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『犬神物語』 〜転生少女と不思議な絆〜  作者: 犬神 匠
第八話 渡島編 後編

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『白と黒の贈り物』53

耳元でガタガタと窓が震える音で目が覚めた。

カーテンの隙間から、白く煙る雨の幕が揺れている。

風がうなり、外の木々がしなるたびに枝葉が窓を叩いた。


(……え? 天気予報、晴れだったよね……?)


けれど――なぜか、この光景を“知っている”。


昨日の夜に見た夢が、ふっとよみがえった。

あの夢の中で、渡島は嵐に沈み、空も海も灰色に溶けていた。


(……似てる。さっき見た夢の、あの嵐と……)


シーツの下でつま先がきゅっと冷たくなる。

ヒカリの寝息が、かすかに聞こえる。


隣のベッドに目をやって――私は固まった。


……美咲ちゃんが、いない。


掛け布団は乱れたままで、枕元には昨日と変わらない小物が並んでいる。

机の上には、子猫の形をした小さな銀色のヘアピン。

それに――美咲ちゃんのスマホまで、置きっぱなしになっていた。


隣で、ヒカリがゆっくりと目を覚ます気配がした。


「……美咲ちゃん、トイレかな? それとも、朝ごはん食べに行った?」


「……ん……」


ヒカリが小さく息をもらす。


「……近くにいるんじゃない?」


そう言いながら、ヒカリはまだぼんやりとした目で部屋を見回した。


最初はそう思って、私とヒカリは部屋を出た。

でも――ダイニングにも、ラウンジにも、洗面所にもいない。

廊下を早足で進み、別の部屋まで覗くようになって、足音がどんどん速くなる。


二階から一階へ降りても、どこにも姿はなかった。

柚葉ちゃんに会って「美咲ちゃん、見てない?」って聞いたけど、答えは首を振るだけ。


じわじわと、嫌な熱が広がっていく。


(……どこ行ったの、美咲ちゃん……)


――そうだ。こういうときは――


深く息を吸い込み、意識を鼻先に集中させる。


枕元に残っていた香り――

そして彼女だけが持つ、ほんのり甘い温もりのような匂い。

その微細な糸をたぐるように、足を進めていく。


廊下、階段、ラウンジ……そして、玄関。


「……匂い、追ってるの?」


ヒカリの小さな声。


――そこで、匂いが途絶えた。


「……ここで、止まってる」


思わずつぶやくと、ヒカリが不安そうに私を見つめる。


「……雨のせいかもしれないわね。これだけ降っていれば……匂いはすぐに流される」


ヒカリはわずかに視線を外へ向ける。


「でも……この雨の中、外に出るなんて……普通じゃないわ」


玄関の外では、嵐がまだ荒れ狂っている。


それでも――

この先に美咲ちゃんが向かったのは間違いない。

そんな確信だけが、じわりと残る。


「……外、見てみよっか」

ヒカリの小さな声に、私はうなずく。


玄関の扉を開いた瞬間――


嵐が、止んだ。


さっきまで叩きつけていた雨も、暴れていた風も、音ごと切り取られたみたいに、ぴたりと途絶える。

その静けさの中で、空気だけが異様に重く、湿り気を帯びたまま肌にまとわりついて離れない。


色彩が、わずかに褪せていく。

目の前の景色がそのままなのに、どこか遠くへ引き離されたみたいに、現実の輪郭だけがゆっくりと薄れていく。


耳の奥で、低い唸りのような振動が、消えきらずに残っていた。


「……なに、これ……?」


ヒカリが足を止め、私の腕にそっと触れる。


見上げれば、空は鈍い灰色と紫のあいだで揺らぎながら、島全体を覆うように黒い靄が広がっている。


そのとき、別荘の窓から淡い光がふわりと浮かび上がった。


ひとつ、またひとつと、重さを失ったみたいに宙へ浮かび上がるそれは、人の形を失った――人魂。


「……みんな……?」


別荘にいたはずの仲間たちの気配が、光へとほどけるように滲み出していく。


ときおり、光がわずかに揺れて、

何かを求めるみたいに、形を保とうとしている。


けれど――その場に縛りつけられたまま、動けない。


息が詰まる。

心臓が、逃げ場を探すみたいに脈打った。


「これ……夢幻封界……!」


足元の土はしっとりと冷たく、遠くでは鈍い雷鳴のような音が、遅れて響いてくる。


建物はそこにあるのに、壁の色は褪せ、木枠は黒く滲み、まるで現実の影だけが残ったように、この世界は静かに置き換わっていた。


ヒカリと顔を見合わせた、その瞬間――


背後で、何かが軋む。


振り返ると、別荘の扉がひとりでに閉まり、その縁から滲み出すように黒い靄が広がっていく。


「戻れない……」


声はかすれて、空気に溶けるように消えた。


二人のあいだに、沈黙が落ちる。


息を吸うだけで肺の奥が重くなり、心臓がひとつ脈打つごとに、この場所が現実じゃなくなっていくのがわかる。


「……戻る選択肢は、なさそうね」


ヒカリの視線が、静かに向けられる。


「……美咲ちゃん……」


「……うん。行こう」


次の瞬間、私たちは同時に走り出した。



走り出した瞬間、足元からふわりと光が立ちのぼった。

それは小さな花びらみたいに宙を舞い、私とヒカリを包み込んでいく。


何かがほどけるみたいに、ぽん――と音が弾けた。


次の瞬間、髪先が光に溶けるみたいに白くほどけていく。

光の粒が輪郭をほどき、視界がきらめきで満たされる。


体が、宙に浮くような軽さに変わっていった。


「……っ!」


声を出そうとしたら、喉がふわっと温かく震える。

その震えが全身に広がり、腕も脚もやわらかな赤茶色の毛に覆われていく。


耳が伸びて風をとらえ、尾が生まれる感覚――

瞳に映る世界は、さっきより鋭く研ぎ澄まされていて、遠くの草の匂いや足音まで手に取るようにわかる。


光がぱっと弾けて消えたとき、私は四つ足で地面を踏みしめていた。

隣には、同じく白く輝く大きな犬の姿になったヒカリ。

彼女が短く吠えて、前を見据える。


「……行こう、美咲ちゃんを探しに!」


私たち二匹は、そのまま、もやの渦巻く異界へ駆け出した。


踏み込んだ瞬間、肌を刺すような冷たい気配が全身を包み込む。

潮の匂いと焦げた匂いが入り混じり、耳の奥で低く重い響きがくぐもるように続く。

空は墨色に沈み、遠くまで濃密な靄が揺らめいていた。


《――犬神千陽。ヒカリ》


その声は、意識の奥に直接響いた。

何度も聞き慣れた、あの低く澄んだ響き。


……っ。


一瞬、呼吸が止まる。


「……シロ……!」


声が、こぼれる。


(……久しぶり……だよね……)


胸の奥が、きゅっと締めつけられる。


懐かしい。安心する。

それなのに――この先へ進むことが、どうしてか怖い。


理由は、わかっている気がした。


あの夢の最後の光景が、焼きついて離れない。

ただの夢じゃない気がして――


嫌な予感だけが、消えなかった。


《このままでは――渡島のみならず、現世すら闇に呑まれよう》


「……そんな……」


《この島を夢幻封界から解き放つには――》

《結びの祠にて、浄化の光をもって封印を解き放て》


《成し得るは――犬神千陽とヒカリ、二人のみ》


神聖な調べのように、言葉が心に染み渡る。

ヒカリは横目で私を一瞥し、短く顎を引いて答えた。


「覚悟は、とうの昔に決めている」


小さく頷き、視線を前へと向ける。

これが――渡島の夢幻封界。

何度も夢で見た景色のはずなのに、目の前の現実は、あまりに濃く、深かった。


もやを切り裂くように、私たちは並んで駆ける。

白い四肢が土を蹴るたび、耳元を冷たい潮風がすり抜けていった。


「……別荘のみんなは、大丈夫かな……」


息が少し乱れる。

隣を走るヒカリが、わずかに視線を寄こした。


「……大丈夫よ。少なくとも――今は」


その言い方に、ほんの一瞬だけ違和感が残る。


「美咲ちゃんも……今は人魂になっているんだよね?

どこにいるんだろう……この島のどこかに、きっと……」


息を合わせたまま、隣を走るヒカリがちらりと視線を寄こす。


「小川さんも人魂になっているのなら、その場から離れられないはず。

この夢幻封界を解除すれば、人間の姿に戻るはずだから――きっと大丈夫よ」


その声に背中を押されるように、私はさらに体勢を低くし、前傾で地を蹴った。

視界がわずかに傾き、足元の土が緩やかな下りへと変わる。

重力に引かれる勢いが、風の唸りとともに全身を押し流していく――まるで坂そのものが、私たちを祠へと急かしているかのようだった。


下り坂を抜けると、靄に包まれた住宅街が広がっていた。

家々の輪郭は霞み、どこか現実から切り離されたように静まり返っている。

その奥に、見慣れた椿野商店の看板がかすかに揺れていた。


胸の奥がざわつく。

「……はるさんも、無事だといいけど」


隣を駆けるヒカリも、同じように視線を商店へと向けていた。


「……今の私たちでは、人魂になった人たちを、どうすることも出来ない。結びの祠で封印を施すのが先決よ」


その言葉が、焦る心に冷たい水を注ぐ。

わかってる。今は、助けたい気持ちよりも先に――やるべきことがある。


《――待て。あの場所に“厄災の元凶”が潜む。》


低く威厳を帯びたシロの声が、ヒカリを通して脳裏に響く。


《奴らは“四神”。この島に満ちる瘴気を司る守護の残滓だ。今は敵と化し、祠への道を阻むだろう》


(……四神……!)


胸の奥に、かすかな緊張が走る。

けれど、シロの声はさらに重く続いた。


《気をつけろ。島はまだ完全には夢幻封界に呑まれていない。だが――“魂を喰らうもの”の封印が揺らぎはじめている。

解き放たれれば、渡島の人々の魂は一息に闇の中へ奪われるだろう》


(……魂を喰らうもの……)


夢の中で見た光景がよぎる。


みぃちゃんを、あの闇の中へ引き摺り込んだ――あの存在。

あれと、同じものなのかもしれない。


背筋に冷たいものが走る。躊躇っている時間はない。


私たちは視線を交わし、靄を切り裂いて住宅街の奥へと駆け抜けた。


◇ ◇ ◇


――そのとき。


渡島の深奥。

黒い靄の底で、四つの気配が蠢いていた。


かつて、この地の封印と結界を守護していた存在――


四神。


だが今は、瘴気に侵され、理を失い、

結びの祠へと至る道を阻む“敵”と化している。


揺らぎはじめた均衡の向こう――

結びの祠、その奥にて、


“魂を喰らうもの”が、静かに目を覚まそうとしていた。

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