養鶏小屋と、野望への第一歩
朝の陽射しが、屋敷の裏手に柔らかく差し込んでいた。
そこに建てられた新しい木柵の中には、小さな鶏小屋と、数羽の若鳥の姿がある。
元は古びた四阿だった建物――それを板張りにして壁を設け、通気のための小窓と、出入りのための簡素な扉をつけた。床には乾いた藁を厚く敷き、湿気を防ぐ工夫もしてある。
「よし……水はまだ十分あるわね。餌も、もう少し追加しておこうかしら」
リリスは木柵の外から小屋の中を見守り、手に持った木の匙でふすまを追加する。餌には麦殻や野菜くずも混ぜてあり、農村の協力で安定した供給が続けられていた。
その傍らでは、アイシャが水桶を持って静かに作業を進めていた。
「ふたりとも、今日も元気そうですね。昨日より動きも活発です」
「ええ。少しずつ慣れてきたみたい。最初は怯えてたけど……今は環境にも順応してきたみたい」
視察から数週間――約束通り鶏小屋を準備したのちにセロ家から譲ってもらった若鳥2羽は、いまやすっかりこの鶏小屋の一員だった。
そして、今日の当番はもうふたりいた。
「おねーちゃん、餌、もうあげていい?」
「いいわよ、ルーファス。落とさないように気をつけてね」
そう声をかけると、リリスの弟・ルーファスが、慎重に小さな器を持って小屋の扉を開ける。続いて、ルシェルも飼葉桶の近くで立ち止まり、小さく息をのんだ。
「お、お姉しゃま……わたしも、がんばる……っ」
「えらいわ、ルシェル。ゆっくりでいいのよ」
ルシェルは怖がりながらも、そっと手のひらにふすまをのせ、小屋の縁から差し出した。鶏が近づいてくると、きゅっと目をつむりつつも最後まで餌を渡しきる。
「ふふっ……がんばったわね」
リリスは優しく微笑んで、妹の背をそっと撫でた。兄妹にとって、これが初めての「命にふれる」体験だった。鶏たちの鳴き声や羽の音、あたたかな体温――すべてが新鮮で、小さな驚きに満ちている。
そんなふたりの姿を見守りながら、リリスはそっと息を吐いた。
(……これは、ただの家畜じゃない。生き物を育てるって、こういうことなんだわ)
ふと、記憶の底から一つの情景が浮かび上がる。
(――小学校の裏庭にあった、鶏小屋。寒い朝、水が凍る日でも、当番で水を替えて掃除をして。産まれたばかりの卵を手にしたときの、あのぬくもり……)
前世の、あの何気ない日々が今に繋がっている。
当時はただの“雑用”だと思っていたが、今は違う。鶏の健康は環境に直結する。通気、湿度、餌の栄養、そして清潔さ――どれもが大切な命を守るために必要なこと。
「……夢じゃない。これは、必要な一歩なのよ」
リリスはもう一度、小屋の中の鶏を見やった。
まだ幼く、頼りない体つきの小さな命。けれど、その羽ばたきが、未来の食卓を変えるかもしれない。
そう考えるとリリスの心はとても強く燃え上がるのだった。
夕暮れが近づくと、リリスは屋敷の一室――自室の帳簿机に向かい、そっと椅子に腰を下ろした。
広げられた帳簿には、餌の使用量、産卵記録、鶏舎の維持費など、こまごまとした数字が整然と並んでいる。
その端には、リリス自身の手で記した簡易なグラフと、観察メモが並んでいた。
「……順調だけど、まだまだこれからね」
セロ家から譲られた若鶏たちは、予想より早く卵を産み始めてくれていた。
農家の親切で“そろそろ産卵期に入る子”を選んでくれたおかげだった。
けれど、その卵はまだ一つも口にしていない。
「食べるには惜しいわ。今は……この命を、育てるときよ」
リリスは、鶏舎の一角に用意した巣箱の記録を見直す。
産卵された卵は、温度と湿度を保った環境で静かに保管されている。
自然な抱卵が期待できるよう、藁の敷き方や光の入り方にも工夫を凝らしていた。
「まずは数を増やすこと。食べるのは、それから」
鶏が一羽増えれば、いずれ毎日一つの卵が手に入るようになる。
それが十羽、二十羽となれば、家族だけでなく、屋敷を支えてくれる人たちの食卓にも届くはずだった。
「養鶏を“食べる”ことから始めたら、何も残らないわ。今は“育てる”ほうが未来のためになる」
餌代も手間もかかる。採算性で言えば、いまは完全に赤字だった。
でも――最初は、そういうものだ。これは投資、未来への種まき。
窓の外では、夕日を浴びながら農民たちが畑の後片付けをしている。
土の香りと藁の香りが混じる風が、窓辺からふわりと流れ込んできた。
「……まずは、家族や大切な家人の暮らしを、少しでも良くしたい。そのためにも、今は我慢」
そう呟いたリリスの瞳には、確かな火が宿っていた。
卵を育てる。未来を育てる。すべてはその一歩のために――。
帳簿のインクが乾くのを待ちながら、リリスは椅子にもたれ、天井を見上げた。
ふと、目を閉じる。
この小さな鶏小屋で始まった取り組みは、いずれどこまで広がるのだろう。
(――今は、私の家の片隅で、ほんの数羽の鶏を育てているだけ)
(でも、もしこれが十羽になり、三十羽になり……やがて百羽、千羽と広がっていったら?)
想像が、次々と形になっていく。
「卵を、育てる。鶏を、増やす。
でもそれだけじゃ、私ひとりでできる範囲は限られてるわ」
リリスは机の引き出しから、新しい紙を取り出し、さらさらとペンを走らせる。
“育てるのは、鶏だけじゃない。仕組みも、広げていくもの”
我が家で得た飼育法と記録を基礎として、いずれは農民たちにも鶏の世話をお願いする。
それぞれの農家が鶏を育て、卵を一定の条件で納めてくれれば、こちらで買い取る。
品質や餌についても、簡単な指導書や見本を配れば、一定の水準を保てるはず。
「……そうなれば、家だけじゃなく、村全体の生活も変わる。卵が流通すれば、食の選択肢が広がる。
卵を使ったパン、菓子、保存食……それを扱う商人も生まれて、商会の収益にも繋がるわ」
リリスのペンは止まらなかった。
契約農家制度、検品と買い取りの基準、保存と流通ルート、価格の安定化――
思いついた案をひとつずつ、図と箇条書きにして整理していく。
夢ではない。必要なものを、必要な場所に届けるための仕組み。
「うまくいけば……これは、ラヴェンダー領の新しい“柱”になる」
農地の一部を鶏舎に変えるだけで収入が生まれ、鶏糞は畑の肥料として還元される。
副業として始められるうえに、子どもや年寄りでも比較的世話ができる。
そうなれば、新たな雇用も生まれる。
「卵で、みんなの暮らしが変わる。それが実現すれば……私の名前なんて、どうでもいい」
けれど、どこかで思う。
この卵の流れが、やがて「リリスの卵」と呼ばれるようになったら――少しだけ、嬉しいかもしれない。
そう思いながら思い返すと…
(いやいや、その名前じゃ私が卵を産んでるみたいじゃない!)
頬を赤らめ、軽く首を振ってから、リリスは再び紙を見下ろした。
「まずは、一歩ずつ。
ここから始めるのよ、“卵で生きる未来”を」
ペンを置いたリリスは、ふと手を止めて、深く息を吐いた。
構想を描いていくうちに、目の前の紙は案と図で埋め尽くされていた。
けれど、どれだけ理想を並べても――「私ひとり」では限界がある。
「……そうよね。どこかで、ずっと“自分が頑張れば何とかなる”って思ってた」
リリスは小さく笑って、首を横に振った。
けれど現実には、卵の記録、帳簿の管理、商品の開発、鶏の世話、領民との交渉――
一人で抱え込める範囲を、もうとっくに超えていた。
(でもそれは、無力ってことじゃない。
“分ける”って、きっと“託す”ってことでもある)
思い浮かぶのは、家族の顔だった。
――父様には、土地の管理や商人たちとの交渉をお願いできる。
――母様には、ルーファスやルシェルの教育、そして貴族としての礼儀作法を。
――アイシャには……何より、私のすぐ隣で、心も実務も支えてもらっている。
そして、今はまだいないけれど――
いずれ商会が大きくなれば、帳簿を見る人、調味料を作る人、取引を担う人……
「人を育てていく」ことも、私の大事な役目になるのだ。
「ひとつの事業を続けるって、ひとつの家を守るのと同じくらい、人が必要なのね」
そうつぶやくと、ほんの少しだけ胸の中が軽くなった気がした。
なんでも自分ひとりで背負うのではなく、得意な人に任せる。
それが、組織としての強さであり、未来をつなぐ力なのだ。
――あの“王都の貴族たち”のように、命じるだけで自分では何も動かせない者にはならない。
――かといって、すべてを抱え込んで潰れてしまうような愚も犯さない。
支える人がいれば、世界はもっと広がる。
仲間がいれば、未来はもっと輝く。
リリスはもう一度、紙を手に取り、はっきりと書き記した。
「分け合い、任せ合い、育て合う。それが、商いのかたち」
夜が更け、屋敷の中が静けさに包まれても、リリスの部屋の灯りだけは消えていなかった。
机の上には帳簿や計画書、卵の記録表や村との取引案などが散らばり、インクの匂いがかすかに漂っている。
リリスは真剣な表情で紙の上を見つめながら、何度もペンを走らせては、少し考え込み、また別の紙に書き直す。何度も、何度も。
「……やっぱり、卵の卸値を下げるには、ある程度の規模が必要。直営と契約農家を両立させるには、基準も必要だし……人も……」
小さくつぶやいた声が、夜の空気に溶けていく。だが、それに応じるように、そっと部屋の扉がノックされた。
「リリス様、そろそろお休みになりませんか?」
振り返ると、アイシャが蝋燭を手に立っていた。いつの間にか部屋の前に来ていたらしい。リリスは驚いたように目を瞬かせた。
「あら……もう、そんな時間だったの?」
「はい。もう夜も深いです。お身体を壊されたら、明日からの準備もできなくなってしまいます」
その穏やかな言葉に、リリスはようやくペンを置いた。肩を回すと、じんと軽い痛みが走る。知らず知らず、随分と長く座り続けていたらしい。
「……ありがとう、アイシャ。つい夢中になってしまって。気をつけるわ」
アイシャは静かに微笑むと、部屋に入り、机の上の紙を丁寧にまとめ始めた。
「リリス様が一生懸命なのは、よく存じています。でも――何より大切なのは、明日も元気でいらっしゃることですから」
リリスはその言葉に、ふと胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……ほんとうに、あなたがいてくれてよかった」
「それは、こちらの言葉です」
短い会話の中に、確かな信頼と絆があった。
蝋燭の火が小さく揺れ、帳簿の影を壁に映し出す。リリスはベッドへと向かいながら、心の中でそっと呟いた。
(焦る必要はない。一歩ずつ、着実に進めばいい)
翌朝、窓の外には、淡い朝焼けが広がっていた。鳥の声が遠くで聞こえ、草葉の間には小さな朝露が光っている。
リリスはゆっくりと目を覚まし、体を起こすと、昨日まとめた書類の束を確認した。整った文字と図が並ぶその紙の上に、確かな意思が込められている。
「今日も、がんばろう」
小さく呟いたその声に、誰が応えたわけでもない。けれど、確かに彼女の中にある何かが、しっかりと頷いていた。
まだ夢の途中。けれど、その夢はもう「空想」ではない。
確かに手の届くところにあって――その一歩を踏み出すたびに、未来は少しずつ形になっていく。




