アイシャの迷い、少女たちのすれ違い
朝の陽射しが静かに差し込む執務室の窓辺。書類をまとめ終えたアイシャは、そっとペン立ての位置を整えながら小さく息をついた。
――今日も、変わらず忙しそうだ。
数歩離れた机では、リリスが目を輝かせながら帳簿を広げている。その横顔は、最近どこか大人びてきたように見えた。
(……私だけの、“お嬢様”だったのに)
胸の奥にわずかな棘のような感情が芽生えていることを、アイシャ自身も自覚していた。
けれどそれが、嫉妬なのか、寂しさなのか、うまく言葉にはできなかった。
ふと、脳裏に浮かぶのは、あの出会いの日。
まだ頼りなく、どこか所在なげに屋敷の隅に立っていた自分を、リリスはためらいなく受け入れてくれた。
「あなたが、今日からわたしの侍女になるの。よろしくね」
どんな立場でも関係ない、と言わんばかりの微笑み。その手の温もりは、アイシャにとって唯一無二の灯だった。
それなのに――最近は、ルビーと並んで商売の相談をしていたり、リナとキッチンで仲良く笑い合っていたり。
(いけない。お嬢様は、前に進んでるのに……)
アイシャは小さく頭を振った。
胸の奥のざらつきを否定するように、書類の埃を払う手に力がこもる。
「お嬢様がどんなに変わっても、私は侍女として――そばにいる。それだけで、いいはずなのに」
呟きは、誰にも届かないまま朝の静けさに溶けていった。
午前中の市場は、活気と人の熱気が交差する賑やかな空間だった。
その片隅――白い布をかけた木箱の前に、リリスとルビーは並んで立っていた。
「……このまま屋敷の庭や、知り合いだけに売ってても限界があるわ。そろそろ、ちゃんと販路を広げなきゃ」
そう言ってリリスは、ラベンダー色のリボンで束ねた試作品の石鹸を掲げてみせた。
「見た目も大事ね。まずは、手に取ってもらうことから」
「ふふっ、だいぶ商人らしくなってきたじゃない」
ルビーは肩をすくめながらも、どこか嬉しそうに笑っていた。
少し離れた場所、屋台の影で木箱の仕分けをしていたアイシャは、その様子をそっと見つめていた。
手にした籠からラベンダー石鹸を取り出して整えながら――その指先が、わずかに止まる。
「お待たせいたしました、お嬢様、皆様お茶の用意が整いました」
努めて明るく声をかけると、リリスは振り向いてにっこりと笑った。
「ありがとう、アイシャ。あなたがいてくれるから、安心して外に出られるの」
その言葉に、アイシャはほんの少し微笑みを浮かべながらも、胸の奥に沈んだ想いが揺れたままだった。
そんな彼女の様子に気づいたのか、ルビーが冗談めかして言う。
「相変わらず手がかからない侍女さんね。うちにも一人ほしいくらいよ」
リリスは、ふっと優しく笑う。
「でも、わたしにとっては“いちばん近くで支えてくれてる”存在なの」
ふいに、アイシャの指が少しだけ震えた。
その言葉が嬉しかったのか、痛かったのか、自分でもわからなかった。
いつも通りの午後のひととき。けれど、どこか噛み合わない空気が、ふたりの間に漂っていた。
「アイシャ、最近……疲れてない?」
リリスがそう問いかけると、アイシャは少しだけ間を置いてから、首を横に振った。
「いえ、まったく。お嬢様のお役に立てるのが、私の喜びですから」
微笑んではいた。けれど、どこかその笑みは、わずかに固い。
(最近、アイシャは少しだけ表情が硬い気がする。声をかけると微笑んでくれるけれど――あの笑顔、ほんの少しだけ寂しそう)
「そう……ならいいの」
そう返しながらも、リリスの心には小さな不安が芽生えていた。
(どうしてだろう。距離ができてる……私、何かした?)
場の空気を変えたくて、リリスは思いついたように言葉を継いだ。
「今日ね、市場で歌を歌ってた男の子がいたの。すっごく可愛い声でね、小鳥みたいに……」
けれどアイシャは、ふっと頬を緩めただけだった。
「まあ、それは……賑やかですね」
(……うまく、話せない)
本当は、アイシャのことをもっと知りたいのに。何を考えているのか、どうして少し冷たいのか。けれど、問い詰めることはしたくなかった。
(そのうち話してくれるはず――)
一方で、アイシャ自身もまた、胸の中に言葉にできないもやを抱えていた。
(本当は……お嬢様に抱きついて、子どもみたいに甘えたいのに。なんで、できないのかしら)
リリスが、どんどん前へ進んでいく。たくさんの人に囲まれ、仲間に恵まれ、輝いている。
(昔みたいに“私だけの”お嬢様じゃ、なくなってしまった……)
それでも――
(それでも、私は……)
リリスの方に目を向けると、彼女は少し寂しそうに、それでもまっすぐな目をしていた。
(やっぱり……ずるい方です、お嬢様は)
そんな思いを抱えたまま、少女たちは少しだけすれ違った時間を過ごし、それでもどこかで繋がっていた。
夜更け、屋敷の灯りがほとんど落ちた静かな時間。
アイシャは、ひとり物音を立てぬようにリリスの机に向かっていた。昼のうちに散らかっていた書類を丁寧に整え、乾きかけのインク瓶に補充を施す。筆記具も先を削って並べ直し、机の上には一切の乱れも残さない。
(……いちばん近くにいたいのに。なのに、今日はまともに目も合わせられなかった)
自身の動作がもどかしくて、少しだけ力が入ってしまう。
(私の“お嬢様”だったのに)
机の片隅には、昼間リリスがメモしていたアイデアの走り書きが残されていた。「塩漬け保存をもっと美味しく」「“可愛い”は商品になる」そんな小さな文字のひとつひとつに、彼女の成長が滲んでいる。
(どんどん前へ進んで、知らない世界を見つけて……)
そう思うと、胸の奥がひりりと痛んだ。
アイシャは静かに息を吐き、手元の紙片にそっと指を添える。
(でも私は、置いていかれたくなんてない。あなたの役に立ちたいの。ちゃんと“そば”にいたい)
その思いは、胸の中で言葉にならず、ただ手先の動きにだけ乗せられていく。
整理を終えたアイシャは、そっと椅子を引き、扉へと向かった。ふと、廊下に出る前に一度だけ振り返る。寝息を立てて眠るリリスの顔は、まるで天使のように穏やかだった。
「……ほんと、ずるい方です。お嬢様は」
その呟きに、返事はない。
それでも、微笑みを浮かべたままアイシャは静かに扉を閉じた。
翌朝――。
鳥のさえずりが窓辺に響く中、リリスはふわりと目を覚ました。
ベッドのそばには、昨夜きちんとたたまれた外套と、整然と並んだ筆記具。
インク瓶は補充され、帳簿のページにはしおりが丁寧に挟まれている。
「……アイシャ、また……」
そう呟いたリリスの声は、少しだけ罪悪感を滲ませていた。
(最近、ちゃんと話せてない気がする……)
胸に引っかかる小さな棘を意識しながら、身支度を終え、朝食の席へと向かう。
食卓では、家族がいつも通り顔を揃えていた。
ルシェルは元気にパンを頬張り、ルーファスはスープをすすりながら新しい帳面を眺めている。
「あ、そうだわ。リリス」
会話の途中、リシアがふと思い出したように口を開いた。
「王都から子供たちのお茶会の招待状が届いたの。開催はちょうど1か月後、第一王子も出席するらしいわ」
「――えっ?」
リリスは一瞬固まる。
貴族の子女が集う、正式な社交の場。そこに招かれるということは、すでに“子爵令嬢”としての自覚と責任を問われるということでもある。
頭の中で、ぐるぐると考えが巡る。
マナー、服装、話し方、振る舞い……なにもかも、まだ自信がない。
「……い、行くしか……ないのですよね?」
リシアは微笑んでうなずいた。
「当然よ。あなたはラヴェンダー家の長女で、未来の子爵領を担う子なのだから」
リリスは小さく息を呑みながら、ぎゅっと拳を握った。
(やるしかない。私はもう、“ただの少女”じゃいられない)
まだ胸の奥には、不安の影が残っている。
だけど、それでも前に進まなければ、未来は掴めない。
「お母様、大変申し訳ございませんが令嬢教育の時間を多めに重点的にお取り頂く事になりそうです。」
リリスは背筋を伸ばし、改めて母リシアに真っすぐな目を向けて言った。
「もちろん、どこに出しても恥ずかしくない…とは言いませんがあなたが王都で嫌な思いをせずに済む程度にはしっかりと叩き込んで差し上げます。」
そしてこの決意が、のちに彼女の運命を大きく動かすことになる。




