ついに100ルア! 家族を巻き込む次の一手
薄曇りの朝、まだ屋敷内が静まり返る中、リリスは帳簿のページをめくっていた。
自分で手作りした仕入れ表、売上記録、そして費用の一覧――そのすべてを、丹念に見直していく。
「石鹸が十五ルアと二分。ピクルスは瓶代を引いて……十三ルアと五分。ラスクが三ルアちょうど……あとは……」
鉛筆のような木軸の筆記具を指に挟み、何度も指を折って計算を繰り返す。昨日の市場の利益を計算すると、紙の上の数字がひとつの答えを示していた。
「……合わせて……102ルア!ついに当初の目標の100ルアを超えたわ!」
その瞬間、思わず目を閉じる。
夢みたいな響きだった。けれど、確かに現実だった。
(……本当に、届いたんだ)
達成感に胸が熱くなる。だがそれは、決して一人きりでたどり着いた数字ではなかった。
商会の裏通りで石鹸を仕入れてくれたおばさま。
「このピクルス、暑くても食べやすくていいわ」とまとめ買いしてくれた奥様。
ラスクを「また食べたい!」と言って小銭を握って来てくれた小さな子供たち。
そして、街角の若い商人がふと漏らした言葉が、今も耳に残っている。
『あのハーブ石鹸、いい香りで評判だぜ?もうちょっと数、揃えてくれると助かるんだけどなぁ』
軽口のようで、確かに感じた関心と需要。小さな商いにも、確かな広がりが出てきている。
(わたし……ちゃんと、人と関われてるんだ)
心の奥に、小さな灯がともる。貴族としてはまだ足りない。でも、商人として――人として、少しずつ前に進めている。
リリスはそっと椅子から立ち上がり、窓辺へ歩いた。曇り空の向こうに、ぼんやりと朝の光がにじんでいる。
「……やった」
その声は誰にも届かないほど小さかったけれど、胸の奥でずっと張りつめていた糸が、ふっと緩んでほどけていく。
「支えてくれた人と、共に喜ぶ」
「お嬢様――もしかして、達成されましたか?」
声の主は、静かに扉の隙間から顔を覗かせたアイシャだった。いつの間にか、様子を見に来てくれていたらしい。
リリスは手にしていた帳簿をそっと閉じて、微笑んだ。
「ええ、今日の利益は……全部合わせて、102ルア。少し、想定より多くなったわ」
「……おめでとうございます」
アイシャは、ゆっくりと部屋に入り、机のそばに膝をついた。
その表情はどこか誇らしげで、けれども少しだけ潤んでいるようにも見えた。
「本当に……お嬢様の努力の積み重ねが、結果として形になったのですね。わたし……その瞬間に立ち会えたこと、誇りに思います」
「そんな、大げさよ。でも……ありがとう、アイシャ。ずっとそばにいてくれて、心強かったわ」
ふと、リリスは手を伸ばしてアイシャの手を取った。小さな手同士が、そっと重なる。
「でも、これはまだ“通過点”よ。ようやく、一歩進めただけ。もっと先に進まなくちゃ」
「ふふっ、お嬢様はいつだって、前を見ているのですね」
アイシャの頬が少し紅くなる。手を繋いだままのリリスを見つめながら、囁くように続けた。
「けれど……わたしは知っています。お嬢様が、いつも“すごいもの”を作っているって」
「……ふふ、ありがと。アイシャがそう言ってくれるなら、なんだか自信が湧いてくるわ」
陽の光が、雲の隙間から少しだけ差し込んだ。
二人の手のあいだを、あたたかく照らしていた。
その日の午後、キッチン裏にある小さな作業室。
試作品や材料が雑然と並ぶテーブルの端に、ルビーが立っていた。リリスは、抑えきれない喜びを胸に、彼女に報告する。
「聞いて、今日の“利益”――石鹸もピクルスもラスクも合わせて、差し引きしても102ルアだったの!」
「……ほんとに? 原価とか材料費を引いて、それで?」
ルビーは少し驚いた表情を浮かべてから、感心したように頷いた。
「この短期間でそこまで利益を出せるとは。あんた、本気で商会を立ち上げる気ね」
その言葉に、リリスは真剣な眼差しでうなずいた。
「ちゃんとした店舗を持って、商品ごとに担当をつけて……いずれは領外にも出したいの」
「屋号とかブランド名は?」
「うーん……今は“ラヴェンダー印”って勝手に呼んでるけど……本当は、もっと素敵な名前にしたいのよね」
ルビーは腕を組んだまま、少し考え込む。
「まあ、そのへんは正式に商会を立ち上げるときにね。とりあえず今は“リリスブランド”でも通ると思うわよ」
リリスは笑みを返しながら、視線を試作品の瓶へと向けた。
「でも、ルビーのおかげでもあるのよ? ピクルス、すごく評判良かったの。『暑くても食べやすくて元気が出る』って」
「それはよかったわ。やっぱり味の力は侮れないもの」
ルビーは真顔に戻り、話題を切り替える。
「それで、次はどう動くつもり? このまま屋敷だけで回すのは限界があるわよ?」
「そこは、ルビーに相談したかったの。わたし、子爵家の立場もあるし、自分で街を回れないこともあるし……商人として、どう販路を広げればいいのか、教えてほしいの」
日も傾きかけた夕方、リリスは庭の片隅に並べられた瓶たちを眺めながら、そっとつぶやいた。
「……ブランド名かぁ。“ラヴェンダー印”じゃ、ちょっと素朴すぎるかな。うちの商品ってすぐわかるような、覚えやすくて、もっと誇れる名前にしたい……」
そんな言葉に反応したのは、木箱の整理をしていたルビーだった。
「ラヴェンダー印、ね。――やっぱり本物だったんだ」
振り返ったリリスと目が合い、ルビーは微笑みながら言う。
「あなた、ここの領主さまの娘――リリス・ラヴェンダー令嬢でしょ?」
一瞬、リリスの動きが止まる。
「……やっぱり、気づかれていたのね」
「まあね。隠すのも大変だったでしょ?」
「そうね……でも、お願い。今まで通りでいて」
「今まで通り?」
リリスは真剣な眼差しでルビーを見上げた。
「たしかに私は“子爵令嬢”だけど、まだ八歳の子供よ。あなたたちみたいにしっかりした商人と比べたら、まだまだ足りないことばかり。だから……今まで通り、“リリス”として扱ってほしいの」
ルビーは驚いたように目を見開いたが、すぐにふっと笑った。
「……ふふ、了解。変に持ち上げて、あんたの調子が狂っても困るしね。リリスはリリスってことで」
「ありがとう……ルビー」
ほっと肩の力を抜いたリリスは、改めて瓶たちに目を向ける。
「だからこそ、ちゃんとした名前をつけたい。“ラヴェンダー印”って呼ばれても恥ずかしくないように、想いと責任を込めた名前を」
ルビーは肩をすくめた。
「悩みなさいな、思い切り。名前ってのは、その人の覚悟を映すものだから」
「うん。絶対に、いい名前を見つける」
夕陽に照らされた瓶の中で、漬け込まれたキャベツの色が淡く輝いていた。
そうして達成感をもって家に帰ったリリスたちーー
夕食後、家族が揃った客間の小さなソファに、リリスは真剣な表情で腰を下ろしていた。ルーファスとルシェルも隣に座り、珍しく静かにしている。
「……あの、今日は皆さんにお話があって……それと、お願いがあります」
リリスの声に、クラウスとリシアが顔を見合わせ、姿勢を正す。ルーファスとルシェルも、きょとんとしながら姉の顔を見つめた。
「今日、商売で一日あたりの利益が……目標だった百ルアを、超えました。だから、ここからはもっと“本格的”に取り組みたいんです」
クラウスが目を丸くし、リシアは思わず口元を手で押さえる。
「……本当に? あの屋敷の一角だけで、そこまで?」
「はい。でも、だからこそ、今のままじゃ限界があります。この家を立て直すには、ただ儲けるだけじゃなくて、ちゃんと“貴族としての立場”も整えなきゃいけないって、気づいたんです」
リリスは一呼吸置いて、両親へ頭を下げた。
「お父様、領地について、もっと教えてください。お母様には……貴族令嬢としての立ち振る舞いを、教えていただきたいんです」
その言葉に、クラウスもリシアも目を細め、ゆっくりと頷いた。
「ようやく、私たちの“娘”が、何を目指しているのか見えた気がするな……」
「ええ。リリス、あなたは立派よ」
するとすぐに、ルシェルが手を挙げて身を乗り出す。
「お姉しゃま、お茶会とかもするの? ルシェルも一緒にやるー!」
「えっ、じゃあ僕も! ねー、おねーちゃん、僕も招待してよ!」
ルーファスが慌てて続き、リリスは思わず吹き出しながらうなずいた。
「ふふ……ええ、もちろん。ふたりとも、ちゃんとお行儀よくしてくれるなら、ね」
笑い声とともに灯る団らんの空気に包まれながら、リリスはそっと拳を握った。
(私はまだまだ未熟だけど――この家を守るためにも、もっと強くならなきゃ)
この日、リリスが下した決断は――思いのほか早く、彼女を“子爵令嬢”としての試練へと導くことになるのだった。




