『白と黒の贈り物』53
耳元でガタガタと窓が震える音で目が覚めた。
カーテンの隙間から、白く煙る雨の幕が揺れている。
風がうなり、外の木々がしなるたびに枝葉が窓を叩いた。
(……え? 天気予報、晴れだったよね……?)
けれど――なぜか、この光景を“知っている”。
昨日の夜に見た夢が、ふっとよみがえった。
あの夢の中で、渡島は嵐に沈み、空も海も灰色に溶けていた。
(……似てる。さっき見た夢の、あの嵐と……)
シーツの下でつま先がきゅっと冷たくなる。
ヒカリの寝息が、かすかに聞こえる。
隣のベッドに目をやって――私は固まった。
……美咲ちゃんが、いない。
掛け布団は乱れたままで、枕元には昨日と変わらない小物が並んでいる。
机の上には、子猫の形をした小さな銀色のヘアピン。
それに――美咲ちゃんのスマホまで、置きっぱなしになっていた。
隣で、ヒカリがゆっくりと目を覚ます気配がした。
「……美咲ちゃん、トイレかな? それとも、朝ごはん食べに行った?」
「……ん……」
ヒカリが小さく息をもらす。
「……近くにいるんじゃない?」
そう言いながら、ヒカリはまだぼんやりとした目で部屋を見回した。
最初はそう思って、私とヒカリは部屋を出た。
でも――ダイニングにも、ラウンジにも、洗面所にもいない。
廊下を早足で進み、別の部屋まで覗くようになって、足音がどんどん速くなる。
二階から一階へ降りても、どこにも姿はなかった。
柚葉ちゃんに会って「美咲ちゃん、見てない?」って聞いたけど、答えは首を振るだけ。
じわじわと、嫌な熱が広がっていく。
(……どこ行ったの、美咲ちゃん……)
――そうだ。こういうときは――
深く息を吸い込み、意識を鼻先に集中させる。
枕元に残っていた香り――
そして彼女だけが持つ、ほんのり甘い温もりのような匂い。
その微細な糸をたぐるように、足を進めていく。
廊下、階段、ラウンジ……そして、玄関。
「……匂い、追ってるの?」
ヒカリの小さな声。
――そこで、匂いが途絶えた。
「……ここで、止まってる」
思わずつぶやくと、ヒカリが不安そうに私を見つめる。
「……雨のせいかもしれないわね。これだけ降っていれば……匂いはすぐに流される」
ヒカリはわずかに視線を外へ向ける。
「でも……この雨の中、外に出るなんて……普通じゃないわ」
玄関の外では、嵐がまだ荒れ狂っている。
それでも――
この先に美咲ちゃんが向かったのは間違いない。
そんな確信だけが、じわりと残る。
「……外、見てみよっか」
ヒカリの小さな声に、私はうなずく。
玄関の扉を開いた瞬間――
嵐が、止んだ。
さっきまで叩きつけていた雨も、暴れていた風も、音ごと切り取られたみたいに、ぴたりと途絶える。
その静けさの中で、空気だけが異様に重く、湿り気を帯びたまま肌にまとわりついて離れない。
色彩が、わずかに褪せていく。
目の前の景色がそのままなのに、どこか遠くへ引き離されたみたいに、現実の輪郭だけがゆっくりと薄れていく。
耳の奥で、低い唸りのような振動が、消えきらずに残っていた。
「……なに、これ……?」
ヒカリが足を止め、私の腕にそっと触れる。
見上げれば、空は鈍い灰色と紫のあいだで揺らぎながら、島全体を覆うように黒い靄が広がっている。
そのとき、別荘の窓から淡い光がふわりと浮かび上がった。
ひとつ、またひとつと、重さを失ったみたいに宙へ浮かび上がるそれは、人の形を失った――人魂。
「……みんな……?」
別荘にいたはずの仲間たちの気配が、光へとほどけるように滲み出していく。
ときおり、光がわずかに揺れて、
何かを求めるみたいに、形を保とうとしている。
けれど――その場に縛りつけられたまま、動けない。
息が詰まる。
心臓が、逃げ場を探すみたいに脈打った。
「これ……夢幻封界……!」
足元の土はしっとりと冷たく、遠くでは鈍い雷鳴のような音が、遅れて響いてくる。
建物はそこにあるのに、壁の色は褪せ、木枠は黒く滲み、まるで現実の影だけが残ったように、この世界は静かに置き換わっていた。
ヒカリと顔を見合わせた、その瞬間――
背後で、何かが軋む。
振り返ると、別荘の扉がひとりでに閉まり、その縁から滲み出すように黒い靄が広がっていく。
「戻れない……」
声はかすれて、空気に溶けるように消えた。
二人のあいだに、沈黙が落ちる。
息を吸うだけで肺の奥が重くなり、心臓がひとつ脈打つごとに、この場所が現実じゃなくなっていくのがわかる。
「……戻る選択肢は、なさそうね」
ヒカリの視線が、静かに向けられる。
「……美咲ちゃん……」
「……うん。行こう」
次の瞬間、私たちは同時に走り出した。
*
走り出した瞬間、足元からふわりと光が立ちのぼった。
それは小さな花びらみたいに宙を舞い、私とヒカリを包み込んでいく。
何かがほどけるみたいに、ぽん――と音が弾けた。
次の瞬間、髪先が光に溶けるみたいに白くほどけていく。
光の粒が輪郭をほどき、視界がきらめきで満たされる。
体が、宙に浮くような軽さに変わっていった。
「……っ!」
声を出そうとしたら、喉がふわっと温かく震える。
その震えが全身に広がり、腕も脚もやわらかな赤茶色の毛に覆われていく。
耳が伸びて風をとらえ、尾が生まれる感覚――
瞳に映る世界は、さっきより鋭く研ぎ澄まされていて、遠くの草の匂いや足音まで手に取るようにわかる。
光がぱっと弾けて消えたとき、私は四つ足で地面を踏みしめていた。
隣には、同じく白く輝く大きな犬の姿になったヒカリ。
彼女が短く吠えて、前を見据える。
「……行こう、美咲ちゃんを探しに!」
私たち二匹は、そのまま、靄の渦巻く異界へ駆け出した。
踏み込んだ瞬間、肌を刺すような冷たい気配が全身を包み込む。
潮の匂いと焦げた匂いが入り混じり、耳の奥で低く重い響きがくぐもるように続く。
空は墨色に沈み、遠くまで濃密な靄が揺らめいていた。
《――犬神千陽。ヒカリ》
その声は、意識の奥に直接響いた。
何度も聞き慣れた、あの低く澄んだ響き。
……っ。
一瞬、呼吸が止まる。
「……シロ……!」
声が、こぼれる。
(……久しぶり……だよね……)
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
懐かしい。安心する。
それなのに――この先へ進むことが、どうしてか怖い。
理由は、わかっている気がした。
あの夢の最後の光景が、焼きついて離れない。
ただの夢じゃない気がして――
嫌な予感だけが、消えなかった。
《このままでは――渡島のみならず、現世すら闇に呑まれよう》
「……そんな……」
《この島を夢幻封界から解き放つには――》
《結びの祠にて、浄化の光をもって封印を解き放て》
《成し得るは――犬神千陽とヒカリ、二人のみ》
神聖な調べのように、言葉が心に染み渡る。
ヒカリは横目で私を一瞥し、短く顎を引いて答えた。
「覚悟は、とうの昔に決めている」
小さく頷き、視線を前へと向ける。
これが――渡島の夢幻封界。
何度も夢で見た景色のはずなのに、目の前の現実は、あまりに濃く、深かった。
靄を切り裂くように、私たちは並んで駆ける。
白い四肢が土を蹴るたび、耳元を冷たい潮風がすり抜けていった。
「……別荘のみんなは、大丈夫かな……」
息が少し乱れる。
隣を走るヒカリが、わずかに視線を寄こした。
「……大丈夫よ。少なくとも――今は」
その言い方に、ほんの一瞬だけ違和感が残る。
「美咲ちゃんも……今は人魂になっているんだよね?
どこにいるんだろう……この島のどこかに、きっと……」
息を合わせたまま、隣を走るヒカリがちらりと視線を寄こす。
「小川さんも人魂になっているのなら、その場から離れられないはず。
この夢幻封界を解除すれば、人間の姿に戻るはずだから――きっと大丈夫よ」
その声に背中を押されるように、私はさらに体勢を低くし、前傾で地を蹴った。
視界がわずかに傾き、足元の土が緩やかな下りへと変わる。
重力に引かれる勢いが、風の唸りとともに全身を押し流していく――まるで坂そのものが、私たちを祠へと急かしているかのようだった。
下り坂を抜けると、靄に包まれた住宅街が広がっていた。
家々の輪郭は霞み、どこか現実から切り離されたように静まり返っている。
その奥に、見慣れた椿野商店の看板がかすかに揺れていた。
胸の奥がざわつく。
「……はるさんも、無事だといいけど」
隣を駆けるヒカリも、同じように視線を商店へと向けていた。
「……今の私たちでは、人魂になった人たちを、どうすることも出来ない。結びの祠で封印を施すのが先決よ」
その言葉が、焦る心に冷たい水を注ぐ。
わかってる。今は、助けたい気持ちよりも先に――やるべきことがある。
《――待て。あの場所に“厄災の元凶”が潜む。》
低く威厳を帯びたシロの声が、ヒカリを通して脳裏に響く。
《奴らは“四神”。この島に満ちる瘴気を司る守護の残滓だ。今は敵と化し、祠への道を阻むだろう》
(……四神……!)
胸の奥に、かすかな緊張が走る。
けれど、シロの声はさらに重く続いた。
《気をつけろ。島はまだ完全には夢幻封界に呑まれていない。だが――“魂を喰らうもの”の封印が揺らぎはじめている。
解き放たれれば、渡島の人々の魂は一息に闇の中へ奪われるだろう》
(……魂を喰らうもの……)
夢の中で見た光景がよぎる。
みぃちゃんを、あの闇の中へ引き摺り込んだ――あの存在。
あれと、同じものなのかもしれない。
背筋に冷たいものが走る。躊躇っている時間はない。
私たちは視線を交わし、靄を切り裂いて住宅街の奥へと駆け抜けた。
◇ ◇ ◇
――そのとき。
渡島の深奥。
黒い靄の底で、四つの気配が蠢いていた。
かつて、この地の封印と結界を守護していた存在――
四神。
だが今は、瘴気に侵され、理を失い、
結びの祠へと至る道を阻む“敵”と化している。
揺らぎはじめた均衡の向こう――
結びの祠、その奥にて、
“魂を喰らうもの”が、静かに目を覚まそうとしていた。




