お嬢様、お支度は整いましたか?
薄明の光が窓から差し込む朝、リリスはダイニング横の小さな応接室で、ナプキンを膝の上に整えたまま、真剣な眼差しでカップに手を添えていた。正面にはアイシャ。しっかりと背筋を伸ばし、手元にある銀のスプーンをそっとリリスの前に置く。
「お嬢様、本日もお茶会想定で参りましょう。まずは紅茶を注ぐ前の挨拶から」
「はい。……“ご一緒できて光栄です。どうぞ、よろしくお願いいたします”」
姿勢よく言葉を述べ、会釈するリリス。その所作は、かつてのぎこちなさが嘘のように洗練されていた。
アイシャはほんの少し目を細めて微笑む。
「完璧です。声の抑揚も柔らかくなって、印象がぐんと上品に。これで紅茶の注ぎ方も美しくできれば、もう貴族令嬢として十分通用いたします」
「ふふっ、さすがに三週間、みっちり仕込まれれば覚えますわよ……」
リリスが頬を軽くふくらませて言うと、アイシャは小さくくすくすと笑い、すぐに真顔へと戻った。
「ですが――お茶会の場では緊張が伴います。練習通りの振る舞いができるとは限りません。ですからこそ、身につけた“習慣”が大事になるのです」
まっすぐにリリスの目を見て語るアイシャ。その口調に、ただの侍女ではなく、まるで教育係のような風格がにじむ。
リリスは一瞬驚いたように彼女を見つめたあと、ふっと微笑んでうなずいた。
「――頼りにしてるわ、アイシャ」
「……ありがとうございます、お嬢様。光栄です」
そう言いながら、アイシャはリリスの袖の折り目をそっと直す。動作のひとつひとつが丁寧で、まるで舞台に立つ姫を支える補佐のようだった。
外では、ルーファスとルシェルの明るい笑い声が響いていた。幼い妹の声を聞きながら、リリスは小さく息を吸って、まっすぐ前を見据えた。
(わたし――きっと、やれるはず)
そんな静かな決意が、胸の奥に芽吹いていた。
応接間のテーブルには、すでにルビーが持ち込んだ色とりどりの布地やリボン、レース細工が並べられていた。窓から差し込む朝日を受けて、光沢のある絹地がきらりと輝く。
「リリス、ルシェル様。今日はたっぷり時間を取ってるから、しっかり選びましょうね」
「はい。ルシェル、楽しみましょうね」
リリスが隣に座る妹に声をかけると、ルシェルは少し緊張しながらもコクリとうなずいた。
「はい、お姉しゃま…おようふく……いっぱい、きれい……」
「ふふ、たくさん試着してもらうから覚悟しておいて?」
ルビーが柔らかく笑いながら生地の山から数枚を取り出す。リリスのドレス用には淡い青と白を基調とした上品な組み合わせ。ルシェルにはほんのり桜色を帯びたミルクティー色の絹が選ばれた。
「こっちは、リリスに合わせた上品なブルー。動いた時に光沢が浮き出るように織ってあるのよ。そしてルシェル様には……この柔らかい色合い、肌の白さと髪の色にぴったりだと思って」
生地を頬にあてながら、ルビーは目を細める。
「こうして並ぶと、本当に絵になる姉妹ね。ドールみたいに可愛くて、こっちが緊張するくらい」
「またまた、お上手ですわね」
「本音よ? むしろ、こちらがお金払って着せ替えさせてほしいくらいよ、何なら2人でうちの紹介のモデルにならない?なんてね」
軽口をたたいてたルビーはリリスの袖にそっと触れ、ふいに真剣な表情に変わった。
「――でも、今回は本当に勝負の一着になるわ。王族の目にも入る可能性があるお茶会。『ただの田舎子爵令嬢』なんて思わせないくらいの仕立てにしてみせる」
その強い宣言に、リリスも自然と背筋を伸ばした。
「頼りにしてるわ、ルビー。あなたの腕に、恥じないような振る舞いをしてきます」
二人が見つめ合う中、鏡の前ではルシェルがすでに試着中の一着をまとい、アイシャに髪を整えてもらっていた。
「お姉しゃま、これ……かわいい……?」
「もちろん。とってもかわいくてルシェルに似合ってるわ」
リリスの言葉に、ルシェルは少し照れながらも笑顔を浮かべる。鏡の中の二人は、姉妹というより“小さな貴婦人と侍女”のような光景だった。
そんな様子を見つめながら、リリスは静かに思った。
(――わたしだけじゃない。ルシェルにも、堂々と胸を張ってほしい)
この日、姉妹のドレスは無事に仮縫いまで終えられ、最終仕上げに入ることが決まった。お茶会まで、あとほんのわずか――。
応接室の窓の外に、ふいに一台の馬車が止まった。漆黒の外装に、ラヴェンダー子爵家の小さな紋章。飾り気はないが、丁寧に磨かれた車体は堂々としており、手綱を取る御者の姿も引き締まって見える。
しばらくして、クラウスが姿を現した。仕事の合間を縫って戻ってきたらしく、いつもの執務服姿に軽い外套を羽織っている。
「リリス、準備は順調か?」
柔らかい声に、リリスは小さくうなずいた。
「はい。礼儀作法もドレスも、ほとんど整いました。あとは……馬車と、護衛の件だけです」
「ふむ。ちょうどいいタイミングだな。馬車の方は、今朝仕立て直しが終わった。かつてお母様が使っていたものを少し改装してな。子爵家としては質素な部類だが、手入れはしてある。恥ずかしい思いはさせん」
その言葉に、リリスの胸の奥がじんとあたたかくなる。
「ありがとう、お父様」
クラウスは照れくさそうに視線を逸らすと、すぐ話を戻した。
「それと、護衛の件だ。今回のように王都まで娘を送り出すなら、最低一人は腕の立つ者が必要だろう。――紹介しよう。セラ、入れ」
控えていた扉が音もなく開き、現れたのは、銀色がかった髪を一つにまとめた少女だった。年の頃は十代後半、リリスやルシェルよりはずっと年上だが、あどけなさの残る顔立ちに凛とした気配をまとっている。
「セラ・アンジー。護衛任務に就くのは初めてですが、訓練は十分に積んでいます。以後、お見知りおきを」
丁寧に一礼しながらも、その瞳にはまっすぐな意志の光が宿っていた。
「よろしくね、セラ。……でも、あまり緊張しないで。お茶会の場では、護衛というより“付き添いのお姉さん”として振る舞ってもらえたら嬉しいわ」
リリスの言葉に、セラはふと表情を和らげた。
「――承知しました。では、天使のように優雅に、かつ冷静に守らせていただきますわ」
その台詞に、リリスは思わず小さく笑い、アイシャは静かに目を細めた。
(天使……本当にこの子、そこに憧れているのね)
クラウスはそんなやり取りを眺めながら、静かにうなずいた。
「セラは、我が家で育てている兵士の中でも屈指の身のこなしを誇る。剣よりも護衛や制圧向きの技術に秀でている。今回の任務には最適だと思ってな」
「心強いですわ、お父様」
リリスは父に向き直り、深々と頭を下げた。
「……すべてに感謝します。これで、ようやく胸を張って出発の準備ができますわ」
その夜。屋敷の居間では、出発を翌日に控えた一同が、少し早めの夕食を囲んでいた。
クラウスはテーブルの端に腰掛け、傍らに書類の束を置いたまま、静かに口を開いた。
「王都までは、通常の馬車でも三日ほどかかる。だが、今回は最速の馬車は用意できないし、安全な道を選んでいる。そうなると片道で五日は必要になる。宿もすべて手配済みだ。往復を含めれば、最低でも十日は見込んでおいてほしい」
リリスはその説明にしっかりと頷きつつも、心の中で苦笑を漏らす。
(五日か……。でも、前世ではデスクの下で仮眠してたこともあるし、馬車で寝るくらい、なんてことないわよ。……というか、今の部屋のベッドだって、そんなに柔らかくはないし)
そんな軽口は胸にしまい、リリスは表情を引き締めて、真正面からルーファスとルシェルを見つめた。
「二人とも、お留守番をお願いね。何か困ったことがあったら、お母様やアイシャにちゃんと相談するのよ?」
リリスの真剣な眼差しに、ルーファスは唇をぎゅっと結びながら、少し言いづらそうに声を発した。
「ルシェルー! 明日、おねーちゃん行っちゃうんだよ! さみしい?」
「ううん……ルシェル、がまんできましゅ……!」
小さな声ながら、精いっぱい気丈に答えるルシェルの姿に、ルーファスは見事に打ちのめされたように肩を落とした。
「ルシェルの方が……強いのかも……ぼく、ぜったいさみしい……」
その言葉に、リリスも目を細め、笑みを浮かべながら優しく応じる。
「……わたしも、本当はさみしいわ。でも、すぐ帰ってくるから。それまで、いい子で待っててね?」
二人の弟妹は、椅子を降りてリリスの元に駆け寄り、両腕でぎゅっとしがみついた。
「おねーちゃん、がんばって!」
「王子様に会ったら、ちゃんとごあいさつするんだよ!」
「……そ、それは……努力いたしますわ」
くすくすと笑い合う家族の中で、リリスは胸の奥に静かに覚悟を刻み込んだ。
いよいよ明日から、外の世界――王都へ旅立つ。
屋敷の中で過ごす子爵令嬢ではなく、外の世界と向き合う「ラヴェンダー家の看板」としての、初めての一歩だった。




