旅の終わり、王都の朝
出発の朝。
馬車の車輪がきしむ音が、屋敷の前庭に静かに響いた。
リリスは、朝露に濡れた石畳の上で、手袋を整えながら深く息をつく。すぐそばには、アイシャとセラ・アンジーが立ち、身支度を整えていた。荷物はすでに積み込まれ、丁寧に磨き上げられた子爵家の馬車が、三人を王都へと送り出す準備を終えていた。
「王都までは、通常の馬車でも三日はかかる。今回は少しでも安全な道を選んでいるから、片道三泊四日の行程になる予定だ。宿もすべて手配してある。安心して行ってきなさい」
クラウスが静かに言い、リリスの前に歩み寄る。
その目は、誇りと少しの寂しさを湛えていた。
「……行ってこい。王都の空気に呑まれるなよ」
「ええ。子爵家の名に恥じぬよう、努めてまいります」
リリスが背筋を伸ばして答えると、クラウスは無言で頷き、そっと肩に手を添えた。
「緊張することもあるでしょうけれど……慌てず、いつものあなたでいなさいね。見栄なんて張らなくてもいいのよ」
リシアが優しく声をかける。
リリスは、微笑みながら小さく首を振った。
「はい、お母様。……でも、ちょっとだけ背伸びするくらいは、許してくださいませ?」
そんなやり取りをそっと見守っていたアイシャが、すっと前に出る。
「お嬢様、準備は整っております。馬車内でも礼儀作法の確認はできますので、ご安心ください」
「ええ、頼りにしているわ。アイシャ」
頷き合う二人の絆は、もう侍女と令嬢という枠を超えていた。
その時――
「おねーちゃん……いっちゃうの?」
ルーファスが袖をつかんできた。ルシェルも後ろから、小さな手提げ袋を抱えてそっと覗いている。
「うん。少しだけ、お留守番お願いね。ルーファス、ルシェル、何かあったらお母様や使用人の皆に相談するのよ?」
リリスの言葉に、ルーファスは小さくうなずいて、唇をきゅっと引き結んだ。
「さみしい……でも、がんばる……」
「ルシェル、がまんできる……! お姉しゃま、がんばって……!」
二人の弟妹にぎゅっと抱きしめられ、リリスも少しだけ目を潤ませながら、優しく背を撫でる。
「……わたしも本当は、さみしいわ。でも、すぐ帰ってくるから。それまで、いい子で待っててね」
「王子様に会ったら、ちゃんとごあいさつするんだよ!」
「……そ、それは……努力するわ」
笑いが広がり、出発の緊張も少しだけ和らぐ。
そして――
「では、参りましょうか、お嬢様」
アイシャの声にうなずき、リリスはついに馬車へと乗り込んだ。
窓の向こうに見える家族へ、名残惜しげに手を振る。
こうして、子爵令嬢リリス・ラヴェンダーの王都への旅が始まった。
世界を相手にする、少女の新たな一歩が踏み出されたのだった。
リリスたち一行を乗せた馬車は、朝靄の中をゆっくりと街道へと進み出していた。前方には先導の騎士、後方には警護役のセラ・アンジーが控え、静かに周囲を見回している。
「空が、広い……」
馬車の窓から顔を出したリリスが、思わず小さく呟く。視界の先には、これまで見たことのない広がりと、見知らぬ風景が続いていた。見慣れた子爵領を離れ、初めて訪れる王都への旅。心が躍るのと同時に、微かな緊張も滲む。
「お嬢様、お顔を出しすぎると埃が入りますよ」
すぐ隣に座るアイシャが、控えめに声をかけながら、そっとハンカチを差し出す。
「ふふ、ありがとう。……ねえアイシャ、こんなに遠くまで出るの、久しぶり?」
「いえ。私は……旅の経験はほとんどありません。お嬢様と一緒が初めてです」
真っ直ぐに答えるアイシャの横顔に、リリスはふっと微笑む。
「じゃあ一緒に“初めて”ね。……心強いわ」
その言葉に、アイシャは一瞬きょとんとしたあと、照れくさそうに笑みを浮かべた。
セラは無言ながらも時折馬車の窓に目をやり、外の警戒を続ける。彼女の銀のポニーテールが風に揺れる様子は、まるで舞い降りた天使のようだった。
そうして一行は、ゆっくりと、しかし着実に王都への道を進んでいく――。
旅の三日目、王都まであと一日の地点で宿を取った一行は、小高い丘の上にある宿屋で夕食をとっていた。
薪の火がぱちぱちと鳴る食堂には、木の香りが満ちており、窓からは遠くに王都の灯りがわずかに見える。
「明日には、いよいよ王都……」
食後、部屋に戻ったリリスが小さくつぶやく。アイシャが支度を整えながら、ちらりと視線を向けた。
「緊張されていますか?」
「少しだけ。けど、不思議と怖くはないわ」
リリスは微笑み、窓の外に目をやった。慣れぬ旅で疲れもあるはずなのに、その瞳はきらきらと輝いている。
「……それはきっと、頑張って準備してきたからです。お嬢様は、もう立派な子爵令嬢ですから」
アイシャの言葉に、リリスは思わずくすりと笑った。
「ありがと。でも、あなたの“しごき”のおかげでもあるのよ?」
「……あれは、最低限です」
ちょっとむくれたように言うアイシャを見て、リリスは声をあげて笑う。
そのころ、子爵家の屋敷では、ルーファスとルシェルが庭で遊んでいた。留守番を任された二人は、昼間は庭師やメイドたちと一緒に元気に走り回っているらしい――と、リリスはクラウスから届いた手紙で知っていた。
「……あの子たちが元気にしてると思うと、安心するの。前は“家族”ってどこか遠いものだったけど……今は、本当に幸せだって思える」
「……お嬢様」
アイシャは何も言わずに、ただリリスの肩に毛布をそっとかけた。
「明日はきっと、大丈夫です。私がついておりますから」
「ふふ……頼りにしてるわ、アイシャ」
二人の間に、穏やかな沈黙が流れる。
その静けさの中、リリスは心の奥で、小さく呟いた。
(――王都って、どんな場所なんだろう。私、ちゃんと通用するかしら)
まだ見ぬ世界を前に、リリスの胸には不安と希望が、静かに交錯していた。
王都の石畳を馬車の車輪が静かに転がる。高い石壁の門を越えた先、まばゆいほどに整えられた街並みに、リリスは思わず目を見張った。
(……すごい。空気が違う気がする)
大通りには高級馬車が行き交い、道沿いの建物は、子爵領とは比べ物にならないほど洗練されていた。
市の中心部に向かうにつれて、露店からは香辛料や焼き菓子の香りが漂い、通りすがる人々の衣装からも、この国の経済の中心地であることが伝わってくる。
「お嬢様、そろそろ宿が見えてまいります」
窓越しに案内するアイシャの声に、リリスは我に返る。
馬車が止まったのは、王都南区の中でも比較的静かな路地に面した、落ち着いた趣の宿屋だった。派手さはないが、よく手入れされた木造の三階建てで、入口には花鉢が並べられ、石畳の玄関も清潔感に満ちている。
「……けっこう、いいところじゃない?」
「クラウス様のご配慮だと思います。あえて貴族の館ではなく、表立たない宿を選ばれたのでしょう。万が一のことも考えて、です」
「なるほど……」
馬車を降りたリリスは、少しだけ緊張した表情を見せながら、館の中へと足を踏み入れた。
「リリス! 部屋は奥の角部屋よ! 日の光がよく入るって、ここの女将さんが言ってた!」
ルビーが早々とチェックインを済ませ、案内に立っていた。彼女の明るい声に、緊張も少しほぐれる。
「じゃあ、アイシャと荷解きお願いしてもいい? わたくし、少し外の空気に触れてみたいの」
「……お一人では危険です。私もご一緒します」
「わかったわ。お散歩程度よ?」
微笑みを浮かべるリリスに、アイシャは小さくため息をついてからうなずいた。
街の喧騒から少し離れたこの宿は、ほどよく王都の中心にも近く、明日の社交会場への移動にも便利だった。
ただ、今回の王都滞在は、あくまで“客人”ではなく“新参者”。知人の貴族の屋敷に頼るような伝手もなく、すべて自前で用意されたものだった。
その事実を、リリスも重く理解していた。
(――何も持たない状態で、どこまで通じるか。だけど、ここがスタート地点。試されるのは、きっとこれから)
そしてもう一つ、胸の中にわき上がってくるものがある。
(王都には、わたしの知らないものがまだまだたくさんあるはず。見て、感じて、学んで――商売の種を拾って帰らなくちゃ!)
視線の先には、石畳の道を彩る看板や露店の飾り、往来の人々の持ち物があった。
ここには、子爵領をもっと豊かにするためのヒントが、必ず隠されている。
(せっかく来たのだもの。絶対、手ぶらでは帰りませんわ)
窓の外、遠くに見える宮殿の尖塔。その先に待つものを見据えるように、リリスは静かに拳を握った。
そうしてお家の布団よりも柔らかくて快適な王都の宿に泊まった翌日…いよいよお茶会の当日がやってきた
『子供同士の交流だからお気軽にとか書いてあったけど、絶対そんなわけないわよね…』
王都の中でも、由緒正しい貴族が集う東区。その一角にある伯爵家の離れ屋敷が、今回のお茶会の会場だった。
庭に面したテラスには、年齢の近い貴族の子女たちが色とりどりのドレスをまとい、上品に談笑している。
「……ここが、舞台ね」
馬車を降りたリリスは、一瞬だけ深呼吸をしてから一歩踏み出す。
胸元のリボンには、ルビーが細工したハーブの香り袋がさりげなく縫い込まれている。香りで落ち着きを保てるようにと、彼女なりの気遣いだった。
後ろには、アイシャがしっかりと控えている。身なりも振る舞いも、まるで貴族の付き人のような品格をまとっていた。
「お嬢様、練習通りに――ご武運を」
「ええ、行ってきますわ」
招待状を示して門をくぐると、控えの使用人が案内に出てきた。
「お待ちしておりました。子爵令嬢、リリス・ラヴェンダー様ですね。どうぞ、こちらへ」
緊張と期待を胸に、リリスは中庭へと導かれていく。白いテーブルクロスに飾られた紅茶セット、涼やかな風に揺れる花々、そして――彼女の到着に振り向く、十数人の貴族の子女たちの視線。
(……はじめまして、王都)
その瞬間、ひときわ目を引くドレス姿の少女がリリスに近づいてきた。
髪は明るい栗色、瞳は深紅。きらびやかなリボンとレースに彩られた姿は、まるで物語の中のお姫様のようだった。
「あなたが、今回新しく招かれた子爵令嬢? ……リリス・ラヴェンダー、で間違いないかしら?」
「ええ。ラヴェンダー子爵家の娘、リリスと申します。ご一緒できて光栄ですわ」
丁寧な会釈とともに答えると、少女は少し唇をつり上げるように笑った。
「わたくしは、カトリーナ・フォン・セレニア。今回のお茶会の“発起人”よ。――どうぞ、楽しんでいってちょうだい」
言葉自体は丁寧だが、その眼差しには探るような色があった。
リリスは、その空気を敏感に察しながらも、表情を崩さずにうなずく。
「ええ、ありがたく」
軽く会釈を交わした後、リリスは周囲の子女たちにも目を配る。すでに数人の視線が自分に集まっていた。噂好きな令嬢たち――そして、その中には、後方でひっそりと様子をうかがう、一人の黒髪の少女の姿もあった。
(……あの子、どこかで――)
一瞬だけ既視感を覚えたが、その正体を探る暇もなく、進行役の貴婦人が声をあげる。
「それでは、皆さまお揃いのようですので、改めてお茶会を始めましょう」
ティーカップが並べられ、菓子皿が各人の前に配られていく。
いよいよ、王都での“貴族の社交”が始まる。
リリスは椅子に腰かけ、背筋を伸ばした。
(……本番は、ここからかしら)




