だと思ってた。

棚に商品があって、値札がついてて、お金を出して買う。

それだけの、冷たい空間だったの」


「今は、違うのですね」


「うん。“誰かがここに来るのを信じて、誰かが何かを持ってくる”。

そうやって、少しずつ“人が集まってくる空間”を作る。

……それが市なんだって、やっとわかった気がするの」


 アイシャは静かに頷いた。


「お嬢様は……とても、素敵な市場をお作りになると思います」


「ありがと。でも、まだ“始まってもいない”んだからね」


 笑いながら言ったその声には、誇りと覚悟が宿っていた。


 その日の夕方。


 リリスは城下の坂道を歩いていた。

 手にしたメモ帳には、次に声をかけたい商人の名前と住所。

 残りの数日は、最後の交渉を進めるための期間に使うつもりだった。


 ふと、見慣れた顔が目に留まった。

 以前パン耳ラスクを買いに来ていた、小さな少女とその母親。

 少女――ミーアが、リリスに気づいて駆け寄ってくる。


「おねえちゃん! またおかし売るの? 次、いつ?」


「うふふ、近いうちに“市”っていうのが開かれるの。そのときに、もっとたくさんのお菓子を並べるわ」


「やったー! ミーア、ぜったい行く!」


 ミーアの無邪気な声に、リリスは思わず笑ってしまった。

 なんだか、肩の力がふっと抜けていく気がした。


(そうか。こういう子が、来てくれる場所になるんだ。私が作る“市”は)


 それは、物を売る場所であり、誰かが誰かに会いに来る場所でもある。

 食べるため、生きるため――それだけじゃない、“あたたかい何か”がそこにある。


 リリスは空を見上げた。

 市場の空白だった地図には、もうすぐたくさんの人の名前が並ぶだろう。


 市場は、“人が集まるから市場になる”――

 私は、その始まりに立ち会うつもりなのだ。


 その決意は、風の中でもぶれなかった。

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