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王子と令嬢、社交界という戦場へ

 市場の活気が昼を迎えて少し落ち着き始めた頃、リリスは商品棚を手早く整えると、ふうっと一息ついた。

 今日も朝から多くの客が訪れ、瓶詰めのピクルスと石鹸は早々に売り切れ、ラスクも残りわずかだ。


 「今日も完売、か……うれしい悲鳴だけど、そろそろ別の準備に時間を使わないと」


 胸元のエプロンを整えながらつぶやいたリリスは、周囲を見渡す。すると、通りの向こうから、見慣れた赤茶の髪がこちらに向かってくるのが見えた。


 「ルビー! 来てくれたのね」


 「あんたの店の評判が気になってね。偵察ついでに冷やかしに来ただけよ」


 冗談めかしたルビーの口調に、リリスも笑みを返す。売り場の隅へと移動し、他の客の邪魔にならないように声をひそめながら話を切り出した。


 「実は……しばらく、出店をお休みしようと思ってるの」


 「えっ、急ね。どうかしたの?」


 リリスは少しだけ言いにくそうにしながらも、素直に事情を明かした。


 「家の事情というか……お母様から、“貴族令嬢としての教育”を本格的に受けなさいって。礼儀作法や立ち居振る舞い、王都のことまで……時間をかなり取られそうなの」


 「なるほどね。で、どうするつもり?」


 「委託販売という形で、ルビーにお願いできないかなって思ってるの。ちゃんと納品リストもつけるし、商品の補充や在庫管理も私が責任を持って対応する」


 リリスが真剣な眼差しで見つめると、ルビーは腕を組み、少し考え込む素振りを見せたあと、にやりと笑った。


 「そのチャンス、待ってたのよ。正直、あんたの商品、もっと数を出したかったんだから。売れるのに機会が限られてたのが歯がゆかったのよ」


 「……ありがとう、ルビー。もう少し詳細が決まったら改めて正式に依頼するわ」


 「ま、せいぜい優雅なお勉強とやらに励みなさいな。こっちは任せて」

 「ただし――委託ってことなら、商品の管理帳簿くらいは確認させてもらうわよ?」


 「もちろん。ちゃんとつけてるし、納品時に控えも渡すつもり。売上記録も週ごとにまとめて提出するわ」


 「へぇ……そんな細かく? 楽しみにしてるわ。どれだけやる気か、帳簿を見ればわかるからね」


 ふたりは小さく笑い合いながら、その場でいくつかの取り決めを交わす。すると、リリスはふと思い出したように、少し声を落として続けた。


 「そういえば、もうひとつお願いがあるの」


 「なに?」


 「王都から、お茶会の招待状が届いたの。近隣の領主家の子女や、王族も参加するらしくて……母からは“子供だけの集まりよ”って言われたけど、だからこそ、しっかり準備しておきたいの」


 ルビーの目が鋭くなり、口元がわずかに引き締まった。


 「なるほどね。で、ドレスの準備が必要になるってわけか」


 「うん……正直、きちんとした衣装がほとんどなくて。だから、ルビー。少し、相談に乗ってくれない?」


 しばらく沈黙が流れたあと、ルビーは肩をすくめ、口角をゆるめた。


 「いいわよ、出世払いでね。可愛い後輩のためだもの」


 「ありがとう、ルビー……本当に、頼りにしてるわ」


 数日後の夕方、応接間にて。


 テーブルの上には、令嬢向けの礼儀作法や、社交での立ち居振る舞いをまとめた書類が整然と並んでいた。リリスは背筋を伸ばして椅子に座り、いつになく真剣な面持ちでそれらに目を通していた。


「……思ったよりずっと、奥が深いのね」


 ナプキンの扱い方、ドレスを着たときの座り方、言葉遣いの緩急。読み進めるほどに、その場限りの振る舞いではなく、「内面から整える」ような修練が求められているとわかってくる。


 「形ばかりではいけません。相手の立場を尊重しつつ、自分の品位を崩さない。その両立が“貴族の礼節”ですわ」


 静かに教えてくれる母リシアの横顔を、リリスはどこか誇らしげに見つめた。


「……これを全部、自然にできるようになるまでに、どれくらいかかるのかしら」


「大人でも、長年かけて身につけるものです。でも、あなたには芯がありますから。大丈夫よ、リリス」


 母の言葉に、リリスは深くうなずく。


 ただ卵を食べたくて始めた商いが、いつの間にか領地の未来に触れ、今はこうして王都の令嬢たちと対等に渡り合う準備をしている。


 ――あの時、「子供だけの集まりよ」と言われたのが悔しかった。でもそれは、何もできないからではなく、何も“知らない”からだと気づいたのだ。


 (知ることは、きっと、力になる)


 リリスは手元の資料をそっと閉じると、決意を込めて立ち上がった。



 数日後――


 屋敷の一室。大きな姿見の前で、リリスはそっとドレスの裾をつまんだ。


 「……うん、これで合ってる、はず」


 静かな空気の中、背後からリシアの声が響く。


 「腕は体の側面に添えて。指先は揃えるだけ。顎を引いて、背筋をもう少し伸ばして」


 「はい、お母様」


 リリスは慣れないながらも真剣に応じ、礼の所作を繰り返す。


 鏡の前の少女は、少し前まで市場で塩漬けや石鹸を売っていたとは思えないほど、落ち着いた佇まいを見せていた。


 「最初はどうなるかと思いましたけれど、よくここまで形になりましたわね」


 「全部、お母様が丁寧に教えてくださったおかげです」


 ぺこりとお辞儀するリリスに、リシアも微笑み返したが、その表情にはわずかに不安が混じっていた。


 「……ところで、ドレスはどうしましょうか。以前のも悪くはないのだけれど、さすがに子供っぽくて、お茶会には少し……」


 「それなら、もう相談してあります。市場で知り合った方に、仕立てをお願いできることになっています。支払いは、出世払いという形で」


 「まあ、なんて頼もしいの……」


 リシアは驚いたように目を見開き、それから優しく笑った。


 「あなた、どんどん自分の世界を切り拓いていくのね」


 「ええ。お茶会に向けて、きちんと整えておきます」


 リリスはしっかりと頷いた。


 成長した淑女らしい所作の中に、どこか凛とした芯の強さが宿っているようだった――


 夜、書見をしていたクラウスとリシアのもとに、軽やかな足音が近づいてくる。


 「お父様、お母様。そろそろ休ませていただきます」


 ドアの前で一礼し、姿勢を正したリリスが、穏やかに言葉を告げる。


 その立ち居振る舞いには、数日前までの幼さは見当たらず、礼儀と品位が自然ににじみ出ていた。


 「うん、おやすみ、リリス。いい夢を見るんだぞ」


 「明日も素敵な一日になりますように。おやすみなさい、リリス」


 両親の優しい言葉に軽く微笑み、リリスはもう一度丁寧に頭を下げて、部屋をあとにする。


 パタン、と扉が閉まったあと、二人はそっと目を見交わした。


 「今日のリリス、まるで……本当に“子爵令嬢”だったわね」


 「礼法の成果だな……いや、それだけじゃない。言葉の選び方、間の取り方――もはや風格すら感じたよ」


 リシアはふっと笑みをこぼした。


 「ついこの間まで“パパ”“ママ”と甘えていたのにね」


 「女の子の成長は早いな……じゃあ、まだ甘えてくれるルシェルに癒やされるか」


 「ふふ。でも、ルシェルも今は“お姉しゃま”に夢中ですよ?」


 「ぐっ……我が家に、父の味方はもういないのか……!」


 クラウスがやや大げさに項垂れると、リシアはくすりと笑いながら、そっとその肩に寄り添った。


 夜は、穏やかな家族の余韻を残したまま、静かに更けていった。

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