『白と黒の贈り物』46
日が沈み、夕暮れの海が朱に染まるころ――
別荘のダイニングには、にぎやかな声と、湯気の立つごちそうが並びはじめていた。
テーブルには地元の海の幸をふんだんに使った舟盛りや、炭火焼きの魚、冷たい夏野菜の小鉢がずらり。
旅館とはまた違った別荘ならではの“ちょっと背伸びした家庭の味”が並んでいて、見ているだけでお腹が鳴りそうだった。
「おぉ〜〜〜っ!なんか、めちゃ豪華じゃないっ!?」
「ねえねえ、このお刺身、キラキラしてるぅ〜〜っ!!」
チハルがぴょんとイスに座りながら、目を輝かせて歓声をあげる。
その隣では――
「ふふ……さっきのサウナ、気持ちよかったですわね」
「亜沙美さん、柚葉さんもご一緒してくださって、嬉しかったですわ」
と、玲奈が涼やかに微笑みながら、冷たい麦茶のグラスを揺らしていた。
「ね〜〜っ!なんか、あたしも意外とイケたかもっ♪」
「最初は無理〜〜って思ってたのに……気づいたら“ととのってた”〜〜〜!!って感じ?」
亜沙美が明るく笑えば、柚葉も「うんうんっ」とうなずきながら、小さく手を胸に当てて言う。
「……なんだろ。あの、じんわり温まってからの冷たさ……」
「体もだけど、心までスッと軽くなった気がして……気持ちよかったです」
その言葉は、どこか照れくさそうで――
でも、まっすぐな素直さが胸にすっと届くようだった。
「わぁ〜〜っ!!ほんとに行ったんだ〜〜っ!?うれしい〜〜っ!!」
「わたしの“サウナ推し”が……ちゃんと伝わったんだね〜〜っ!!」
チハルは思わず、手をぱちぱち叩いてはしゃいでしまう。
「でさ〜〜!“風神熱波”ってあったじゃん!?あれ、マジで台風だったんだけど〜〜っ!」
亜沙美が身振り手振りで大げさに再現するように言うと、玲奈と柚葉も静かに頷く。
「熱風が……思っていた以上に、情熱的でしたわ……」
「それ〜〜っ!あたし、前髪めくれたもん……」
「……あの風、ぜったいサウナの神様の“ふぅ〜〜っ”って、息です……」
三人のやり取りに、チハルはもうキラキラ顔で身を乗り出す。
「ででっ、そのあと水風呂!どうだった〜〜っ!?入った!?」
「……うん、がんばった……けど……さ、さむっ!!って叫んだぁ〜〜!」
「でもでもっ!そのあとの外気浴、最高やったぁ〜……空見ながらととのった〜〜……」
「うんうんっ、それだよ〜〜っ!サウナ→水風呂→外気浴、この流れが最強なんだよ〜〜っ!!」
「……チハル先輩のテンション、上がりすぎっスよ」
「えへへ〜っ、みんながサウナの楽しさわかってくれて、わたし、しあわせっ!!」
チハルはうれしさが爆発したように、ぴょんっと立ち上がった。
「ねぇねぇっ、じゃあさっ――今から、みんなでっ!」
両手を前に出して、わんこみたいにクイッ!
「“ととのったわんっ!”ポーズ、やろっ!!」
ぱたぱたと耳を立てるように頭に手を添えながら、うるうるした上目遣いで続ける。
「サウナでととのって……水風呂でしゃっきりして……外気浴で、風にふかれながら……」
くるんっ!と一回転して、胸に手をあて――
「ご主人さまぁ〜〜っ……チハル、いま……最高にととのってる、わんっ!」
「……ちょ、ちょっと犬神先輩っ!? なにそれっ、あはははっ!!」
「ふふ……あいかわらず全力ですのね」
「も〜〜っ、ズルいっ☆ かわいすぎでしょっ、それ〜〜っ!!」
「そ、それじゃあ……ウチらも……せーのでやるぅ〜〜っ!?」
「「「ととのったわんっ♡」」」
夏の夜の食卓に、わんこたちのととのい大合唱が響きわたる――。
その笑顔は、自然と肩が触れ合う距離のまま、やさしくて、あったかくて。
けれどその輪の外で――
美咲の前には手つかずの小鉢と、ほとんど減っていないご飯茶碗だけが、ぽつりと残っていた。
(……美咲ちゃん?)
チハルはそっと横目でその様子を見て、小さく眉をひそめる。声をかけようか迷ったそのとき――
「……少し、外の風に当たってきます」
美咲がぽつりとつぶやき、椅子から立ち上がった。
その表情に、チハルはふと違和感を覚える。
一瞬の沈黙ののち――
「……わたしも、ちょっと行ってくるねっ」
席を立つチハルの隣で、ヒカリもそっと立ち上がった。
二人は目を合わせることもなく、同じ方向へ――美咲のあとを、静かに追いかけていく。
やわらかな夜の風が、開かれた廊下の向こうからそっと吹き込んできた。
その背中を、誰も呼び止めることはなかった。
「さて――」
ゆったりとお茶を置いた玲奈先輩が、微笑みとともに視線を皆へ向ける。
「このあとは、温泉で疲れを癒したあと、お部屋で浴衣に着替えて……二十時から浜辺にて、打ち上げ花火を予定していますの」
「うぉ〜っ!花火きた〜〜っ!!」
男子生徒の一人が、立ち上がりそうな勢いで声を上げる。
「やっぱ夏はこれだよな!」
「しかも、合宿ってまだ明日もあるんだろ? なんかさ、月曜も休みみたいな気分だよな!」
「そうそう、“もう終わっちゃう”ってならない感じ、最高〜〜っ!」
そのテンションに続くように、女子生徒たちの声も弾ける。
「きゃ〜〜っ!!待ってました〜〜〜っ!!」
「えへへっ、浴衣で花火とか……ぜったい映えるやつ〜〜っ♡」
「写真いっぱい撮ろうね〜〜っ!」
わいわいと賑やかに盛り上がる声が、
食堂のあちこちから響き始める中――
「そのあとには、ほんの少し……“お楽しみ”も、ご用意していますわ。ふふっ」
玲奈の意味ありげな一言が、空気をふわりと止める。
「えっ、お楽しみって……なにっ!?」
「うわ〜〜っ、気になるぅ〜〜〜っ!!」
生徒たちのざわめきが広がる中、亜沙美と柚葉が目を合わせて、ちょっぴりいたずらっぽく笑う。
玲奈はグラスに口をつけながら、涼やかに微笑んだ。
「ふふ……続きは、夜のお楽しみですわ」
***
その笑い声が遠くなったとき――
わたしの前にあるお茶碗と小鉢。
……ほとんど、手をつけていなかった。
「……ごちそうさまでしたっ」
声に出せたか、出せなかったか。それすら、よく覚えていない。
誰にも気づかれないようにそっとお箸を置いて、
席を立った。
ダイニングの灯りと笑い声が、背中の方で揺れてる。
河田先輩の明るい声も、柚葉ちゃんの楽しそうな表情も、高橋先輩の静かな微笑みも――
どれも、あったかくて、まぶしいくらいに優しいのに。
どうしてだろう。
心の奥に説明のつかない影だけが、揺れていた。
(みんな、楽しそうなのに……なんで、わたし、こんな……)
下を向いたまま階段をのぼる。
木のきしむ音さえ、やけに大きく聞こえた。
やがて、2階の突き当たり。
いつかの朝、ちー先輩たちと笑い合ったあのテラスへ足を向ける。
ガラス戸をそっと開けると、夕暮れの風がふわりと頬を撫でてきた。
まだ空は明るくて、西の空はほんのりオレンジ色に染まっている。
蒸し暑さの残る空気のなか、どこか潮の匂いが混じっていた。
「……ふぅっ」
小さく息を吐いて、手すりに寄りかかる。
空には、少しずつ星が顔を出しはじめていて――
わたしの心は、それとはちがう場所に沈んでいくようだった。
(……なんで……こんなに、寂しいんだろ)
そう思った瞬間――
体の奥が、かすかに“ざわっ”と揺れた。
風のせいじゃない。
星の光でも、涙のせいでもなくて――
……自分の中にある、“なにか”が、目を覚ましかけている気がした。
(……誰か、じゃない……なにかが――呼んでる……?)
鼓動が、どくん、と強くなる。
その衝撃が内側から響くようで――
(やだ……なに、これ……)
わたし、いま――
……ほんとうの“自分”じゃないものに、なりそうで……
怖かった。
そのとき。
「……美咲ちゃん?」
静かに響いた、ちー先輩の声。
わたしの名前が、ちゃんと“ここ”に引き戻してくれた。
振り返ると、ちー先輩と天野先輩が、テラスの入口に立っていたんです。
「なんかさ……元気ないなって思って……」
ちー先輩が、小さく眉を下げながら近づいてくる。
「ごはん、ほとんど手つけてなかったから……ちょっと心配で」
わたしは――言おうか迷いました。
でも、ふたりがちゃんと“わたしを見てくれていた”と気づいた瞬間、こわばっていた何かがゆるんで。
「……なんか、うまく言えないんですけど」
わたしは、ぽつりと口を開いた。
「最近、時々……自分が自分じゃないみたいな感覚がして。
ひとりでいても、誰かにのぞかれてるような……
わたしの中に、知らない“何か”がいるみたいな……そんな、へんな感じがして」
喉が、つまる。
うまく言葉にできないのがもどかしくて、でも怖くて。
すると、天野先輩がそっと隣に立って、静かに言った。
「……小川さん。
それは、“心の奥”が、何かを思い出そうとしてるのかもしれない」
「……思い出す?」
「うん。でも、それは無理にじゃなくていいの。
ちゃんと時が満ちれば、自然と形になるから」
天野先輩の声は、風みたいだった。
やさしくて、涼しくて、でもどこか深くて――
わたしの怖がってた心を、ゆっくり包んでくれた。
「……ひとつ、渡しておきたいものがあるの」
そう言って、天野先輩がそっと手のひらを開いた。
そこにあったのは――白いレースの首輪だった。
小さな金色の鈴がひとつ、ちりんと揺れて、
やわらかに鳴る。
どこか手作りの温もりがあって、見ているだけで、
胸の奥がふっとほどけていくようだった。
「これ……あの時の猫の、首輪……ですか?」
わたしがそう聞くと、天野先輩は静かにうなずいて、
目を細める。
「……うん。大切に持ってたの。
これがあれば、きっと“怖くない”って思えると思って」
その声には、どこか――やさしい祈りのような想いが宿っていたんです。
わたしは、一瞬だけ戸惑いました。
だって、わたしは人間で……猫じゃない。
けれど――
「ふふっ……私、人間なんですけどっ。
……でも、悪いような感じはしないです。
この首輪、見てると……心が落ち着きます」
自分でも不思議だった。
ただの首輪なのに、触れているだけで呼吸が少しだけ楽になる気がして。
「お守りとして、持っておきますね」
そう言って、わたしはその首輪を両手でそっと受け取った。
天野先輩が微笑む。
「……ふふ。じゃあ、こうして――」
首輪をくるりと回して、わたしの手首に巻いてくれる。
ふわっと、やさしく結ばれた白いレースは、まるでブレスレットみたいに馴染んで……
その結び目の裏側に、何か、ほんの小さな“刺繍”のようなものが見えた気がしたけれど――
その時のわたしは、まだ知らなかった。
その小さな刺繍が、あとで意味を持つことを。
「……ありがと、ございます」
そう口にしながら、手首に触れるレースのぬくもりを、そっと胸に抱きしめた。
――それはきっと、まだ形を知らない“願い”のかけらだった。
そのとき、風がそっと吹く。
夏の匂いを乗せた柔らかくてあたたかい風。
胸のざわつきをすうっと撫で、溶かしていくようで―― わたしは、ひとつ深く息を吸った。
その様子を見ていたちー先輩が、ふわっと笑う。
「うんっ、その首輪……美咲にぴったりだよっ!
よーしっ、じゃあ次はみんなで温泉行こっか〜っ!」
ぱんっと手を鳴らして、くるりと振り返る。
「美咲ちゃんも、あったかいお湯に入ったら、モヤモヤもきっととけるよ〜っ!」
(……うん。
今は、ちょっと信じてみたい)




