『白と黒の贈り物』54
靄の切れ間――そこで、空気が変わった。
住宅街の路地を抜けた瞬間、視界を覆う巨大な影が立ち上がる。濡れた鱗が鈍く光を弾き、青黒い胴がとぐろを巻いていた。頭をもたげたその姿は、まるで海神の化身。
「……青龍……っ!」
私の喉が、ひとりでに鳴る。
その瞳が、蒼く冷たくこちらを射抜いたかと思うと、次の瞬間、尾が地面を薙ぎ払った。舗装が砕け、衝撃が足元を叩きつける。
「くっ……!」
地を蹴り、ヒカリと同時に左右へ跳ぶ。間髪入れず、槍のように尖った爪と、水柱の連撃が襲いかかる。かすめた風圧だけで頬が裂けるように痛んだ。
「犬神さん、右へ!」
白い軌跡を残してヒカリが駆け抜ける。その動きに呼応するように、私は低く潜り込み、青龍の懐へ飛び込んだ。牙を剥き、全身の力を込めて噛みつく。
硬い鱗の奥に、確かな手応え。
だが――
青龍の体表を覆う瘴気が、傷口を飲み込むように蠢き、瞬く間にその身を修復していく。
(……回復してる……!?)
咆哮が轟き、巨体が大きくのけぞると同時に、尾がしなり、大地を薙ぎ払うように横薙ぎに迫る。
「下がって!」
ヒカリの声に、私は身を伏せる。尾が通り過ぎた瞬間、背後の地面が深くえぐれた。
互いの動きは、言葉を交わさなくても自然に噛み合う。踏み込み、退き、すれ違う――まるで何度も繰り返してきたかのように。
(ヒカリ……そうだ、わたしたちは――)
試練の中で、何度も。
息も、気持ちも、重ねてきた。
(だから……いけるっ!)
再び地を蹴る。
だが――
何度牙を突き立てても、何度爪で斬り裂いても、青龍は倒れない。瘴気をまとい、傷を癒やしながら、その殺気だけを膨れ上がらせていく。
(……しぶとい……っ!)
そのとき――
《――退け。今はそのときではない》
意識の奥に、重く静かな声が響いた。
(……シロ!?)
《奴は“四神”の一柱。島に満ちる瘴気を糧としている。今は倒すべき時ではない――目的は、祠への到達だ》
歯を食いしばる。
(……でも……!)
その隣で、ヒカリがぴたりと並ぶ。
「無駄に倒れるつもりはないわ。目的を忘れないで、犬神さん」
その一言で、はっと息が止まった。
――そうだ。
私たちの目的は、戦うことじゃない。
夢幻封界を解き、“魂を喰らうもの”を止めること。
(……行くっ!)
踵を返し、地を蹴る。
そのとき――
空を震わせるような、重低音が響いた。
どこか遠くで、地面そのものが打ち砕かれたような衝撃。空気がびりっと震え、遅れて、低く重い余波が背中を撫でていく。
「いまの……!」
思わず振り返る。
靄の向こう――視界の果てで、かすかに光が弾けた気がした。
隣を走るヒカリが、ちらりと横目を向ける。
その口元が、ほんの一瞬だけ――やわらいだ。
「……大丈夫。気にしないで。進みましょう」
その声音は、静かに落ち着いているのに――まるで“何か”を知っているような確信を帯びていた。
(ヒカリ……?)
問い返すよりも早く、彼女は前を見据えたまま、速度を緩めない。
――背後で、もう一度。
低く、重い衝突音が響いた。
靄の中を駆け抜ける。逃がさないと言わんばかりに、上空を裂くような影が横切った。
「――上!」
見上げた空を、朱く燃える影が覆う。
(朱雀……!?)
羽ばたくたびに熱風が押し寄せ、肺が焼けるように熱い。
「左から抜ける! 今は戦わない!」
「うんっ!」
炎の渦をかすめるようにすり抜け、横道へ飛び込む。その視界の端に、白い影が閃いた。
次の瞬間、鋭い爪が地面を裂く。
(……白虎……!)
一歩遅れていれば、確実に仕留められていた。
「突破するわ」
ヒカリの声は、揺るがない。
(戦うのは、今じゃない――)
全身の感覚を研ぎ澄まし、ただ前へ。
焼ける風と、裂く殺気を背に受けながら、私たちは森の奥へと駆け抜けた。
やがて辿り着いたのは――結びの祠。
だが、その空間は、かつて知っているそれとはまるで違っていた。
(……ここ……本当に同じ場所……?)
空気が、軋んでいる。
足元から這い上がる冷気と、見えない圧力が、胸の奥を締めつけてくる。
ヒカリが、扉の前で静かに足を止めると、
その白い体の輪郭が、かすかに光を帯びていく。
「……この身に応え、開きなさい」
次の瞬間――
触れてもいないはずの扉が、微かに震えた。
淡い光が、隙間から滲み出す。
内側から押し返されるように、ゆっくりと軋みながら、扉が開いていく。
その先に広がっていたのは――
ぽっかりと穿たれた、巨大な“穴”だった。
真円の闇は底を持たず、ただ、世界の裏側へと繋がっているかのように深く、重く、黒い。
視線を向けるだけで、引き摺り込まれそうになる。
「……あれが……封印口……?」
声が、わずかに震えた。
ヒカリは黙って頷き、じっとその奥を見つめている。
(……行かなきゃ……でも……)
足が、止まりかける。
本能が告げている――ここは“危険”だと。
それでも。
「……わたし、行くよ。ヒカリ」
「……分かってる。無理はしないで。けれど、覚悟はして」
「うんっ」
前足に力を込め、地面を強く踏みしめる。
(――これは、わたしたちの戦いだ)
一歩。
また一歩。
私たちは、底知れぬ闇へと続くその縁へ、
静かに歩みを進めていった。
――その瞬間、足元の世界が音もなく崩れた。




