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『犬神物語』 〜転生少女と不思議な絆〜  作者: 犬神 匠
第八話 渡島編 後編

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『白と黒の贈り物』47

温泉の湯けむりに包まれて、わたしは、そっと肩まで浸かっていました。


熱すぎない優しいお湯が、心と体にじんわりとしみ込んでくる。

……さっきまでのざわざわも、怖さも、すこしずつ溶けていくみたいに。


(……ふぅ……気持ちいい、ですっ)


すぐそばでは、ちー先輩が森川先輩や月城先輩と笑いながらおしゃべりしてる。

湯けむりの向こうで聞こえるその声が、やさしくて、あったかくて――まるで、お風呂ごと全部が心の毛布みたいに包み込んでくれる感じ。

天野先輩は、静かに湯の縁にもたれて目を閉じていました。


そのとき。


「……ちゃんと、あたたまってね。今日は、いろいろあったから」


静かな声が、やわらかな湯気の中に溶けるように届いた。

目を向けると、天野先輩がやさしく笑っている。

急かすでもなく、ただ――ちゃんと、わたしを見てくれている目。


「……はい。

 ちゃんと、あったまりますっ」


わたしは湯船にそっと顎を乗せて、ふにゃっと笑う。

こうして、ぬくもりに包まれていると――

さっき感じていた“怖さ”なんて、もう遠い夢の中みたいです。


今日だけは眠るまで、このままでいたいなぁ……って、そんな甘えんぼうな気持ちが、ふわりと浮かんでくる。

明日になればきっと、みんなまたそれぞれの場所に戻っていく。

楽しかった夏の一日は当たり前みたいに、通り過ぎる。


そのことを考えただけで――

ひとりきりの闇に、沈みそうになる。


家に帰れば、灯りのついていない部屋と、自分だけの夜が待っている。


……だから。

もう少しだけ、この時間が続けばいいのに。

ちー先輩も、天野先輩も、みんながそばにいてくれる。この場所で――わたしは、ほんの少しだけ夢を見ていたいって、そう思いました。

まるで胸に灯った小さな願いが、湯けむりにまぎれて、ふわりと空へ昇っていくみたいで。


***


玲奈の別荘のテラスは、まるで夏の宵に浮かぶ舞台のようだった。竹灯籠が優しく足元を照らす。

縁側に並ぶ浴衣が、夜風にふわりと揺れた。


虫の声が遠く細く続くなか、

澄みきった声が静かに空気を導く。


「……さあ、上がりますわよ」


玲奈のその一言と同時に――


パァァァァンッ!!


夜空が一気に焦がされ、黄金と群青が混ざり合う閃光が咲いた。星屑のようなきらめきが、空にひろがる。


テラスには、思い思いの浴衣に身を包んだ男女の姿。

女子たちは朝顔や金魚、撫子に花火模様と、それぞれの個性が映された柄で彩られ、

男子たちは紺や灰、群青の浴衣に涼やかな帯を締め、どこか背筋を伸ばしていた。


千陽の浴衣は、白地に淡い朝顔模様。

元気な雰囲気の中に、どこか初々しい夏の華やぎがあり、髪にはヒカリが結んでくれた白いリボンが揺れていた。


ヒカリは、藍と紫のグラデーションが流れるように重なる涼しげな浴衣。

その横顔は、まるで宵の星空の化身のように儚く、

静かに佇んでいた。


美咲は、小柄な体に桃色の金魚柄の浴衣。

少し大人びた色に照れながらも、嬉しそうに下駄を鳴らしていた。

隣の柚葉や亜沙美も、ふわっと笑い合いながら可愛い帯の結び目を見せ合っている。


男子の中で隆之は、紺のシンプルな浴衣に黒の角帯。

飾らないその姿が、かえって落ち着いた印象を引き立てていた。


信也は、灰がかった渋いストライプ柄の浴衣で、

変わらず穏やかに、みんなを見守るように立っていた。


隼は、真新しい群青色の浴衣。まだ下駄に慣れていない足取りで、ちらちらと千陽のほうを気にしている。


――打ち上がる花火に、歓声と拍手が重なっていく。


テラスの隅では、天音と愛衣が“癒し系同好会屋台”を開いていた。

かき氷機の軽やかな音と、とろりと甘い蜜の香り。

その隣には、涼やかなフルーツ寒天の器が並ぶ。

透明な寒天の中に、色とりどりの果実。赤い苺、橙の蜜柑、淡い緑のキウイ。

光を受けて、宝石みたいにきらりと揺れた。


「はい、冷たいの、どうぞ〜♪」

愛衣が手渡すのは、ふわふわの桃ミルクかき氷。

ほんのり桜色で、夜空にほどける花火みたいにやさしい。


「うふふ……よく冷えてますよぉ。夏の夜にぴったり、ですねぇ」


天音は寒天をつるんと器に移しながら、声を弾ませる。


「こっちはな、さっぱり系やで〜。

 花火見ながら食べるのに、ちょうどええ感じやろ? 甘すぎへんから、あと口もすっきりや」


にぎやかな声の向こうで、ふとヒカリの視線が止まる。

美咲は少し離れた場所に座っていた。


「……これ、どう?」


差し出された小皿には、透き通った寒天と小さく刻まれた果実。夜風に触れて、ひんやりと涼しそうだった。


「……きれい。ありがとうございますっ」


美咲は両手で受け取り、添えられた小さなスプーンでひと口すくって口に運ぶ。

甘さは控えめで、果実の酸味がやさしく広がる。


「……うん。ちょっとだけ、元気出た……かも」


ヒカリは、ほっとしたように微笑んだ。

その笑みが、打ち上がる光と重なって、夜の闇をやさしくほどいていく。


***


……ぱぁんっ!


夜空が、音を追い越すように明るく染まった。


「わっ……」


思わず見上げた空に、大輪の光の花が咲いては、ふわりと散っていく。

金色、桃色、緑、そして――真っ白にきらめく、大きな輪。


ひとつ、またひとつと、身体の芯まで震わせる花火の音。

体の芯がふるえるたび、私は、そっと隣へ目をやった。


……ヒカリも、美咲ちゃんも。

浴衣姿のまま空を見上げながら、それぞれの瞳に同じ夏を映していた。


「きれい……」


ヒカリの、ぽつりとこぼれた声が、

風に乗って夜へと溶けていく。


――ああ、いま。

ここにいて、よかった。


(……お願い。どうか、この夏の夜が、もう少しだけ長く続きますように)


そう願いながら、

私はまたひとつ打ち上がった花火の光を、そっと記憶に刻んだ。


ぱああんっ……!

弾ける音と歓声が重なる。


そのにぎわいの向こう、テラスの片隅で――

愛衣ちゃんが氷をさらさら削っていた。


「チハルちゃん、ちょっと待っててくださいねぇ」


ふわりと積もった真っ白な氷に、淡い白桃色のシロップが、とろりと落ちる。

光を受けて、やわらかく透けるみたいに揺れた。


私の前で、もうひとすじ。

くるくるっと丁寧に回しかける。


仕上げに、ほんの少しだけ練乳を細く細く。

雪の上に、やさしい甘さの線が描かれていく。


「はいっ。特別仕様、ですぅ」


「わっ、えへへっ。ありがとう、愛衣ちゃんっ!」


差し出された器を受け取る。

添えられたスプーンで、そっとひと口。


ふわっと広がる白桃の甘さ。

氷がほどけるみたいに溶けていく。

甘くて、やさしくて……

ひと口食べた瞬間、ふわふわ雪みたいなやさしさが、

口いっぱいに広がった。


***


(……わたし、どうして、こんなに……)


花火の音が、心の奥を叩いてくる気がした。

ただきれい、って思えない。

胸のどこかが締めつけられるようで――


忘れてはいけない誰かがいる気がするのに、

顔も、名前も、思い出せないんです。


「……どうしたの?」


静かな声が、すぐそばで落ちた。


「……天野、先輩……」


「泣きそうな顔、してたから」


その言葉に、ふっと胸があたたかくなる。

やさしい瞳で見つめてくれてる。

そのことが、なぜだか嬉しくて――


「……わたし……

 誰かの、子守唄みたいな歌を思い出したんです」

「……やさしくて、少しだけ寂しい歌で……

 “また明日ね”って、言ってくれるみたいな……」


その言葉を口にしたとき、天野先輩の指先が、ほんのわずかに震えた気がした。


「……その歌を、あなたに歌っていた人は――きっと、あなたをとても大切に想っていたのね」


「はい……でも、顔も名前も思い出せなくて。なのに、こんなに苦しくて……」


わたしの言葉に、天野先輩はそっと目を伏せて、

夜空を見上げる。


「それでも、忘れないで。想いがある限り、記憶はきっと……形を変えて、あなたのなかに生き続けてるわ」


「……形を、変えて……?」


「そう。たとえば、それが歌だったり、温もりだったり――。あなたの心に触れたものは、きっと全部“記憶”なのよ」


花火の光が天野先輩の横顔を照らす。

その横顔は、どこか切なくて、美しかった。


「……ありがとう、天野先輩」


わたしはもう一度、空を見上げた。

さっきまで重かった気持ちが、すこしだけやわらいだ気がする。


……それなのに。


ずきん、と。

やさしかった記憶が、胸の奥をかすめた。


あたたかい旋律。

でも、その奥に――触れてはいけない何かがある。


(……ねえ、わたし……何を、忘れてるの?)


まぶたの奥に黒い影がよぎる。

赤く光る瞳。水の音。耳の奥が、きゅうっと痛む。


「……こわい……」


気づいたら、ぽろっと声がこぼれていた。

でもその声は、次の花火の音に溶けていった。


ほんとうは、思い出しかけている。

あの夢の中で、

わたしを呼んでくれていた声があったことも。

失ってしまった“誰か”がいたことも。


思い出してしまったら、きっと、

もう戻れない。


だから――


今夜だけは、

この花火の音で、すべてを包んでほしい。


あたたかいままの、わたしでいさせてください。

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