『白と黒の贈り物』52
――あったかい。
ふわふわの毛布みたいな、あの人の手のぬくもり。
また、あの優しい夢のつづきが見られるのかも――
さっきまで、そんなふうに思っていた気がする。
尻尾が、眠りの底で揺れそうになる。
――そう、私はチップ。
この小さな体と、濡れた鼻先で世界を感じている。
けれど――今日は違った。
耳をつんざく雷鳴が、空を裂いた。
地面を叩きつける雨は毛皮の奥まで染みこみ、冷たさよりも先に、重い痛みを残していく。
鼻先に入り込むのは、草や花の匂いじゃない。
潮と、濡れた土と、焦げた木の匂い。
その奥に、言葉にならない“いやな匂い”が混じっている。
背中の毛が、ぞわりと逆立った。
これは、ただの嵐じゃない。
何かが近づいてきている――そう、本能だけが告げていた。
稲光が、真昼みたいに世界を照らす。
私は陽花里さんの腕の中で、そっと抱きしめられていた。
濡れた赤茶色の毛を、あたたかな掌がやさしく撫でてくれる。
そのぬくもりが、心の奥までしみ込んでくる。
やがて――
陽花里さんは、そっと私を地面に下ろした。
ふと、その指先が手提げ袋の奥へと伸びる。
そして、白い布に丁寧に包まれたものを、静かに取り出した。
「……これはね、儀式の場まで持っていかなきゃいけない、大切なものなの」
白布の内側で、小さく金具が鳴った気がした。
皮の匂いが、ふわりと鼻先をかすめる。
(……この香り、知ってる)
シロから譲り受けた、あの首輪。
現代では“犬神の首輪”として私のそばにあるものが、今この夢の中では、陽花里さんの手の中に確かにあった。
横では、守さんが濡れた荷を背負い直し、こちらを振り返る。
「……守、急いで。結びの祠まで――」
言葉の意味は分からない。
けれど、陽花里さんの鼓動が早くなっていくのは伝わってきた。
この人は今、何か“かけがえのないもの”を守ろうとしている。
その想いだけが、まっすぐ胸に届く。
次の稲光が、私たちの影を濡れた地面に長く伸ばした。
嵐の匂いは、いよいよ濃くなっていた。
嵐は刻一刻と牙を剥いていく。
道の先、白く煙るような雨の帳の向こうに、ぽつんと灯りが見えた。
椿野商店――この島の誰もが知る、古くて大きな雑貨屋。
守さんが肩に掛けた布を引き寄せ、背負っていた荷を濡らさぬよう庇いながら走る。
陽花里さんは腕の中に眠る小さな赤子――
陽一を抱え、まっすぐ灯りのほうへ。
私はその足もとを走り、はね上がる泥水も気にせず、ただ二人についていった。
店の裏手に回り込むと、勝手口の引き戸が見えた。
守さんが勢いよくそれを開く。
ふわりと温かい空気と、出汁みたいな懐かしい香りが鼻をくすぐる。
そこに立っていたのは、黒髪をひとつにまとめた、きりりとした女性――はるさん。
陽花里さんが心から慕う、お姉さんのような人だ。
「陽花里! 守くん! こんな夜に……!」
はるさんは一瞬驚き、すぐに二人を店の中へ引き入れた。
土間には乾いた布と、赤々と燃える囲炉裏。
その温もりに、濡れた体の震えがほんの少しだけおさまる。
「島の様子が変だわ……なんだか、嫌な感じがするの」
はるさんの声には、抑えた不安が滲んでいた。
「ここなら、しばらくは大丈夫」
陽花里さんは短くそう言い、赤子をそっと毛布にくるむ。
守さんは荷を降ろし、私の濡れた足をやさしく拭ってくれた。
けれど、窓を叩く雨の音は少しも弱まらない。
ひときわ大きな雷鳴が響いたとき、棚の上からみぃちゃんが小さく鳴いた。
家にいないと思ってたけど――ここにいたんだ。
陽花里さんが、そっと預けておいたのかもしれない。
その首には、陽花里さんが贈った小さな首輪が、静かに揺れていた。
私は、まだよく分からない胸のざわめきを押し殺しながら、じっとみんなを見守っていた。
この嵐の夜に、この店が、この人たちが、どうか無事でいられますように――そう願いながら。
暴風が戸板の隙間を叩くたび、家全体が小さく軋んだ。
商店の奥には、はるさんが抱き寄せた陽一と、丸くなったみぃちゃんの姿。
陽花里の濡れそぼった白い巫女装束の裾から、冷たい雨水がぽたぽたと床に落ちていた。
「……陽花里。本当に行くのかい?」
はるさんの声は、嵐の唸りにかき消されそうだった。
陽花里さんは静かに頷いた。
その横顔には、決して口にはできない焦りがにじんでいる。
「……行かなくちゃ。あの祠まで――祈りを届けるために」
陽一が小さく泣いた。
その柔らかな声が、胸の奥を引き止める。
けれど――その小さな命を、この店の中に残すしかない。
「この店には、私の加護をかけるわ。外の“もの”は、しばらく入れない」
そう言って、陽花里さんは入口の柱に指を添え、祈りの言葉を心の底で唱える。
ふっと、空気がわずかに澄んだ。
私は、じっと陽花里さんを見上げていた。
濡れた耳が重く垂れて、それでも、目だけは彼女から離せなかった。
「……頼んだよ、チップ。陽一と、みぃちゃんを」
腰を落とし、私の額にそっと手を当てる。
その温もりを、離さないようにするみたいに。
「はるさん、お願い。必ず戻るから」
「……ええ。任せなさい」
そして、守さんとともに戸口を押し開ける。
暴風が一気に吹き込み、灯の揺らぎが壁に伸びては消えた。
足を一歩、外へ踏み出す。
それは、嵐の中心へ向かうための一歩だった。
* * *
雨の匂いが、濃く重く空気に滲んでいた。
椿野商店の中はあたたかく、はるさんの声もやわらかい。
それでも、白い子猫の瞳は落ち着きを失っていた。
外には、あの子の家がある。
陽花里と並んで昼寝をした縁側。
陽射しの匂いが染みこんだ座布団。
耳の奥に、夏の日の風鈴の音がよみがえる。
――帰りたい。
陽一はすやすやと眠っている。
店の中は、静かだった。
今なら。
勝手口の引き戸の前に立ち、前足の爪をそっと差し込む。
カリ、カリッ……と小さな音を立てて、戸板がわずかに揺れた。
雨の隙間風が、冷たく頬をかすめる。
細い体が、そっと隙間に滑り込んでいく。
風の唸りと雨の奔流が、小さな足音をさらっていった。
背に雨粒が弾けた瞬間も、振り返らなかった。
そこが安全でないことなど、知らぬままに。
……匂いが、消えた。
雨音の奥に、さっきまでそばにあったはずの匂いがない。
陽だまりみたいな、あの甘い匂いが。
* * *
耳がぴくりと動く。
勝手口の戸が、かすかに揺れた音を拾った。
はるさんは奥の部屋。
陽一は眠っている。
みぃちゃんは――外だ。
前足に力をこめ、畳を蹴った。
戸口へ駆け、鼻先をすべり込ませると、雨の匂いと一緒に、あの子の足跡が飛び込んでくる。
冷たい水しぶきが頬を打つ。
視界は滲む。
それでも匂いだけは逃がさない。
みぃちゃん、待って。
そこは危ない――。
泥を蹴り、闇を裂く。
その先に、帰るはずの家の影と……異様な気配があった。
雨の匂いが、急に濃くなる。
耳の奥で、ぬらり――と嫌な音がした。
闇の向こう。
闇に溶けた影が、ただこちらを見ている。
目のような赤い光が、ふたつ――こちらを捉えていた。
『……ヒサシブリ……タマシイ……ケモノカ……マァ、ヨイ……』
背の毛が、ぶわっと総立ちになる。
逃げろって体が叫ぶ。
でも――駄目だ。
背後で、小さな気配が震えた。
後ろには、みぃちゃん。
震えている。音と匂いが、そう教えてくる。
守らなきゃ。
絶対に。
胸の奥が、ぐらっと揺れた。
体の芯から熱いものが溢れてくる。
何なのかは分からない。ただ、今は――本能のままに、
噛みつくっ!
「ガウッ!」
泥を蹴った。
牙を突き立てようとした。
けれど、噛んだはずの場所に手応えがない。
ぬめっとした闇が、みぃちゃんに絡みつく。
「ニャァァ!」
もがく。小さな爪が空を切る。
でも、闇はそれごと引きずり込むみたいに、ずるりと呑み込んでいく。
――やめて。
胸の奥が、ぐらりと崩れる。
さっきまで、すぐそこにあった匂いが、ほどけるみたいに遠ざかっていく。
やめて。
その子を、連れていかないで。
――みぃちゃん。
光も、匂いも、温もりも……全部、黒の中に溶けていく。
吠えた。
喉が裂けても構わない。
「ガウッ!!」
でも、雨と闇は、その声さえあっさり飲み込んだ。
――どこにも、いない。
嵐の夜気を切り裂きながら、私は駆け戻った。
鼻先を低く下げ、ぬかるむ地面の匂いを必死に追う。
……あった。
土と雨の匂いの中に、陽だまりみたいな甘い匂いが混じっている。
そこに落ちていたのは、白いレースに金色の小さな鈴がついた首輪だった。
――陽花里さんが作ってくれた、みぃちゃんだけの首輪。
飾り棚の一角に置かれていたときから、ずっと知っている。
あの日、陽花里さんが鈴を指で弾いて笑った音も、まだ覚えている。
「……みぃちゃん……」
喉の奥で、声にならない唸りが漏れた。
胸の奥が、ざわりと揺れる。
これは、守らなきゃいけない“絆”の証だ。
首輪をくわえると、金具の冷たさと、淡く残ったあの子の匂いが、歯と鼻を同時に刺した。
ただ、この匂いを絶やさないように――
はるさんのもとへ、まっすぐ走る。
勝手口に飛び込むと、はるさんが驚いた顔でこちらを見た。
濡れた床に首輪を置き、低く短く吠える。
「……ワン!」
はるさんは一瞬息を呑み、すぐに膝をついてそれを抱き上げた。
白いレースが、指先で震えている。
「……どうして……」
掠れた声。
温かい涙の匂いが、胸を締めつける。
遠くから、あの人の匂いがかすかに届く。
――そのまま、一歩、外へ踏み出した。
「チップ……待って……!」
「どこに行くの……行かないで……!」
でも――止まれない。
あの人たちのもとへ、行かないと。
何か、嫌な予感がする。
嵐はなお、牙を剥いていた。
横殴りの雨が毛の奥まで叩きつけ、地面はぬかるみ、足もとをすくう。
けれど――迷いはなかった。
走れ。
走れ。
――走れっ!
結びの祠までの道は、もう知っている。
現代の私――犬神千陽として歩いたあの日の景色が、脳裏に鮮やかに浮かんだ。
木々の並び。
曲がり角の匂い。
石段の感触。
ぜんぶ、ぜんぶ覚えている。
闇に包まれた林の中、雷光が一瞬だけ道を照らす。
その光の中で、枝や倒木をひらりと避けながら進んでいく。
耳に届くのは、雨と風の音。
そして、胸を突き動かす鼓動だけ。
(陽花里……守……)
祠で何が起きているのかは分からない。
けれど、間に合わなければ――もう二度と会えなくなる気がした。
土砂でえぐれた坂道を駆け上がる。
滑りそうになるたび、爪が泥を裂き、足を踏みとどめた。
やがて、木々の切れ間から石段が現れる。
その上に、闇を切り裂くような光が溢れていた。
――結びの祠だ。
あの光の中に、陽花里さんと守さんがいる。
迷わず、駆け上がった。
荒れ狂う風の中、祠の前にたどり着く。
雨に濡れた石段は滑るほど冷たく、爪の奥まで沁みた。
でも――あの二人の背中だけは、絶対に見失わない。
祠の奥から、何かが応えるような気配が走る。
胸の奥が、ざわりと震えた。
これを――知っている。
現代でも感じた、犬神としての力。
祠の“何か”と、繋がろうとしている。
「……来るぞ……!」
守の声と同時に、闇の向こうから、気配が滲み出た。
あのとき、私とみぃちゃんを襲った闇。
低く唸るような音が、耳の奥で歪む。
陽花里が両手を広げ、光の種を放つように祠へ祈りを捧げる。
胸元で抱いていた首輪が、ふっと淡く光を帯びた。
その光は、ほどけるように形を変え、
細い輪となって、陽花里の指へと収まる。
あの指輪は――
……私がしているものと、同じ。
「……まだ、光が届ききらない……」
陽花里の声が、かすかに震えた。
このままじゃ――
そのとき。
意識の奥に、聞き覚えのある声が落ちた。
『――行け。』
……この声は。
体の奥で、何かが爆ぜた。
吠えた。
一気に全身を駆けめぐっていく。
その光に、自分の力を重ねろ――
直感が、そう告げていた。
祠から放たれる光の筋に、身を投げ出す。
熱い――けれど、やさしい。
陽花里の祈りと守の想いが、光に溶けていく。
そこへ、私の“加護”が重なる。
世界が、白に飲まれていく。
風も、雨も、闇も――遠ざかっていく。
闇の中にいた影が、悲鳴のような唸りを上げた。
輪郭を保てず、黒い煙となって崩れ、空へと溶けていく。
白い光が、祠いっぱいに満ちた。
その中で見えたのは――
陽花里の、かすかな安堵の笑顔だった。
そして、視界がすっと滲み、
世界が塗り替わる。
音も、匂いも、光も――ほどけていく。
* * *
――風は、世界そのものが痛みを訴えるみたいに、ざわりざわりと地を這っていた。
結びの祠の奥。
老いた柱の隙間から、雨が冷たい筋となって吹き込んでくる。
けれど、陽花里は一歩も動かなかった。
祠の中央に設けられた石の祭壇の前に、静かに膝をついている。
指には、白く淡く光を宿した輪――犬神の“魂の核”。
傍には、もう誰もいない。
――独りだった。
それでも、陽花里の目には、かすかな光が残っていた。
涙を浮かべながら、それでも笑っていた。
「……大丈夫。もう、だいじょうぶだから」
雨にかき消されそうな小さな声。
それでも、その想いは揺らがない。
「……守さん」
ほんの一瞬だけ、視線が揺れる。
「世界中の誰からも忘れられてもいい。
……わたしが“ここにいた”ことなんて、残らなくていい」
指の輪を、そっと握りしめる。
それでも――顔を上げる。
「だけど――この光は、消させない」
その瞬間、祭壇の紋がぼうっと浮かび上がり、
祠の空気そのものがきしむように震えた。
……“何か”が、祠の奥から姿を現す。
黒い影だった。
風でも、獣でもない。
人の形ですらない。
瘴気を帯びた塊のようなそれは、
ひたり、ひたりと空間を裂くように進み、陽花里の前に現れる。
少女は立ち上がらない。
ただ、凛としたまま、その影を見据えた。
低い声が響く。
『……またか。白き巫よ』
その声は、朽ちた大樹の奥から滲み出るように重く、
悠久の時を越えてきたものだけが持つ、歪んだ威厳を帯びていた。
その響きに、陽花里の肩がびくりと震える。
けれど、怯まない。
「……あなた……なの?」
『封じ、灯し、抗おうとするか』
影が、わずかに揺らめく。
『浅ましきことよ。己の消滅と引き換えに、何を残すつもりだ』
「……構わないわ。わたしの存在なんて、どうでもいい。
この島を、この世界を……もう二度と、呑まれさせたくないの」
影の奥で、何かが笑った気がした。
『愚かなり。時は巡り、禍は尽きぬ』
低く、ゆっくりと、言葉が沈む。
『積み重ねし祈りも、いずれは喰らわれるのみ』
空気が、重く歪む。
『この世に満ちるは、飢えよ』
陽花里のまつげが、かすかに揺れる。
それでも――指に宿した輪を掲げる手は、震えていなかった。
「それでも、わたしは光を灯す」
影の気配が、わずかに強まる。
『……ならば、その光ごと、喰らい尽くすのみ』
黒い影が、唸るように空間を侵食してくる。
その瞬間――
陽花里の唇が、ふわりと綻んだ。
「ありがとう……チップ。……わたし、行ってくるね」
そして――
祠に、光が満ちた。
世界を呑む闇を打ち払うように、
白く、あたたかく、やさしく――けれど、決して消えぬ意志の炎のように。
少女の姿がその中に溶けていくとき、影の輪郭もまた、静かに霧散していった。
ふと、どこかで鈴の音が一度だけ、かすかに鳴った。
そして、視界はふっと暗転し――
――犬神千陽は、目を覚ました。
そこは、現代の朝だった。




