『白と黒の贈り物』55
足元の感触が、ふっと消えた。
次の瞬間、体が底のない闇へ吸い込まれる。
風もない。
音もない。
それなのに、世界そのものが軋みながら、私たちを呑み込んでいくようだった。
「……っ!」
光も、影も、上下さえ曖昧になる。
やがて――
どん、と前足が硬い地面を打った。
息を詰めたまま顔を上げる。
そこに広がっていたのは、灰色に沈んだ異界だった。
空は濁り、地は乾き裂け、遠くまで黒い靄が揺れている。
生き物の気配はないのに、何か巨大なものの呼吸だけが、この世界全体に満ちていた。
遠くで――
かすれた声が、風に混じった気がした。
「……たす……け……て……」
心臓がどくんと跳ねる。
今にも消えそうな、細い声。
けれど――聞き間違えるはずがない。
「――美咲ちゃんっ!?」
私の声が、闇の空気を裂いた。
思わず駆け出す。
その先、黒い靄の奥にいたのは――
宙に浮かぶ、異様な影だった。
痩せ細った白髪の老人の姿。
足を禅のように組み、黒い瘴気をまとったまま静止している。
その背後には、異形の“魂を喰らうもの”たちが、無数に蠢いていた。
(……なに、あれ……)
ぞくり、と背筋が冷える。
次の瞬間、意識の奥へ――シロの声が響いた。
《見るがよい。あれこそ、魂を喰らうものどもを束ねし核――厄災の王だ》
(あれが全ての元凶……厄災の、王……)
《幾千の怨嗟を喰らい、器を得た成れの果て。決して近づくな》
そして、その群れのなかに――
白く透けた少女の輪郭が、か細く震えている。
「……っ」
息が止まる。
透けるほど儚く、今にも砕けてしまいそうなのに、
見間違えるはずがなかった。
あの髪。
あの小さな肩。
あの泣きそうな顔。
――間違えるはずがない。
「……美咲ちゃん……!」
声が震える。
目を凝らした、その瞬間――
ぞぶり。
群れの影が、彼女の魂へまとわりついた。
黒い泥のようなものが足元から這い上がり、
脚を、腰を、胸を呑み込んでいく。
「やだっ……!!」
さらに別の影が、肩へ。腕へ。喉元へ。
「だめっ……美咲ちゃん!!」
魂を喰らうものたちが、その小さな光を渦の中心へ引きずり込んでいく。
飛び出そうと、足に力を込めたそのとき。
「落ち着いて」
横から伸びた前足が、そっと私を押しとどめた。
ヒカリだった。
その眼差しには、揺るがない強さがあった。
「今、突っ込んでも届かない」
「……っ、でも……!」
喉が焼ける。
目の前で起きている現実を、まだ受け入れられないまま、私は叫んでいた。
「返してよっ!!」
声が裂ける。
「美咲ちゃんを……っ! わたし、もう泣かせないって決めたのに……!」
そのとき。
ヒカリが、そっと身体を寄せた。
「犬神さん、大丈夫。まだ、完全には飲み込まれていない」
その声は、驚くほど落ち着いていた。
私は、はっと息を呑む。
ヒカリの瞳が、まっすぐ私を見ている。
白く透き通るその眼差しに、迷いはなかった。
「今なら、まだ間に合うわ」
「……私を信じて。
あなたと一緒なら――必ず、助けられる」
体の震えが、少しずつほどけていく。
――うん。
信じられる。
「……うんっ!」
深く頷いた、その瞬間。
王のまぶたが、ゆっくりと持ち上がった。
《来たか――犬の子よ》
耳ではない。
その言葉は、頭の奥へねじ込まれるように響いた。
何もかもを拒む、底冷えの響き。
それだけで全身が凍りついた。
《無力なる心で、何を救わんとする》
「違うっ!!」
「誰かを想う気持ちは――無力なんかじゃないっ!!」
怒鳴り返していた。
恐怖より先に、言葉が飛び出していた。
《ふぉっ、ふぉっ……小さき牙よ、よくぞ吠える》
《お前たちの光ごとき、我が闇には届くまい》
黒い笑みが、老人の口元に滲む。
《滅びこそが救いよ》
その言葉とともに、地面から影がぞろりと這い出した。
“魂を喰らうもの”たちだ。
一体、二体、三体――
数えきれない。
瞬く間に、私たちは包囲される。
「ヒカリ……!」
「奥へ行くわ」
ヒカリは一歩も退かず、ただ前を見据えていた。
「儀式の場へ。“光”を完成させないと、ここで倒しても意味がない」
ヒカリが、ちらりと私の首元へ視線を落とす。
「……首輪を。今こそ、その力を借りる」
「う、うんっ!」
チップの首輪。
陽花里さんの祈りが刻まれた――
犬神の証。
ヒカリが、小さく頷いた。
「さあ、行くわよ」
その声は静かで、けれど鋭かった。
「――私たちで、終わらせるの」
「うんっ!」
地を蹴る。
瘴気を裂き、影の群れの隙間を駆け抜ける。
私とヒカリは、“浄化の光”を灯す場所へ――
ふたりの絆と、託された祈りを胸に走り出した。
背後で、影たちのうねる気配が一斉に追いすがってくる。
振り返らない。
ただ前だけを見て、ヒカリの背を追った。
黒く乾いた大地を蹴るたび、足元の亀裂から瘴気が噴き出し、私たちの毛並みにまとわりつく。
耳の奥では、低いうなり声のようなものが絶えず響いていた。
それでも――止まれない。
「右!」
ヒカリの声と同時に、私は反射的に身をひねる。
次の瞬間、黒い触手のような影が真横を薙ぎ払い、さっきまでいた地面を抉り取った。
「……っ!」
息を呑む間もなく、さらに前へ跳ぶ。
ヒカリは迷いなく駆ける。
まるで、この道を知っているみたいに。
やがて視界の先に、白い光が滲んだ。
闇に呑まれたこの世界で、そこだけが静かに輝いている。
「あれは……」
「祈りの間よ」
短く答えて、ヒカリは速度を上げた。
朽ちた石柱のあいだを抜け、崩れた鳥居を越える。
その先にあったのは、白く満ちた祈りの広間だった。
瘴気が届かないみたいに、空気が澄んでいる。
冷たかった世界のなかで、そこだけがやわらかな温度を持っていた。
思わず足が止まる。
「……きれい……」
声がこぼれる。
石造りの祭壇が、空間の中央に据えられていた。
その周囲には淡い光の紋様が浮かび、
まるで誰かの祈りが今も残り続けているようだった。
ヒカリが、その手前まで進む。
白い体の輪郭が、さらに強く輝きはじめる。
ふいに、ヒカリが振り返る。
「犬神さん。あなたの力が必要なの」
その瞳は、どこまでも澄んでいた。
私はうなずき、祭壇の手前で足を止める。
背後では、なおも黒い気配が近づいてくる。
時間は、もう多くない。
ヒカリが、まっすぐ私を見つめる。
「……だいじょうぶ」
その声には、静かな決意があった。
「ここからは――私が導く」
「ヒカリ……?」
次の瞬間だった。
ヒカリの身体から、白銀の光がふわりと立ちのぼる。
それは波のように祈りの間いっぱいへ広がり、
眩い渦となって彼女を包み込んだ。
(この光……)
懐かしいぬくもりだった。
温泉で、私を助けてくれた光。
昨日の夢の中でも幾度も触れてきた、
やさしい――導く光。
白い毛並みが粒子となってほどけていく。
四つ足の姿が、ゆっくりと人の輪郭へ変わっていった。
伸びやかな脚。
細くしなやかな指先。
風にほどける、長い銀の髪。
けれど――それだけでは終わらない。
髪のあいだから、白銀の耳が静かに現れた。
獣の名残でありながら、どこまでも気高く、月光を編んだような毛並みを揺らしている。
腰の後ろでは、一本の尾がゆるやかに弧を描いた。
雪のように白く、毛先へゆくほど淡く透き、呼吸に合わせるように静かに揺れていた。
そして光が弾けた。
そこに立っていたのは――
純白の巫女装束をまとった、ひとりの少女。
袖と裾には淡い金の紋様。
胸元には、月白の勾玉と、影のように寄り添う漆黒の勾玉。
離れることなく、ふたつでひとつのように揺れていた。
白銀の耳と尾を残したその姿は、
人でありながら、人ならざる神秘を纏っている。
その瞳に、白の光が宿る。
思わず息を呑んだ。
綺麗――そんな言葉では、とても足りなかった。
《……白き巫女の器、ついに目覚めたか》
白い光が揺れ、祭壇を囲む光の紋様の先に、
一匹の白い犬が静かに姿を現した。
「……シロ……!」
《そなたの選びし絆――その祈りこそが、光を完成させる》
ヒカリの髪が、ふわりと浮かぶ。
まるで風も光も、彼女を中心に息づいているみたいに。
「――私、思い出したの」
ヒカリの声が、やわらかく響く。
「ずっと前に見ていた記憶……この祠で――
妹と、祈ってた。手を取り合って……」
光が、さらに強まる。
その背に――
私は確かに、“白の巫女”を見た。
けれど同時に、
そこにいたのは、私の知っているヒカリでもあった。
「……ヒカリ……?」
胸の奥が、熱く震えた。
その瞬間――
祈りの間の外側で、黒い空気が大きくうねった。
どん、と鈍い衝撃が響いた。
祈りの間を包む白き結界が、湖面のようにわずかに揺らぐ。
「……来たわね」
ヒカリは闇をまっすぐ見つめたまま、静かに告げた。
その声には、確かな緊張が滲んでいた。
祭壇の外縁を這うように、黒い瘴気がじわじわと押し寄せてくる。
白い床へ触れるたび、ぱち、と火花のような音を立てて弾かれた。
それでも止まらない。
まるで巨大な闇そのものが、この場所を喰い破ろうとしているみたいだった。
《愚かなり》
うごめく闇の奥から、厄災の王の嗤いが響く。
《……ほう……また此処へ辿り着いたか。白き巫女の末よ》
低く、喉の奥から響くような声が、空間を揺らす。
《儂は視ておる……幾千、幾万の魂を喰らい、なお飢えておる》
《黒き巫女なき白など、所詮は欠けた月》
《いかに祈りを捧げようとも――禍は尽きぬぞ》
ぞわり、と背筋が粟立つ。
けれどヒカリは、一歩も退かなかった。
「……あなたは、昔から何も知らないのね」
静かな声だった。
怒鳴るでもなく、震えるでもなく、
ただ、真っ直ぐに言い切る。
「祈りは弱さじゃない。誰かを想う強さよ」
《戯れ言を》
次の瞬間――
影が大きくうねり、祈りの間を包む白き結界へと叩きつけられた。
「っ……!」
轟音とともに衝撃が走り、私たちは思わず身を低くする。
黒き霧が嵐のように吹き荒れ、
石柱が砕け、床がえぐれ、まるで世界の終わりのようだった。
ヒカリが叫ぶ。
「今のうちに――祭壇へ!」
白い光が、祭壇の中央で脈打っている。
私はヒカリの背を追い、石造りの祭壇へ駆け上がった。
足を踏み入れた瞬間――
祭壇を囲む白き結界が立ち上がる。
間髪入れず、黒い濁流がそこへ叩きつけられた。
轟音。
祈りの間全体が激しく揺れ、白き障壁に大きな亀裂が走る。
「きゃぅっ……!」
思わずよろけた私の肩口を、ヒカリがそっと支えた。
「犬神さん、聞いて」
その瞳が、まっすぐ私を射抜く。
「もう時間がない」
ヒカリの手は、驚くほどあたたかかった。
それだけで、張りつめていた恐怖が少しずつほどけていく。
「首輪の力を借りるわ」
喉元の首輪が、呼応するように熱を帯びた。
きぃん――
澄んだ共鳴音が、祈りの間へ広がっていく。
「あなたの光と、私の光を重ねるの」
その一言が、乱れていた呼吸を整えるように届いてくる。
《小賢しい》
砕けた結界の裂け目から、黒い腕のような瘴気が何本も這い込んできた。
床を削り、祭壇へ向かって伸びてくる。
《間に合うものか》
「……間に合わせる」
ヒカリは低く言い切った。
その横顔は、もう迷っていなかった。
祭壇の中央には、ふたつの円陣が向かい合うように刻まれていた。
ヒカリは片方へ立ち、もう一方を私へ示す。
「犬神さん。そこへ」
――黒い気配が背後まで迫る。
美咲ちゃんを奪った闇。
みんなを閉じ込めた悪夢。
ここで終わらせるんだ。
「……うんっ!」
私は強く頷き、もう一つの円陣へ足を踏み入れた。
その瞬間――
足元から、白い光が一気に噴き上がった。
「……っ!」
まぶしさに目を細める。
光は渦を巻くように私の体を包み込み、
四肢の先から熱を灯していく。
毛並みがほどけるように粒子へ変わり、
宙へ舞い上がった。
前足が、指を持つ手へ。
後ろ足が、しなやかな脚へ。
低かった視界はすっと持ち上がり、揺れる髪が肩へ落ちる。
けれど――
頭上には、やわらかな耳が確かに残っていた。
茶と黒、白の混じる柴犬めいた毛並み。
ぴくりと震えたその耳が、今の出来事すべてを本物だと告げている。
腰の後ろでは、ふさりとしっぽが揺れた。
喉元を包んでいた首輪が、光の粒となってほどけていく。
その輝きは右手へ流れ、薬指へ静かに収束した。
やがて――
そこには、白銀の犬神の指輪が宿っていた。
ずっと昔から、私と共にあった証のように。
「これ……私……?」
震える声が、自分のものとは思えなかった。
体を包んでいたのは、見慣れた制服でも普段着でもない。
白を基調とした衣装。
袖口と裾には淡い金の紋様が走り、
胸元には月白の輝きを宿した飾りが揺れている。
まるで、誰かの祈りを受け継ぐための装束だった。
耳としっぽだけを残して、私は人の姿へと変わっている。
「……すごい……夢幻封界なのに……私、人の姿に戻れてる……」
思わず見下ろした私に、ヒカリがふっと目を細める。
「よく似合ってる」
「えっ……い、いま言う!?」
こんな状況なのに、顔が熱くなるのがわかった。
けれどそのひと言だけで、肩の力が少し抜ける。
ヒカリも少しだけ笑っていた。
その瞬間――
どんっ、と祈りの間全体が大きく揺れた。
白い結界の一角が砕け散り、黒い濁流が雪崩れ込んでくる。
「きゃっ……!」
私はとっさによろめく。
ヒカリがすぐに手を伸ばし、私の腕を支えた。
「始めるわよ、犬神さん」
さっきまでの柔らかな声ではない。
凛として澄み切った――白き巫女の声だった。
「あなたの光と、私の光を、ここでひとつにする」
祭壇の紋様が、鼓動のように強く脈打つ。
背後では、闇が獣のような唸りを上げ、白き障壁を軋ませていた。
私は息を呑み、差し出されたヒカリの手を握り返す。
あたたかい。
そのぬくもりに触れた瞬間、
張りつめていた恐怖が、胸の内で音もなくほどけていった。
怖かったはずなのに、
不思議なくらい、震えは消えていく。
「……ヒカリ」
名前を呼ぶと、彼女は静かにうなずいた。
「大丈夫。ひとりじゃないわ」
その言葉だけで、心に小さな灯がともる。
祭壇の光が、私たちの足元から幾重にも立ち上がった。
白い線が絡み合い、円陣はより大きく、より複雑な紋様へと姿を変えていく。
きぃん――
右手の薬指にはめられた犬神の指輪が、
澄んだ共鳴音を響かせた。
次の瞬間。
忘れていたはずの景色が、
濁流を破るように意識の奥へなだれ込んできた。
陽だまりの庭。
みかんの葉が風に揺れ、
やわらかな土の匂いがする。
小さな足で駆け回る私。
――チップ。
笑いながら名前を呼ぶ声。
「こら、チップ。そんなに急いだら転ぶわよ」
振り向いた先にいたのは、
白い着物を揺らしながら笑う少女。
陽花里さん。
やさしい手が、
何度も何度も私の頭を撫でる。
嬉しくて。
誇らしくて。
この人のそばにいられるだけで、世界は全部あたたかかった。
けれど、思い出すのはそれだけじゃない。
嵐の夜。
引き裂かれるような雨風。
荒れ狂う波。
伸ばされた手。
泣きながら、それでも私を守ろうとした声。
「大丈夫……チップは、私が守るから……!」
そして――
光の中へと消えていった背中。
「……あ……」
涙が、頬を伝った。
全部、思い出した。
夢じゃなかった。
あれは、私の記憶だった。
遠い昔、
私はただ守られていただけじゃない。
あの人を。
あの笑顔を。
あのぬくもりを。
今度は、私が守りたかったんだ。
「陽花里さん……!」
声が震える。
ヒカリ――
その奥で静かに微笑む陽花里さんが、
やさしく頷いた。
「ようやく、ここまで来てくれたのね」
そのときだった。
ヒカリが片手を祭壇へとかざす。
光の外縁にいたシロが、静かにヒカリの傍らへ歩み寄った。
「シロ、お願い」
シロは一度だけやさしく目を細める。
《其方らの願い、我が刃となろう》
「眠りし守りの刃よ――願いに応えて」
白き紋様が一斉に走り、石床の中央が眩く輝いた。
そこから、すう……と一振りの剣が姿を現す。
白銀の刃。
柄には、犬神の紋。
ヒカリがその柄を握る。
次の瞬間――
シロの身体が、淡い光の粒となってほどけていく。
「……シロっ!」
光となったその姿は迷いなく剣身へ吸い込まれ、
白銀の刃の内側へ静かに宿った。
同時に、祭壇から立ちのぼった光も剣へ流れ込み、
刃はまばゆい神光を放ちはじめる。
ヒカリが強く柄を握りしめる。
「目覚めて――犬神の剣」
「祈りは光に。
想いは、未来を拓く刃に――」
その声とともに、
祈りの間の外壁が、ついに砕け散った。
轟音。
黒い濁流が雪崩れ込み、
厄災の王の嗤いが空間を震わせる。
《終わりだ》
けれど、私はもう目を逸らさなかった。
ヒカリが構えた犬神の剣へ、私はそっと手を重ねる。
白銀の柄が、ふたりのぬくもりを受けて強く輝いた。
「一緒に!」
ヒカリの声に、私は強く頷く。
《犬神千陽よ。共に征こう》
白銀の刃の奥から、シロの声が静かに響いた。
そして――
ふたりでその剣を振りかざし、真正面から闇を見据える。
「もう誰も泣かせないっ! ここで――終わらせるッ!!」




