『白と黒の贈り物』56
剣が振り下ろされた、その刹那――
世界から、音が消えた。
黒き濁流も。
王の嗤いも。
祈りの間を軋ませていた崩壊の響きさえも。
すべてが、白銀の光の前で、息をひそめる。
――そして。
光が、走った。
それは閃光ではなかった。
爆ぜる力でもない。
やわらかく、静かに――
けれど、逃れようのない“帰るべき場所”へ導くような光。
白銀の刃から解き放たれたそれは、
波紋のように広がり、闇の中心へと届いていく。
絡みついていた影が、ひとつ、またひとつとほどける。
「……っ」
光の奥で、かすかな気配が震えた。
――美咲ちゃん!
そこに、確かに“いる”。
《……ぬるい》
低く、重い声が空間を揺らした。
闇の中心――
崩れかけた輪郭の中で、厄災の王がなおも踏みとどまる。
《白き光……それだけで、我を還せると思うたか》
黒き瘴気が、再び渦を巻く。
ほどけかけた影が、無理やり繋ぎ止められ、
光を押し返すように膨れ上がる。
《均衡を欠いた祈りなど……無に等しい》
まるで、その言葉に抗うように、
ヒカリの胸元で、勾玉が揺れる。
月白の輝きの奥で――
もうひとつの影が、かすかに脈打つ。
白と黒。
相反するはずの光が、ひとつの律動で重なった。
《その印……なぜ、そこに……》
厄災の王の声が、初めて乱れた。
《……そうか》
《禁を踏み越えたか、小娘》
《きさま――その身に》
光が、変わる。
やさしさの奥に、もうひとつの深さが宿る。
拒絶ではない。
だが、逃げ場を許さぬ“結び”の力。
ヒカリの声が、静かに響く。
「……終わらせるわ」
私は、息を吸った。
胸いっぱいに満ちたのは、恐怖じゃない。
守りたいという、ただひとつの願い。
「帰ろう……美咲ちゃん!」
光が、応えた。
白と黒と――そして犬神の祈りが、
ひとつの流れとなって刃を満たす。
《今ぞ――》
シロの声が、刃の奥で重なる。
《結べ》
振り抜いた。
光は、まっすぐに――
迷いなく、闇の核を貫いた。
「……ぉ……」
厄災の王の輪郭が、音もなく崩れていく。
黒い影は、裂けるのではなく――
ほどけるように、静かに消えていった。
《……愚か……》
最後の声が、かすかに揺れる。
《されど……覚えておけ……》
《禍は……名を変え……器を変え……》
《必ず――》
言葉は、そこで途切れた。
闇が、沈む。
すべてが、光へと還っていく。
――静寂。
ひとつ、小さな光が、ゆっくりと浮かび上がった。
「……っ」
私は、ヒカリと一緒に駆け寄る。
それは、淡く透けた少女の姿。
「……美咲ちゃん……」
震える声で呼ぶ。
その光が、ほんの少しだけ揺れた。
届いた。
――確かに、届いている。
私とヒカリは、同時に手を伸ばした。
「……大丈夫。この子は、ちゃんと帰れるわ」
落ち着いた、ヒカリの声。
触れた、その瞬間。
ふたつのぬくもりが、ひとつに重なった。
ふわりと光が広がる。
やさしく、すべてを包み込む光。
その中で、彼女の輪郭がふと揺れる。
人の形がわずかにほどけ、何か小さな姿へと変わりかけた気がした。
(……いまの……?)
その違和感が、まだ胸に残ったまま――
視界の端で、なにかが揺らぐ。
闇が消えたはずの場所に、ひとかけらの黒い影。
光に触れても消えず、ゆっくりと形を失いながら漂っている。
剣の奥で、かすかな違和感が揺れた。
ふ、と消えた――次の瞬間、世界が白に満ちる。
光が、すべてを包み込む。
美咲ちゃんの光が、静かにほどけていく。
もう、掴めない。
それでも――
そのぬくもりだけが、手のひらに残っていた。
*
まばゆい光が、あたりをやさしく包んでいる。
柔らかな白に満ちた空間。
ここが“夢幻封界の最果て”――そんな確信だけが、静かに胸に落ちてくる。
遠くで、祠の残響がかすかに揺れていた。
音も、風もないのに、
空気はどこまでもやさしくて、あたたかかった。
私とヒカリ、ふたりだけ。
――あれ?
ふと、違和感に気づく。
さっきまで感じていたはずの感覚が、どこにもない。
耳も、しっぽも――いつの間にか、消えている。
代わりにあるのは、見慣れたはずの“人の姿”。
……ここ、夢幻封界だよね?
ヒカリは、巫女装束のまま、穏やかな笑みを浮かべている。
「ねえ、犬神さん。……現実に戻ったら、また夏合宿の続きね」
「うんっ! 部活もまだあるし、テニスの練習も頑張らなきゃ〜っ!」
思わず声が弾む。
「そうね。きっと、楽しい夏になるわ」
ふたりで、くすっと笑い合う。
ほんの短い時間。
それなのに――
夢と現実の境目に咲いた、小さな祈りみたいに、
やけに大切なものに感じられた。
「ねえ……ヒカリ」
引っかかっていたものが、ふと、言葉になった。
「わたし、夢の中で見たの。
“陽花里”って人――」
ヒカリの瞳が、ほんのわずかに揺れた。
「……それは、あなたの指輪が見せたものよ」
静かな声だった。
「渡島に来たことで、繋がっただけ」
それだけ告げて、ヒカリは微笑む。
「……そういうことにしておいて」
「……やっぱり――わたしの前世って、“チップ”っていう犬だったんだよね?」
ぽつりとこぼした言葉に、ヒカリはやわらかく微笑んだ。
「あなたは、ちゃんと覚えてる。それでいいの」
「……うん。ちゃんと覚えてる」
「わたしの、大事な思い出……」
思わずこぼれた声に、
「ふふっ。大事にしてあげて」
ヒカリが、くすっと笑った。
その笑顔は、やわらかくて――
でも、その奥に、なにか言葉にできないものを抱えているように見えた。
ほんの少しだけ、胸がざわつく。
「犬神さん」
「……ん?」
名前を呼ばれて顔を上げる。
ヒカリは、まっすぐに私を見ていた。
「この先、どんなことがあっても――前を向いて」
「……え?」
「あなたなら、きっとできるから」
やさしい声だった。
けれど――
どこか遠くへ届くような響きに、
言葉の意味をうまく受け止めきれない。
「なにそれ……急に」
軽く笑ってみせると、
ヒカリは、ふっと目を伏せる。
「……ううん。なんでもない」
その仕草に、
わずかな違和感が残る。
「もしかして、疲れてる? あっ、甘いの食べる? 夢の中なら食べ放題だしっ」
「……大丈夫。ありがとう」
やわらかく笑って、ヒカリは顔を上げた。
けれど、その笑顔は――
さっきと同じはずなのに、ほんの少しだけ遠く感じた。
「それじゃ……そろそろ現実世界に戻らないと」
その言葉と同時に、ふわりと。
風もないはずの空間で、
空気だけがやさしく揺れた。
まるで、この時間の終わりを告げるみたいに。
ヒカリが、一歩近づいてくる。
そして――
そっと、抱きしめられた。
「わっ……! ど、どうしたの〜、いきなりっ!?」
驚いたはずなのに、
そのぬくもりはあまりにも自然で、懐かしくて――
ずっと前から知っていたみたいに、すとんと胸に落ちてくる。
「……ヒカリ……?」
名前を呼ぶと、ヒカリは肩に顔を預けたまま、
くすっと小さく笑った。
「ううん、なんでもないの。ただ……」
少しだけ、間があって。
「ちょっとだけ、こうしていたかったの」
その声は小さくて――
でも、まっすぐだった。
「も〜っ、変なヒカリ」
私は笑う。
なぜか頬が少し熱くて、
でも、その理由はよく分からなかった。
ただ、心地よかった。
――夏は、まだ終わらない。
この先も、きっといろんなことがある。
そう思えるくらい、
この瞬間はあたたかかった。
ヒカリが、そっと顔を上げる。
そして――
ほんの一瞬だけ、言葉を迷うようにして。
「ねぇ、犬神さ……えっと――」
それから。
「チハルっ」
名前が、呼ばれた。
やわらかくて、やさしくて、
でも、どこか特別な響きで。
「チップ……今までありがとう」
ほんのわずかに、間を置いて――
「……またね」
「……え……?」
その瞬間。
胸の奥に、あたたかい火が灯った。
やわらかくて、やさしくて――
でも、少しだけ、切ない。
「……いま、ヒカリ……わたしのこと、名前で……」
言葉にしながら、ふっと笑う。
(……えへへ。ヒカリってば、ずるいなぁ)
理由なんて分からない。
でも、ちゃんと届いていた。
ヒカリの声も。
笑顔も。
あのぬくもりも。
――忘れない。
(現実の渡島へ……みんなが、待ってる)
視界の白が、少しずつ揺らぎはじめる。
世界が、遠ざかっていく。
さあ――
夏の続きが、またここから始まる!
* * *
………。
……。
…。
まぶたの裏で、光が揺れていた。
――風の音。土のにおい。蝉の声。
それは、現実の音だった。
「……っ」
そっと目を開けた私がいたのは――
あの結びの祠の前。
地面に倒れていたらしい。
(……戻ってきた……んだ)
そう思ったとき、すぐ隣に“誰か”がいるのを感じた。
その人は――いや、その存在は、
銀色の髪を静かに揺らして、眠るようにそこにいた。
透き通るような肌。
あの夢の世界で、私の隣にいてくれた“彼女”。
(……よかった……ちゃんと、そばにいる)
その腕の中には、もうひとつの小さな命がいた。
白くて、ふわふわとした毛並みの、小さな猫。
その寝顔を見たとき、心の奥がぞわりと反応する。
(……この猫ちゃん……)
夢の中で出会った、あの白い猫に――とても、よく似ていた。
でも、私の中の記憶は、霧のようにぼやけていて……
うまく、繋がらない。
私は、ゆっくりと手を伸ばす。
「ヒカ――」
名前が、こぼれかける。
その瞬間――言葉が、止まった。
(……あれ?)
意識の奥で、なにかが音もなく崩れた。
景色が、走る。
日向公園の展望台。
見慣れない銀髪の少女。
転校してきた、あの日の光景。
(……あ、あぁ……)
名前が、分からない。
学校の教室。
私の隣にいた窓際の席。
ふとした瞬間に交わした視線。
テニスコート。
ラケットを握る音。
隣に立っていたはずの――誰か。
(……一緒に……)
言葉にならない。
夏の空。
渡島の海。
一緒に笑った声。
夜の静けさ。
星の下で交わした約束。
そして――
あの試練。
闇の中で、手を取ってくれた存在。
導いてくれた、あたたかな光。
(……だれ……?)
ひとつ、またひとつ。
思い出の中の“誰か”が、
音もなく、抜け落ちていく。
景色も、ぬくもりも残っているのに。
その中心にいたはずの存在だけが、
きれいに、消えていく。
(……なんで……)
息が、ぎゅっと詰まる。
それでも。
思い出そうとするほどに、
その輪郭は、崩れていく。
(……いま……呼ぼうとしたのに……)
もう一度、言葉を探す。
(……どうして……!)
けれど――
もう、何も出てこなかった。
言葉にならないまま、息だけがこぼれる。
彼女に手を差し伸べようとした、そのとき――
「……触るな」
張り詰めた糸のような、冷たい声が降りてきた。
ぴしゃり、と。
指先がはじかれる。
「っ……!」
驚いて手を引いた私を、
目の前の瞳が、まっすぐこちらを捉えた。
そして――
「犬神……千陽……」
その響きは、刃のようだった。
いつの間にか――
彼女の背後に、もうひとつの気配があった。
「月潤様……」
静かに降るような声がして、私は顔を上げる。
そこに立っていたのは――月城愛衣だった。
けれど、様子がちがう。
ふわふわした雰囲気は消えていて、
背筋はぴんと伸び、
そのまなざしには、凛とした気高さすら宿していた。
「……愛衣、ちゃん……?」
なにかが変わっている――
愛衣は静かに近づいてくると、月潤の手を取った。
「ご無事でなによりです、月潤様」
その言葉に応えるように、月潤は目を伏せ、
ゆっくりと両手を持ち上げる。
その瞬間――
どこからともなく、
対となる漆黒のリボンが、ふわりと現れた。
思わず、息が止まる。
(……あのリボン……)
懐かしさに似たものが、ふとよぎる。
どこかで見たことがあるような――
月潤がそっと目を閉じると、
リボンはふわりと宙に舞い上がる。
深い夜を溶かしたような黒が、
長く流れる銀の髪へと導かれるように滑り込み、やさしく絡みついていく。
風もないのに、まるで意志を持つかのように、
その髪を、そっと二つに分けて結び上げていった。
そして――
黒のリボンが静かに結ばれたとき、
彼女の銀髪はツインテールとなった。
目を開いた月潤が、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳は、どこまでも静かで――
まっすぐ、私を射抜いていた。
瞳の奥で、押し殺されていた何かが揺れた。
理由なんて分からない。
理屈じゃなく、本能が告げている。
――憎悪だった。
あのときの“《《視線》》”が、すべて甦る。
肌を刺すような気配。
振り返っても、誰もいなかった。
でも、たしかに――あのときから、ずっと。
あの目が。あの声が。あの静寂が。
私の背中を、胸を、心を――
貫いていた。
(……そうか……)
ぜんぶ、繋がった。
――そう思った瞬間、
背筋に、ぞくりとしたものが走る。
振り返っても、誰もいなかったはずのあの違和感。
視線も、気配も、沈黙も。
まるで運命の糸をたぐり寄せるように――
ひとつの結び目へと、静かに収束していく。
そして、そこにいたのは。
黒のリボンを、対に結んだ――
“宮下 月潤”。
その人だった。
――――――
第八章 渡島編『白と黒の贈り物』 完




