養鶏の視察と、小さな命との契約
「リリス様、今日は本当にお一人で行かれるのですか?」
「ええ。ちゃんとお父様にも届けは出してあるし、先方にも挨拶状を送ってあるわ。アイシャも一緒に来てちょうだい」
朝の陽射しがまだ柔らかく広がる時間、リリスはアイシャと共に、村外れの一軒の農家を訪れる準備を整えていた。
今回訪れるのは、養鶏を本格的に行っている農家のセロ家。以前、ルビーに「養鶏をしている信頼できる農家はないか」と相談した際に、紹介された農家だった。
「養鶏の視察をさせてほしいっていうお願いをしたら、最初は驚かれたけれど、誠意を込めて文を送ったら、見学だけでよいならと了承をいただけたの」
リリスはそう言って、丁寧にたたんだ許可証を鞄にしまうと、しっかりと歩き出した。
しばらくして到着したのは、木造の母屋と小さな鶏舎が並ぶ、静かな農家。門を叩くと、穏やかな初老の男性が顔を出した。
「おや……まさか、子爵家のご令嬢様が来るとは……。うちは“商人の娘さんが興味を持ってる”って聞いていたんだが……」
「すみません、少し身分を伏せておりました。リリス・ラヴェンダーと申します。今日はご多忙のなかお時間をいただき、本当にありがとうございます」
深く頭を下げるリリスに、相手は少し驚いたように目を見開いたが、やがてふっと口元を緩めた。
「……なるほど、ただの好奇心じゃなさそうだな。とりあえず礼儀については容赦してくれ、何も教えて貰っちゃいないんだ。まあ、視察だけって話だったな。見せてやるさ」
通されたのは、丁寧に整備された木造の鶏舎だった。
「こちらが、うちの鶏小屋だ。広くはないが、うちではこの鶏たちで十分に卵をまかなえてる」
リリスは、懐かしさにも似た感情を覚えながら、小屋の内部を見渡した。
(……小学校の時の、あの鶏当番。寒い冬の朝、凍えた手で水を替えて、掃除をして。毎日産まれていたあの卵……)
前世の記憶が、静かに脳裏に蘇る。
「……わら敷きの床に、通気のための小窓……巣箱は三羽に一つくらいの割合、ですね? なるほど」
「……詳しいな、嬢ちゃん。おまけに目の付け所も悪くない」
「昔、少しだけ鶏の世話をしていたことがあるんです。子供の頃に、ですけれど」
「今の嬢ちゃんだって十分子供だろうに、何を言ってるんだ」
「あ、そうですよね、変な事を言ってすみません――しかし…」
リリスは穏やかな微笑を浮かべたまま、鶏たちの動きをじっと観察する。
「餌はどうされていますか? 穀物中心ですか?」
「そうだな。大抵は自家製の麦や野菜くず、あとは少し貝殻を砕いたもんを混ぜてる。卵の殻がしっかりするからな」
「カルシウムの補給ですね。巣の下の掃除頻度は……あ、毎日?」
「そりゃそうさ。糞は放っとくと臭うし、病気も怖いからな」
リリスは、時折メモ帳に記録を取りながら、一つひとつ確かめていった。
「なるほど、やっぱりここでも同じなのね……鶏のために快適な環境を整えることが、一番大事……」
アイシャが小声で囁く。
「リリス様……すごく真剣ですね。まるで、昔から飼っていたかのようです」
「ううん。飼っていたのは、ほんの数羽だったけれど……でも、その子たちの卵は、わたしにとって“日常のごちそう”だったから」
その声には、淡くも確かな想いがにじんでいた。
リリスは、時折メモ帳に記録を取りながら、一つひとつ確かめていった。
「なるほど、やっぱりここでも同じなのね……鶏のために快適な環境を整えることが、一番大事……」
「こっちが寝床のほうだ。わらを敷いてあるのは、糞と一緒に発酵させて畑の肥料にするためさ。乾燥しすぎないように、時々水も撒くんだよ」
農夫の男が、足元の藁を踏みしめながら補足する。リリスは目を輝かせて頷いた。
「循環型ですね……無駄がなくて素晴らしいです」
「よく知ってるな。ただ、鶏の数が増えすぎると病気が蔓延しやすくなる。だからうちでは、飼うのはせいぜい三十羽までにしてる。元気な個体を見極めて、入れ替えもやってるんだ」
「病気の予防と、環境の管理が両立しないと意味がないんですね……」
リリスは真剣な表情で納得したように呟いた。
「ちなみに、この子たちは……卵を産む品種なんですか?」
「こいつらは主に肉用だな。卵を毎日産むってわけじゃねぇ。普段は“オード鳥”の卵の方が人気で高値がつく。あれは大きいし黄身も濃くてな、貴族様に好まれてる」
(そうか、前に食べた鶏卵より大きい卵はたぶんそのオード鳥なんだわ…)
「オード鳥……それはまた別種なんですね」
「おうよ。まあ高い飼料がいるし気も遣うが、そのぶん卵も肉も高く売れる。うちみたいな農家にはちと手が出しづらい代物さ」
「……でも、どんな鶏でも、きちんと育てれば立派な命ですし、きっと価値はあるはずです」
「……嬢ちゃん、本気で鶏を飼おうってのか?」
「はい。最初は数羽ほどから。きちんと面倒を見て、産卵に適した環境を作りたいと思っています」
リリスはまっすぐにそう答えた。その眼差しに、農家の男はふっと目を細めた。
リリスは農家の鶏舎を一通り見学し終えると、穏やかな口調で切り出した。
「……もし、数羽だけでもお譲りいただけるようでしたら、ぜひお願いしたいのです。今、わたくしの家で飼育環境を整えつつあります。まずは小規模に始めて、将来的にはこの地で“養鶏”を根づかせる産業にできたらと思っていて……」
そう語るリリスの表情は、幼いながらもどこか切実で、未来を見据える真剣さがあった。
しかし農家の男は腕を組み、難しい顔を崩さなかった。
「気持ちはありがてぇがな、嬢ちゃん。正直言って、鶏はそう簡単に手放せるもんじゃねぇ。こいつらはな、うちのばあさんの代から大事に育ててきた血統なんだよ。簡単に数を減らすわけにはいかねぇ」
リリスは深く頭を下げた。
「……承知しております。わたくしも命を預かる以上、無責任なことはしたくありません」
彼女は顔を上げ、真っ直ぐな瞳で男を見つめた。
「だからこそ、きちんと見て学ばせていただきたかったのです。飼育の環境も、餌のことも、衛生管理のことも。わたくしが成功例を作ることができれば、いずれはこの土地に、鶏を育てる家が増えるはずだと思っています。そうすれば、村全体にとっても利益になる――その一歩を、どうかお力添えいただけませんか?」
男はしばらく無言でリリスの顔を見つめた後、ふっと息を吐いて視線を鶏舎に戻した。
「……嬢ちゃん、あんた思ったより“商人”じゃなくて、“農家の目”をしてるな」
「そう……でしょうか?」
「少なくとも、自分の利益だけじゃなくて、土地や人の未来を考えてるやつの目だ。そういう目をしてるやつなら、簡単には鶏を死なせたりしねぇだろうさ」
リリスは胸に手を当て、静かに頷いた。
男は頭を掻きながら、少し照れ臭そうに言う。
「今いる雛のうち、番にできるのが判ったら2羽だけなら。ただし、あんたが育ててる様子を見てからって条件つきだ。それでもいいか?」
「はい、もちろんです!」
リリスの顔がぱっと明るくなった。
農家の男の言葉――「雛を譲ってもいい」という一言を受け、リリスの表情に決意が宿った。
「ありがとうございます、本当に……。期待に応えられるよう、すぐに鶏舎の準備を始めます」
「場所はあるのか?」
「はい。以前、屋敷の裏手にあった古い四阿を改築すれば使えそうなんです。風通しも日当たりも悪くありませんし、藁や板で寝床を整えることもできます。おかげさまで目星はついています」
男は感心したように鼻を鳴らした。
「四阿を鶏小屋にねぇ。発想としては悪くない。……あとは、餌と水、これをちゃんと確保できるかだな」
「餌は農村の方から余剰の野菜くずや穀類の端を分けてもらえるよう、いくつかあたってみるつもりです。水は井戸から……朝夕の見回りは私とアイシャで分担します」
「へえ……アイシャってのは、あの黒髪の嬢ちゃんか?」
視線を向けた先には、丁寧に他の農民たちにお礼をしているアイシャが映る
「はい。私の専属侍女であり、大切なパートナーです」
男は少しだけ笑った。
「そりゃ、いいコンビになりそうだ。ま、やれるだけやってみな。こっちも雛の様子を見ながら準備しとくからよ」
「ありがとうございます。まずは、今ある資金と人手でどこまでできるか――しっかり考えて、行動に移します」
リリスはしっかりと頭を下げた。
(これは、きっと最初の一歩。でも、ここからが本当の始まり――)
視察を終えたリリスは、農道を歩いて屋敷への帰路を辿っていた。足元にはまだぬかるみの残る道だが、胸の奥は晴れやかだった。
「リリス様、お疲れでしょうか?」
傍らを歩くアイシャが、そっと尋ねる。彼女の手には、農家から譲り受けた鶏の餌の一部――試供用の麦のふすまが包まれていた。
「いえ、むしろ元気が湧いてきたところよ。やっと、第一歩を踏み出せた気がするわ」
リリスは軽く息をついて空を仰ぐ。
「でも、これからが本番よ。まずはあの四阿を改築して、鶏たちが安心して過ごせる環境を整えないと」
「ええ、私も協力します。大工の手配や資材の準備は私にお任せください」
「頼りにしてるわ、アイシャ」
小さく微笑み合った後、リリスはふと足を止め、遠くに見える屋敷の方を見やった。
「卵がもっと身近になれば……それは、この国の食卓が変わる第一歩になるかもしれない。たとえば、卵料理が特別じゃなく、日常の喜びになるような未来――」
「“リリスの卵革命”、いよいよ始まったわけですね」
アイシャがくすりと笑って言う。
「ええ、まだ雛が一羽も来ていないのに少し気が早いかしら。でも……」
リリスはぎゅっと拳を握る。
「まずは十羽。次は三十羽。そしていずれは――ラヴェンダー領全体で、養鶏が当たり前になるように」
「その日が来る頃には、きっとリリス様の名前も、卵と一緒に広まっているでしょうね」
「ふふっ、それはちょっと恥ずかしいけれど……そうなったら嬉しいわね」
春の陽光が道端の草を照らしていた。まだ風は冷たいが、少女の胸にはたしかな温もりがあった。
(卵は、私の夢の象徴――でも、これは“私だけの夢”じゃない。家族のため、領のため、そして未来の誰かのために)
その足取りは軽く、未来へと続く道を一歩一歩、しっかりと踏みしめていた。




