『白と黒の贈り物』47
温泉の湯けむりに包まれて、わたしは、そっと肩まで浸かっていました。
熱すぎない優しいお湯が、心と体にじんわりとしみ込んでくる。
……さっきまでのざわざわも、怖さも、すこしずつ溶けていくみたいに。
(……ふぅ……気持ちいい、ですっ)
すぐそばでは、ちー先輩が森川先輩や月城先輩と笑いながらおしゃべりしてる。
湯けむりの向こうで聞こえるその声が、やさしくて、あったかくて――まるで、お風呂ごと全部が心の毛布みたいに包み込んでくれる感じ。
天野先輩は、静かに湯の縁にもたれて目を閉じていました。
そのとき。
「……ちゃんと、あたたまってね。今日は、いろいろあったから」
静かな声が、やわらかな湯気の中に溶けるように届いた。
目を向けると、天野先輩がやさしく笑っている。
急かすでもなく、ただ――ちゃんと、わたしを見てくれている目。
「……はい。
ちゃんと、あったまりますっ」
わたしは湯船にそっと顎を乗せて、ふにゃっと笑う。
こうして、ぬくもりに包まれていると――
さっき感じていた“怖さ”なんて、もう遠い夢の中みたいです。
今日だけは眠るまで、このままでいたいなぁ……って、そんな甘えんぼうな気持ちが、ふわりと浮かんでくる。
明日になればきっと、みんなまたそれぞれの場所に戻っていく。
楽しかった夏の一日は当たり前みたいに、通り過ぎる。
そのことを考えただけで――
ひとりきりの闇に、沈みそうになる。
家に帰れば、灯りのついていない部屋と、自分だけの夜が待っている。
……だから。
もう少しだけ、この時間が続けばいいのに。
ちー先輩も、天野先輩も、みんながそばにいてくれる。この場所で――わたしは、ほんの少しだけ夢を見ていたいって、そう思いました。
まるで胸に灯った小さな願いが、湯けむりにまぎれて、ふわりと空へ昇っていくみたいで。
***
玲奈の別荘のテラスは、まるで夏の宵に浮かぶ舞台のようだった。竹灯籠が優しく足元を照らす。
縁側に並ぶ浴衣が、夜風にふわりと揺れた。
虫の声が遠く細く続くなか、
澄みきった声が静かに空気を導く。
「……さあ、上がりますわよ」
玲奈のその一言と同時に――
パァァァァンッ!!
夜空が一気に焦がされ、黄金と群青が混ざり合う閃光が咲いた。星屑のようなきらめきが、空にひろがる。
テラスには、思い思いの浴衣に身を包んだ男女の姿。
女子たちは朝顔や金魚、撫子に花火模様と、それぞれの個性が映された柄で彩られ、
男子たちは紺や灰、群青の浴衣に涼やかな帯を締め、どこか背筋を伸ばしていた。
千陽の浴衣は、白地に淡い朝顔模様。
元気な雰囲気の中に、どこか初々しい夏の華やぎがあり、髪にはヒカリが結んでくれた白いリボンが揺れていた。
ヒカリは、藍と紫のグラデーションが流れるように重なる涼しげな浴衣。
その横顔は、まるで宵の星空の化身のように儚く、
静かに佇んでいた。
美咲は、小柄な体に桃色の金魚柄の浴衣。
少し大人びた色に照れながらも、嬉しそうに下駄を鳴らしていた。
隣の柚葉や亜沙美も、ふわっと笑い合いながら可愛い帯の結び目を見せ合っている。
男子の中で隆之は、紺のシンプルな浴衣に黒の角帯。
飾らないその姿が、かえって落ち着いた印象を引き立てていた。
信也は、灰がかった渋いストライプ柄の浴衣で、
変わらず穏やかに、みんなを見守るように立っていた。
隼は、真新しい群青色の浴衣。まだ下駄に慣れていない足取りで、ちらちらと千陽のほうを気にしている。
――打ち上がる花火に、歓声と拍手が重なっていく。
テラスの隅では、天音と愛衣が“癒し系同好会屋台”を開いていた。
かき氷機の軽やかな音と、とろりと甘い蜜の香り。
その隣には、涼やかなフルーツ寒天の器が並ぶ。
透明な寒天の中に、色とりどりの果実。赤い苺、橙の蜜柑、淡い緑のキウイ。
光を受けて、宝石みたいにきらりと揺れた。
「はい、冷たいの、どうぞ〜♪」
愛衣が手渡すのは、ふわふわの桃ミルクかき氷。
ほんのり桜色で、夜空にほどける花火みたいにやさしい。
「うふふ……よく冷えてますよぉ。夏の夜にぴったり、ですねぇ」
天音は寒天をつるんと器に移しながら、声を弾ませる。
「こっちはな、さっぱり系やで〜。
花火見ながら食べるのに、ちょうどええ感じやろ? 甘すぎへんから、あと口もすっきりや」
にぎやかな声の向こうで、ふとヒカリの視線が止まる。
美咲は少し離れた場所に座っていた。
「……これ、どう?」
差し出された小皿には、透き通った寒天と小さく刻まれた果実。夜風に触れて、ひんやりと涼しそうだった。
「……きれい。ありがとうございますっ」
美咲は両手で受け取り、添えられた小さなスプーンでひと口すくって口に運ぶ。
甘さは控えめで、果実の酸味がやさしく広がる。
「……うん。ちょっとだけ、元気出た……かも」
ヒカリは、ほっとしたように微笑んだ。
その笑みが、打ち上がる光と重なって、夜の闇をやさしくほどいていく。
***
……ぱぁんっ!
夜空が、音を追い越すように明るく染まった。
「わっ……」
思わず見上げた空に、大輪の光の花が咲いては、ふわりと散っていく。
金色、桃色、緑、そして――真っ白にきらめく、大きな輪。
ひとつ、またひとつと、身体の芯まで震わせる花火の音。
体の芯がふるえるたび、私は、そっと隣へ目をやった。
……ヒカリも、美咲ちゃんも。
浴衣姿のまま空を見上げながら、それぞれの瞳に同じ夏を映していた。
「きれい……」
ヒカリの、ぽつりとこぼれた声が、
風に乗って夜へと溶けていく。
――ああ、いま。
ここにいて、よかった。
(……お願い。どうか、この夏の夜が、もう少しだけ長く続きますように)
そう願いながら、
私はまたひとつ打ち上がった花火の光を、そっと記憶に刻んだ。
ぱああんっ……!
弾ける音と歓声が重なる。
そのにぎわいの向こう、テラスの片隅で――
愛衣ちゃんが氷をさらさら削っていた。
「チハルちゃん、ちょっと待っててくださいねぇ」
ふわりと積もった真っ白な氷に、淡い白桃色のシロップが、とろりと落ちる。
光を受けて、やわらかく透けるみたいに揺れた。
私の前で、もうひとすじ。
くるくるっと丁寧に回しかける。
仕上げに、ほんの少しだけ練乳を細く細く。
雪の上に、やさしい甘さの線が描かれていく。
「はいっ。特別仕様、ですぅ」
「わっ、えへへっ。ありがとう、愛衣ちゃんっ!」
差し出された器を受け取る。
添えられたスプーンで、そっとひと口。
ふわっと広がる白桃の甘さ。
氷がほどけるみたいに溶けていく。
甘くて、やさしくて……
ひと口食べた瞬間、ふわふわ雪みたいなやさしさが、
口いっぱいに広がった。
***
(……わたし、どうして、こんなに……)
花火の音が、心の奥を叩いてくる気がした。
ただきれい、って思えない。
胸のどこかが締めつけられるようで――
忘れてはいけない誰かがいる気がするのに、
顔も、名前も、思い出せないんです。
「……どうしたの?」
静かな声が、すぐそばで落ちた。
「……天野、先輩……」
「泣きそうな顔、してたから」
その言葉に、ふっと胸があたたかくなる。
やさしい瞳で見つめてくれてる。
そのことが、なぜだか嬉しくて――
「……わたし……
誰かの、子守唄みたいな歌を思い出したんです」
「……やさしくて、少しだけ寂しい歌で……
“また明日ね”って、言ってくれるみたいな……」
その言葉を口にしたとき、天野先輩の指先が、ほんのわずかに震えた気がした。
「……その歌を、あなたに歌っていた人は――きっと、あなたをとても大切に想っていたのね」
「はい……でも、顔も名前も思い出せなくて。なのに、こんなに苦しくて……」
わたしの言葉に、天野先輩はそっと目を伏せて、
夜空を見上げる。
「それでも、忘れないで。想いがある限り、記憶はきっと……形を変えて、あなたのなかに生き続けてるわ」
「……形を、変えて……?」
「そう。たとえば、それが歌だったり、温もりだったり――。あなたの心に触れたものは、きっと全部“記憶”なのよ」
花火の光が天野先輩の横顔を照らす。
その横顔は、どこか切なくて、美しかった。
「……ありがとう、天野先輩」
わたしはもう一度、空を見上げた。
さっきまで重かった気持ちが、すこしだけやわらいだ気がする。
……それなのに。
ずきん、と。
やさしかった記憶が、胸の奥をかすめた。
あたたかい旋律。
でも、その奥に――触れてはいけない何かがある。
(……ねえ、わたし……何を、忘れてるの?)
まぶたの奥に黒い影がよぎる。
赤く光る瞳。水の音。耳の奥が、きゅうっと痛む。
「……こわい……」
気づいたら、ぽろっと声がこぼれていた。
でもその声は、次の花火の音に溶けていった。
ほんとうは、思い出しかけている。
あの夢の中で、
わたしを呼んでくれていた声があったことも。
失ってしまった“誰か”がいたことも。
思い出してしまったら、きっと、
もう戻れない。
だから――
今夜だけは、
この花火の音で、すべてを包んでほしい。
あたたかいままの、わたしでいさせてください。




