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帳簿と地図と、領地と家族の姿

 朝食を終えたあと、私は父の執務室へと一緒についていった――。


 クラウスが取り出したのは、しっかりと革の筒に納められた、一枚の地図だった。

 リリスが視線を落とすと、子爵領全体の地形、村々の配置、街道、水源、さらには一部の砦や貯蔵庫の位置までが精密に記されていた。


「……この地図、当然一般には出していませんよね?」


 クラウスの手が止まる。ゆっくりとリリスを見るその視線には、わずかな驚きが浮かぶ。


「ああ、もちろんだ。軍事情報も含んでおる。詳細すぎる地図は、むやみに流通させてはならんのだが……リリス、お前、それがどういうものか、分かっていて訊いているのか?」


 リリスは小さくうなずき、真っ直ぐに父を見上げる。


「はい。こういった情報は、下手に漏れれば国や領地の命取りにもなりかねません。取り扱いには細心の注意が必要だと、理解しています」


 クラウスはふっと息を吐き、少しだけその表情を緩めた。


「……では、どこから見ていくか。これは領全体の縮尺地図だ。まず、ここ――北部の村“ルスカ”とその近隣に広がる湿地帯は、排水がうまくいかず、作物の収量が伸びない場所だ」


「雨季になると道が使えなくなることもありますか?」


「ある。輸送の足も止まるし、場合によっては孤立する。そこに備蓄倉を設けてあるのもそのためだ」


 リリスは手元の紙にそのままメモを取り始める。湿地帯、排水、輸送、備蓄――そのすべてが商機に繋がる。


「ではこの東部の“タリア村”は……標高が高いから、気温も低めで?」


「そうだ。夏でも夜は冷える。農作物の種類も限られるが、薬草の類がよく育つ。家々では代々、簡単な乾燥や調合の知識が伝えられている」


「……薬草。加工して、保存できる形にすれば……」


「すでに王都に薬師を出している家もある。だが量産技術が乏しいのと、流通の整備が追いついておらん」


 そう聞いたリリスは、さらに地図の下部を指差した。


「ここ、西の“ベルク村”には林が多いようですが……木材の流通は?」


「自家用の薪や炭には使っておるが、製材所が少ない。馬車が通れる道も一部で整備が止まっておる状態だ。森の管理も、人手が足りん」


「……人材、ですね。もしかすると村内に眠っている“職人の卵”を育てるだけでも、大きな可能性になるかも」


 クラウスは目を細めながら、リリスの横顔を見つめた。


(商売を始めた時点で少し驚いたが……今の反応を見るに、ただの思いつきではなかったということか)


 静かに、心の奥でその成長を受け止めていた。



 クラウスの説明に耳を傾けながら、リリスは地図の上をなぞるように視線を動かしていた。


 「この辺りは比較的平地だけど……湿地が混じっているのね。地盤がゆるいから、麦や芋の栽培には向かない……」


 「そうだ。数年前までは何度か試してみたが、収穫率が悪すぎてな。今は牧草地として放置しているが、活用できればな……」


 リリスはふと、小さくつぶやく。


 「……農耕には向かなくても、養鶏なら……?」


 「養鶏だと?」


 クラウスが眉を上げる。リリスは首をかしげながらも、言葉を継いだ。


 「平らで開けている土地なら、ある程度の鶏舎を建てられるし、水はけの悪さも工夫すれば鶏には致命的じゃない。それに、鶏は雑食性で残飯も活用できる。飼料に悩む貧しい村には向いているかも」


 「なるほど……たしかに家畜よりは初期費用も安い。農作物に向かない地の活用としては、現実的かもしれんな」


 「卵も鶏肉も、保存と加工がしやすいし、いざという時は干して使える。いずれは領の自給力強化にも繋がるはず……」


 その瞬間、リリスの中でひとつの線が繋がった気がした。


 (干し野菜や塩漬けと組み合わせれば、“保存食セット”として売り出すことも……。食の安定供給こそ、領民の安心に繋がる)


 「お父様。この辺り、農作物の搬出経路ってどうなっているの?」


 「主に西の村道を使っているが、雨が続くとぬかるんで馬車が通れん。改修も検討してはいるが、予算の問題でな……」


 「なるほど……。搬出が不安定なら、野菜の一部は収穫直後に加工しておくことで、安定供給に近づけそうです」


 そう口にしながら、リリスは自分の帳簿にメモしていた「干し野菜」と「塩漬け」の欄に、新たな注釈を書き加える。


 「保存技術を活かせば、“捨てられていたはずの価値”を掘り起こせる。お金の流れも、土地の価値も、見ることで変えられるんだわ」


 アイシャがそっと頷きながら、小さな声で言った。


 「……お嬢様、まるで商人の目を持っておられますね」


 「ふふ……元はと言えば、卵が食べたいという欲望から始まったんだけどね。でも、思ったよりも広い視点で物事を考えられるようになってきた気がするわ」


 そのまま地図の南部へ目を移すと、かつて鉱山だった場所が記されていた。だが、クラウスの補足がすぐに入る。


 「そこは……昔、銀の鉱脈があったが、もう枯れた。今は閉鎖して久しい」


 「鉱業がだめなら、他には……」


 リリスの視線はさらに外縁部へと移る。


 「この辺り、川沿いに工房跡みたいな印がありますけど?」


 「ああ、それは昔、染め物職人が住んでいた集落だ。今は人口流出で、機織りの技術も廃れかけているが……まだ老人が数人残っているはずだ」


 「染色と織物……復興できれば、ハーブと組み合わせた“色付き布”や“香る布”の商品化もできそうね」


 「ほう、面白い発想だな」


 (農業に加えて、加工と手工業……可能性はまだある)



 リリスは、広げられた地図と帳簿を交互に見つめながら、小さく息を吐いた。


 「これだけの土地があっても、産業として機能しているのは農業と手工業の一部だけ……。鉱山は枯れて、織物工房も規模は小さい……」


 ペン先で地図の端をなぞりながら、リリスは呟く。


 「でも、織物の素材――糸や染料は外から仕入れてるんですよね?」


 「そうだ。養蚕や染草の栽培は昔は行っていたが、今では農家の高齢化で消えてしまった。いずれ復活させたいと思っていたが……資金も人手も追いつかん」


 「なるほど……じゃあ、そこは“後回し”ですね」


 「後回し、か。妙に切り分けがはっきりしているな」


 クラウスが微笑むように目を細めると、リリスはきゅっと口を結びながら、続けた。


 「この前、市場で気づいたんです。――人もお金も、限りがあるなら、まず“効果が出るところから手をつける”べきだって」


 「……ほう?」


 「市場の人たちは、保存がきいて、すぐに使える商品を求めていました。だからこそ、干し野菜や瓶詰めのピクルスが売れてるんです」


 リリスは、紙に簡単な表を書きながら言葉をつないだ。


 「じゃがいもやにんじんは乾かしても栄養が残る。さらに塩漬けにすれば日持ちもする。――夏に向けて保存食の価値が高まるなら、そこに注力すべきです」


 「ふむ……だが、それでは領の長期的な立て直しにはならんだろう」


 クラウスの指摘に、リリスはうなずいた。


 「はい、だから“短期で利益が出る仕組み”と、“長期で地域が立て直せる仕組み”を分けて考えるんです」


 その口ぶりは、明らかにただの子どものものではなかった。


 (帳簿の扱い、売上と利益の見極め、そして施策の切り分け……)


 クラウスは思う。ほんの数週間前まで、リリスは商売の「し」の字も知らなかったはずだ。それが今では、屋敷の財務書類にも目を通し、地図とにらめっこして産業の優先順位を語っている。


 (なぜここまで……だが、嬉しい誤算ではある)


 父としてではなく、一人の領主として。クラウスの目に、リリスの姿が少しずつ重みを帯びて見えてきていた。



 翌日――。


 リリスは母・リシアの私室を訪ねていた。窓辺には刺繍枠が置かれ、日差しの中で糸の光がきらきらと揺れている。


 「まあ、あなたが“礼儀作法をちゃんと学びたい”なんて言う日が来るなんてね」


 驚きと、どこか嬉しさが混じった声で、リシアは微笑んだ。


 「わたし、今までずっと“貴族令嬢”としての在り方を軽く考えていたと思います。でも……最近ようやくわかったの。お金の流れだけじゃ、全てを変えられない。言葉遣いや立ち居振る舞いも、誰かに信用されるためには必要なんだって」


 リリスはまっすぐに母を見つめた。


 「今後、領の外にも出ていくことになるなら、子爵令嬢として見られる場面も増えるはずです。だから、今のうちに身につけておきたいんです」


 リシアは驚いたように瞳を見開き、それからそっと娘の手を握った。


 「……立派になったわね、リリス。本当なら、私からきちんと教えるべきだったのに。あなたに言われるまで、何もできていなかったわ」


 「そんなことないよ。お母様はいつも、家族のことを考えてくれてたじゃない。……だから今度は、私が家を支える番なんだと思うの」


 リリスの小さな手に力がこもる。


 「ルーファスやルシェルにも、ちゃんと教えてあげられるようになりたいんです。わたしが“お姉さま”として、胸を張って見せられるように」


 リシアはそっと微笑み、手の中のぬくもりを確かめるように握り返した。


 「ええ……ええ、もちろんよ。今日から毎日、少しずつでいいわ。一緒に頑張りましょうね、リリス」


 「はいっ!」


 思わず立ち上がりそうな勢いで返事をするリリスに、リシアは苦笑いしつつも、頼もしさを感じていた。


 リリスが礼儀作法の練習に使うため、古いティーセットを運び終えたころ――廊下の向こうから小さな足音が駆け寄ってきた。


 「お姉しゃま、何してるのー!?」


 「お姉しゃま、お茶会の準備なの? ルシェルもお手伝いするー!」


 ルーファスとルシェルの双子が、目を輝かせて部屋に飛び込んでくる。


 「ふふ、すごいわね。さっきからずっと扉のそばで聞き耳立ててたんでしょう?」


 リシアが微笑ましそうに言うと、二人はちょっとだけバツが悪そうに顔を見合わせた。


 「だって、お姉しゃまが“お茶会”って言ったから……!」


 「ルシェルも、お姉しゃまと一緒にやるーっ!」


 ルシェルは嬉しそうにリリスのスカートをぎゅっと掴み、ルーファスもそれを見て慌てて続く。


 「ずるい! ぼくもいっしょにやりたいよー!」


 「えっ、ルーファスまで……? じゃあ、ふたりともちゃんと“貴族のお作法”覚えないとダメよ?」


 「うんっ!」


 「おねーちゃんのやることなら、がんばる!」


 双子の張り切る姿に、リリスはつい笑ってしまった。


 (家族って、あったかいな……)


 ふと、前世では当たり前にならなかった、こうした何気ない日常の幸せが胸に満ちていく。


 「……よし、それじゃあ特別講座開講よ! 初級編、ティーカップの持ち方からね!」


 「わーい!」


 「はい、先生っ!」


 リシアも思わず笑いながら、ティーセットにクロスをかけ、娘たちの成長をそっと見守る。


 ――こうして、子爵家の小さなティーパーティーは、ほんのり甘く、ほんのりあたたかく始まった。



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