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『犬神物語』 〜転生少女と不思議な絆〜  作者: 犬神 匠
第八話 渡島編 後編

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『白と黒の贈り物』56

剣が振り下ろされた、その刹那――


世界から、音が消えた。


黒き濁流も。

王の嗤いも。

祈りの間を軋ませていた崩壊の響きさえも。


すべてが、白銀の光の前で、息をひそめる。


――そして。


光が、走った。


それは閃光ではなかった。

爆ぜる力でもない。


やわらかく、静かに――

けれど、逃れようのない“帰るべき場所”へ導くような光。


白銀の刃から解き放たれたそれは、

波紋のように広がり、闇の中心へと届いていく。


絡みついていた影が、ひとつ、またひとつとほどける。


「……っ」


光の奥で、かすかな気配が震えた。


――美咲ちゃん!


そこに、確かに“いる”。


《……ぬるい》


低く、重い声が空間を揺らした。


闇の中心――

崩れかけた輪郭の中で、厄災の王がなおも踏みとどまる。


《白き光……それだけで、我を還せると思うたか》


黒き瘴気が、再び渦を巻く。


ほどけかけた影が、無理やり繋ぎ止められ、

光を押し返すように膨れ上がる。


《均衡を欠いた祈りなど……無に等しい》


まるで、その言葉に抗うように、

ヒカリの胸元で、勾玉が揺れる。


月白の輝きの奥で――

もうひとつの影が、かすかに脈打つ。


白と黒。

相反するはずの光が、ひとつの律動で重なった。


《その印……なぜ、そこに……》


厄災の王の声が、初めて乱れた。


《……そうか》

《禁を踏み越えたか、小娘》


《きさま――その身に》


光が、変わる。

やさしさの奥に、もうひとつの深さが宿る。

拒絶ではない。

だが、逃げ場を許さぬ“結び”の力。


ヒカリの声が、静かに響く。


「……終わらせるわ」


私は、息を吸った。

胸いっぱいに満ちたのは、恐怖じゃない。

守りたいという、ただひとつの願い。


「帰ろう……美咲ちゃん!」


光が、応えた。


白と黒と――そして犬神の祈りが、

ひとつの流れとなって刃を満たす。


《今ぞ――》


シロの声が、刃の奥で重なる。


《結べ》


振り抜いた。


光は、まっすぐに――

迷いなく、闇の核を貫いた。


「……ぉ……」


厄災の王の輪郭が、音もなく崩れていく。


黒い影は、裂けるのではなく――

ほどけるように、静かに消えていった。


《……愚か……》


最後の声が、かすかに揺れる。


《されど……覚えておけ……》


《禍は……名を変え……器を変え……》


《必ず――》


言葉は、そこで途切れた。


闇が、沈む。


すべてが、光へと還っていく。


――静寂。


ひとつ、小さな光が、ゆっくりと浮かび上がった。


「……っ」


私は、ヒカリと一緒に駆け寄る。

それは、淡く透けた少女の姿。


「……美咲ちゃん……」


震える声で呼ぶ。

その光が、ほんの少しだけ揺れた。


届いた。

――確かに、届いている。


私とヒカリは、同時に手を伸ばした。


「……大丈夫。この子は、ちゃんと帰れるわ」


落ち着いた、ヒカリの声。


触れた、その瞬間。

ふたつのぬくもりが、ひとつに重なった。


ふわりと光が広がる。

やさしく、すべてを包み込む光。


その中で、彼女の輪郭がふと揺れる。

人の形がわずかにほどけ、何か小さな姿へと変わりかけた気がした。


(……いまの……?)


その違和感が、まだ胸に残ったまま――

視界の端で、なにかが揺らぐ。


闇が消えたはずの場所に、ひとかけらの黒い影。

光に触れても消えず、ゆっくりと形を失いながら漂っている。


剣の奥で、かすかな違和感が揺れた。


ふ、と消えた――次の瞬間、世界が白に満ちる。


光が、すべてを包み込む。

美咲ちゃんの光が、静かにほどけていく。


もう、掴めない。


それでも――

そのぬくもりだけが、手のひらに残っていた。



まばゆい光が、あたりをやさしく包んでいる。


柔らかな白に満ちた空間。

ここが“夢幻封界の最果て”――そんな確信だけが、静かに胸に落ちてくる。

遠くで、祠の残響がかすかに揺れていた。


音も、風もないのに、

空気はどこまでもやさしくて、あたたかかった。

私とヒカリ、ふたりだけ。


――あれ?


ふと、違和感に気づく。

さっきまで感じていたはずの感覚が、どこにもない。

耳も、しっぽも――いつの間にか、消えている。


代わりにあるのは、見慣れたはずの“人の姿”。


……ここ、夢幻封界だよね?


ヒカリは、巫女装束のまま、穏やかな笑みを浮かべている。


「ねえ、犬神さん。……現実に戻ったら、また夏合宿の続きね」


「うんっ! 部活もまだあるし、テニスの練習も頑張らなきゃ〜っ!」


思わず声が弾む。


「そうね。きっと、楽しい夏になるわ」


ふたりで、くすっと笑い合う。


ほんの短い時間。

それなのに――


夢と現実の境目に咲いた、小さな祈りみたいに、

やけに大切なものに感じられた。


「ねえ……ヒカリ」


引っかかっていたものが、ふと、言葉になった。


「わたし、夢の中で見たの。

 “陽花里”って人――」


ヒカリの瞳が、ほんのわずかに揺れた。


「……それは、あなたの指輪が見せたものよ」


静かな声だった。


「渡島に来たことで、繋がっただけ」


それだけ告げて、ヒカリは微笑む。


「……そういうことにしておいて」


「……やっぱり――わたしの前世って、“チップ”っていう犬だったんだよね?」


ぽつりとこぼした言葉に、ヒカリはやわらかく微笑んだ。


「あなたは、ちゃんと覚えてる。それでいいの」


「……うん。ちゃんと覚えてる」


「わたしの、大事な思い出……」


思わずこぼれた声に、


「ふふっ。大事にしてあげて」


ヒカリが、くすっと笑った。


その笑顔は、やわらかくて――

でも、その奥に、なにか言葉にできないものを抱えているように見えた。


ほんの少しだけ、胸がざわつく。


「犬神さん」


「……ん?」


名前を呼ばれて顔を上げる。

ヒカリは、まっすぐに私を見ていた。


「この先、どんなことがあっても――前を向いて」


「……え?」


「あなたなら、きっとできるから」


やさしい声だった。


けれど――


どこか遠くへ届くような響きに、

言葉の意味をうまく受け止めきれない。


「なにそれ……急に」


軽く笑ってみせると、

ヒカリは、ふっと目を伏せる。


「……ううん。なんでもない」


その仕草に、

わずかな違和感が残る。


「もしかして、疲れてる? あっ、甘いの食べる? 夢の中なら食べ放題だしっ」


「……大丈夫。ありがとう」


やわらかく笑って、ヒカリは顔を上げた。


けれど、その笑顔は――

さっきと同じはずなのに、ほんの少しだけ遠く感じた。


「それじゃ……そろそろ現実世界に戻らないと」


その言葉と同時に、ふわりと。


風もないはずの空間で、

空気だけがやさしく揺れた。


まるで、この時間の終わりを告げるみたいに。


ヒカリが、一歩近づいてくる。


そして――


そっと、抱きしめられた。


「わっ……! ど、どうしたの〜、いきなりっ!?」


驚いたはずなのに、

そのぬくもりはあまりにも自然で、懐かしくて――

ずっと前から知っていたみたいに、すとんと胸に落ちてくる。


「……ヒカリ……?」


名前を呼ぶと、ヒカリは肩に顔を預けたまま、

くすっと小さく笑った。


「ううん、なんでもないの。ただ……」


少しだけ、間があって。


「ちょっとだけ、こうしていたかったの」


その声は小さくて――

でも、まっすぐだった。


「も〜っ、変なヒカリ」


私は笑う。


なぜか頬が少し熱くて、

でも、その理由はよく分からなかった。


ただ、心地よかった。


――夏は、まだ終わらない。

この先も、きっといろんなことがある。


そう思えるくらい、

この瞬間はあたたかかった。


ヒカリが、そっと顔を上げる。


そして――


ほんの一瞬だけ、言葉を迷うようにして。


「ねぇ、犬神さ……えっと――」


それから。


「チハルっ」


名前が、呼ばれた。


やわらかくて、やさしくて、

でも、どこか特別な響きで。


「チップ……今までありがとう」


ほんのわずかに、間を置いて――


「……またね」


「……え……?」


その瞬間。

胸の奥に、あたたかい火が灯った。


やわらかくて、やさしくて――


でも、少しだけ、切ない。


「……いま、ヒカリ……わたしのこと、名前で……」


言葉にしながら、ふっと笑う。


(……えへへ。ヒカリってば、ずるいなぁ)


理由なんて分からない。

でも、ちゃんと届いていた。


ヒカリの声も。

笑顔も。

あのぬくもりも。


――忘れない。


(現実の渡島へ……みんなが、待ってる)


視界の白が、少しずつ揺らぎはじめる。

世界が、遠ざかっていく。


さあ――


夏の続きが、またここから始まる!


* * *


………。


……。


…。


まぶたの裏で、光が揺れていた。


――風の音。土のにおい。蝉の声。

それは、現実の音だった。


「……っ」


そっと目を開けた私がいたのは――

あの結びの祠の前。

地面に倒れていたらしい。


(……戻ってきた……んだ)


そう思ったとき、すぐ隣に“誰か”がいるのを感じた。


その人は――いや、その存在は、

銀色の髪を静かに揺らして、眠るようにそこにいた。


透き通るような肌。

あの夢の世界で、私の隣にいてくれた“彼女”。


(……よかった……ちゃんと、そばにいる)


その腕の中には、もうひとつの小さな命がいた。

白くて、ふわふわとした毛並みの、小さな猫。


その寝顔を見たとき、心の奥がぞわりと反応する。


(……この猫ちゃん……)


夢の中で出会った、あの白い猫に――とても、よく似ていた。

でも、私の中の記憶は、霧のようにぼやけていて……

うまく、繋がらない。


私は、ゆっくりと手を伸ばす。


「ヒカ――」


名前が、こぼれかける。


その瞬間――言葉が、止まった。


(……あれ?)


意識の奥で、なにかが音もなく崩れた。


景色が、走る。


日向公園の展望台。

見慣れない銀髪の少女。


転校してきた、あの日の光景。


(……あ、あぁ……)


名前が、分からない。


学校の教室。

私の隣にいた窓際の席。

ふとした瞬間に交わした視線。


テニスコート。

ラケットを握る音。

隣に立っていたはずの――誰か。


(……一緒に……)


言葉にならない。


夏の空。

渡島の海。

一緒に笑った声。


夜の静けさ。

星の下で交わした約束。


そして――


あの試練。


闇の中で、手を取ってくれた存在。

導いてくれた、あたたかな光。


(……だれ……?)


ひとつ、またひとつ。


思い出の中の“誰か”が、

音もなく、抜け落ちていく。


景色も、ぬくもりも残っているのに。


その中心にいたはずの存在だけが、

きれいに、消えていく。


(……なんで……)


息が、ぎゅっと詰まる。


それでも。


思い出そうとするほどに、

その輪郭は、崩れていく。


(……いま……呼ぼうとしたのに……)


もう一度、言葉を探す。


(……どうして……!)


けれど――

もう、何も出てこなかった。


言葉にならないまま、息だけがこぼれる。


彼女に手を差し伸べようとした、そのとき――


「……触るな」


張り詰めた糸のような、冷たい声が降りてきた。


ぴしゃり、と。


指先がはじかれる。


「っ……!」


驚いて手を引いた私を、

目の前の瞳が、まっすぐこちらを捉えた。


そして――


「犬神……千陽……」


その響きは、刃のようだった。


いつの間にか――

彼女の背後に、もうひとつの気配があった。


月潤つきの様……」


静かに降るような声がして、私は顔を上げる。


そこに立っていたのは――月城愛衣だった。


けれど、様子がちがう。


ふわふわした雰囲気は消えていて、

背筋はぴんと伸び、

そのまなざしには、凛とした気高さすら宿していた。


「……愛衣、ちゃん……?」


なにかが変わっている――


愛衣は静かに近づいてくると、月潤の手を取った。


「ご無事でなによりです、月潤様」


その言葉に応えるように、月潤は目を伏せ、

ゆっくりと両手を持ち上げる。


その瞬間――


どこからともなく、

対となる漆黒のリボンが、ふわりと現れた。


思わず、息が止まる。


(……あのリボン……)


懐かしさに似たものが、ふとよぎる。


どこかで見たことがあるような――


月潤がそっと目を閉じると、

リボンはふわりと宙に舞い上がる。


深い夜を溶かしたような黒が、

長く流れる銀の髪へと導かれるように滑り込み、やさしく絡みついていく。


風もないのに、まるで意志を持つかのように、

その髪を、そっと二つに分けて結び上げていった。


そして――


黒のリボンが静かに結ばれたとき、

彼女の銀髪はツインテールとなった。


目を開いた月潤が、ゆっくりと顔を上げる。


その瞳は、どこまでも静かで――

まっすぐ、私を射抜いていた。


瞳の奥で、押し殺されていた何かが揺れた。


理由なんて分からない。

理屈じゃなく、本能が告げている。


――憎悪だった。


あのときの“《《視線》》”が、すべて甦る。


肌を刺すような気配。

振り返っても、誰もいなかった。


でも、たしかに――あのときから、ずっと。


あの目が。あの声が。あの静寂が。

私の背中を、胸を、心を――

貫いていた。


(……そうか……)


ぜんぶ、繋がった。


――そう思った瞬間、


背筋に、ぞくりとしたものが走る。

振り返っても、誰もいなかったはずのあの違和感。


視線も、気配も、沈黙も。

まるで運命の糸をたぐり寄せるように――

ひとつの結び目へと、静かに収束していく。


そして、そこにいたのは。


黒のリボンを、対に結んだ――


宮下みやした 月潤つきの”。


その人だった。


――――――


第八章 渡島編『白と黒の贈り物』 完

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