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『犬神物語』 〜転生少女と不思議な絆〜  作者: 犬神 匠
第八話 渡島編 後編

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『白と黒の贈り物』39

別荘の重たいドアが、ゆっくりと音を立てて開いた。


「よいしょっ……」


玄関の段差をぴょんっと降りて、うんっと背伸び。

夏の空気が、朝日といっしょに胸いっぱいに広がってくる。


(……わあ……きもちい〜〜っ!)


後ろから、ヒカリと天音ちゃんが続いてくる。

天音ちゃんは寝ぐせがちょっと残った髪を指先でふわっと整えながら、メモ帳とエコバッグを抱えて、のんびり笑っていた。


「チハルちゃん、ええ朝やなぁ〜」


「うんっ! やっぱ朝ってだけで、元気出てくるよね〜〜っ」


湿った風が、朝の日差しをまとってふわっと吹き抜ける。

木々の間からこぼれる陽射しが道の石畳にきらきら反射して、夏らしいセミの声がジリジリと響いていた。


階段を降りきったところで、ふと後ろを振り返る。


白壁に赤瓦の屋根――玲奈先輩の別荘が、朝の光をまとって静かにたたずんでいる。

その二階、木々の間から見えるベランダが、ちらりと視界に入った。


(……なに、これ……)


胸の奥がひゅっと冷えて、視線がその場所へ吸い寄せられる。


そこで――まるで、こっちを待っていたみたいに。

……誰かが、ベランダに立っていた。


(……美咲、ちゃん……?)


別荘の二階。泊まっている部屋のベランダ。

そこにいたのは――寝間着姿の美咲ちゃんだった。


(……え、さっきまで寝てたよね……?)


ベランダの柵に手をかけたまま、じっとこちらを見下ろしている。

けれど、どこかがおかしい。


姿勢がぴたりと止まっていて、まるで時間だけが置き去りにされたみたいだった。

目元には、いつもの明るさも、感情の揺らぎもなくて――ただ無表情で、じぃっと見つめているだけ。


そして、目が――赤い。


充血じゃない。疲れ目でも、寝ぼけているわけでもない。

瞳そのものが赤く染まっているみたいで……ぞわり、と背中を冷たいものが這い上がった。


心臓が跳ねる。

逸らしたいのに、なぜか目が離せない。


美咲ちゃんの視線が、まっすぐ突き刺さってくる。

でも、それはただの“視線”じゃなかった。


胸の奥――もっとずっと奥に、大事にしまってきた“なにか”を、ぎゅっと掴まれているような感覚。

呼吸が浅くなっていく。


(……この感じ……前にも、どこかで……)


危険が近づくときの、あの空気。

匂いを、肌が先に察知している。


現実と夢のはざま――そのすき間に、見えない誰かが囁いている気がした。

「気をつけて」と。


(……いやいやっ、気のせいっ、だよね……?)


目をこすって、もう一度ベランダを見上げる。


でも――そこには誰もいなかった。

カーテンが揺れて、やわらかい朝の光がふわっと差し込んでいるだけ。


(……い、今の……なんだったんだろ)


胸に手を当てて、そっと深呼吸をひとつ。


坂道を歩き出していた天音ちゃんが、振り返って声をかけてくる。


「チハルちゃん、どしたん?」


「えっ……う、ううんっ、なんでもない〜〜〜っ!!」


慌てて追いついて、天音ちゃんの隣に並ぶ。

ヒカリはちらっとこっちを見たけど、何も言わず歩き続けていた。


(……気のせい。気のせい、だよね……?)


それでも、あの赤い目だけは、頭のどこかに残って離れてくれなかった。


***


ガララッと引き戸を開けた瞬間――ちりん、と風鈴が鳴った。

畳と古木と、どこか懐かしい夏のにおいが、ふわりと鼻先をくすぐる。

朝の光を受けて、硝子の玉がキラキラ揺れてる。


「……わあ〜、すご……っ! えっと、ここが……椿野商店、なんだよねっ?」


思わず小さな声でつぶやいちゃうくらい、店内は不思議な空気に包まれていた。

棚には古びた瓶や陶器がずらり。奥には木箱が山積み。

まるで時が止まってるみたいな静けさ――。


(……なんか、この感じ……知ってる……?)


空気の匂い。木のきしむ音。

全部が、“前にも見たことある”みたいだった。


(でも、わたし……ここ、来たことなんて……ないはずなのに……)


ごくり、と喉が鳴る。


(夢の中……?)


脳裏に浮かんだのは、優しい声で迎えてくれた白いワンピースの女の人。

ベンチにちょこんと座ってた猫と犬。


(……うそ……このお店……夢で見たのと、同じ……?)


心の奥がぞわりと揺れた。


「へえ……こんなお店、うちの近所には無かったわぁ」


天音ちゃんがふわっとした視線で店内を見渡しながら、そうつぶやく。

こくりとうなずいて、その空気を胸いっぱいに吸い込む。


木と、土と、ほんのり乾いたお線香みたいな匂い――

どこか懐かしくて、落ち着く香り。


(……これ……)


胸の奥がきゅっとなる。


(……この匂い……知ってる……?)


思い出そうとすると、ふいに遠くなる。

でも、たしかに――どこかで、こんな空気を感じたことがある。


場所だけじゃない。

光の揺れ方も、棚の木の質感も――


(……夢で見た……?)


胸の奥で何かがそっと揺れている。

記憶の奥に薄く差し込む朝の光みたいな、かすかな感覚。


(いや……でも、あれは夢だったはずで……っ)


ごまかすように、もう一度深呼吸。

でも――心の奥のざわめきだけは消えてくれなかった。


(あ……)


レジの奥から顔を出したのは、白い割烹着姿の女性だった。

柔らかな白髪まじりの髪と、笑ったときに細くなる優しい目元――すぐにわかった。


「……っ、あのときの……!」


思わず声が出た。

臨海学習のとき、浜辺でゴミ拾いしてるあたしたちに昔の話を聞かせてくれた――語り部のおばあさん。


「ふふ。覚えとってくれたんやねぇ。浜の風、今日はちょっと違う気がしたけん、待っとったんよ」


「えへへっ、うんっ! まさか、こんなところでまた会えるなんてっ」


はるさんはにっこり笑って、手に持ってた荷物をカウンターに置くと、くるっと店内の方を向いた。


「うちはな、昔から、ここでちょこちょこ商いしてるんよ。ちょっとした食材と、漬物とかお惣菜とか――それから、うちのばあちゃんの頃からある古もんも混じっとるけどね」


そう言いながら、はるさんは棚に並んだ品をひとつひとつ指さしていく。

味噌、手作りの干物、炭酸せんべい、瓶詰めの梅干し……。

懐かしさを通り越して、まるで夢の中に迷い込んだみたいだった。


ほこりひとつない丁寧な並びの奥――

ふと、視線がレジカウンターの上へ吸い寄せられる。

……そのとき、ぴたりと止まった。


レジカウンターの片隅に、ひとつだけ置かれている。

色あせた、白黒の写真立て。


なぜだろう。気づけば手が伸びていた。

触れた瞬間、心臓が――どくん、と跳ねる。


(え……? これ……)


写っていたのは、椿野商店の前。

あの木のベンチに並んで座る数人と――その足元で寄り添う、小さな柴犬。


(……見たこと、ある……!)


夢の中で見た光景と、まったく同じだった。

白いワンピースの女性が座っていて、その膝には白猫がちょこんと丸まっていて。

足元には、雑種の柴犬が静かに身を寄せていた。


でも――写真の中の“そこにいるはずの人”だけが、きれいに抜け落ちていた。


膝の上の白猫は、姿勢を崩すこともなく、ぴたりと座っている。

けれどその下には、もう“膝”なんて、どこにもない。


「……え……?」


思わず声が消えて、目をこらす。


柴犬のチップは、まるで誰かの足元にぴったり寄り添っているのに――

そこに“その人”の姿だけが、ない。


(……陽花里さん……?)


「……おかしい……これ、ぜったい……」


夢で見た情景が、頭の中で何度も繰り返される。

チップのぬくもり。白猫のみぃちゃんが、彼女に甘える仕草――

そのすべてが、写真の中に“あるはず”なのに。

なのに――


「……うわっ……」


となりで、天音ちゃんが息をのんだ。


「なあ、チハルちゃん……これ……おかしいで……」


「……え?」


「誰もおらんのに、白猫……宙に浮いとるんや……。なぁ、見てみぃ……っ」


「……っ!」


その言葉で、背中がぞわっとした。

確かに――みぃちゃんの小さな足は、何にも触れてない。

支えもないのに、そこに“座ってる”ように見える。


(夢じゃ、なかったの……?)


現実と記憶が、頭の中でぐるぐるかき混ぜられる。


(あの夢で見た光景が……いま、ここに……っ)


「でも……じゃあ、あれって……本当に……あったこと……なの……?」


震えるみたいに、口の中でつぶやいた。


(おかしい……わたし、ちゃんと覚えてるのに……!)


なのに、“その人のこと”を言おうとするたび、

頭の中がぐにゃりと歪んでいく。


心の奥で――あの懐かしい声が、静かに響いた。


――言葉にするな。今はまだ、その時ではない。


声音は低く、静かで、

深い森の奥に響くような神聖さをまとっていた。


――汝が夢にて触れし記憶。

忘却の霧に包まれし“存在”の名は、いま語るべきものにあらず。


(……シロ……)


自然と、その名前が心に浮かんだ。


何度も夢の中で支えてくれた。

迷いの中で寄り添い、励ましてくれた。

そして現実でも――“わたしを信じてくれる、たったひとりの神さま”。


忘れるわけがない。


(ねえ、シロ……)


心の中で問いかけてみる。


(わたし、間違ってないよね……?

 この写真のこと……この記憶のこと……)


けれど――返事はなかった。


静かな店内に、風鈴の音だけがかすかに揺れていた。


その隣で――

ヒカリは写真をじっと見つめながら、ふっとやわらかく微笑んでいた。


とても静かで、どこかあたたかくて――

まるで“懐かしいもの”を、そっと思い出すみたいな笑顔。


……どうしてだろう。


その笑顔を見た瞬間、胸の奥がきゅうっと締めつけられた。


(あの夢の中の……)


そう思いかけたときだった。


「……あれ、青汁……?」


ヒカリの声が、ふいに耳に届く。

視線を向けると、カウンターの奥に並んだ小さな瓶のひとつを指さしていた。

ラベルには『渡島産ケール100%』。緑がかった濃い液体が透けて見える、ちょっと古めかしいガラス瓶。


「ふふ……見つけたのね。昔からの、うちの名物なのよ」


はるさんがほほえみながら棚から瓶を取り、手のひらで大事そうに包み込むように差し出した。


「ちょっと苦いけれど……身体には、とてもいいの。よかったら、どうぞ」


ヒカリはどこか懐かしそうに瓶を見つめ、胸ポケットから小さな財布を取り出す。


「……これ、ひとつお願いします」


「ふふ、あなたみたいな若い子が青汁好きだなんて……なんだか嬉しいわ」


やわらかく笑いながらお金を受け取り、瓶をそっと手元へ差し出す。

その所作には不思議なあたたかさが宿っていて――まるで、大切な記憶を託すみたいだった。


ヒカリは瓶を受け取りながら、静かに「……いただきます」と呟いた。


その仕草が、“誰かとの約束”をなぞっているように見えて、胸の奥がまたぎゅうっと締めつけられる。


(……この場面、知ってる……)


「さあて、今日のは特に青くて苦いよ? 覚悟して飲みなさいな」


はるさんがくすっと笑うと、ヒカリはほんの少しだけ顔をしかめて――それから、ちょこんと腰を浮かせた。

キャップをきゅっとひねって開け、そのまま瓶に口をつける。


ぐいっ。


ごくっ、ごくっ、ごくっ、ごくっ、ごくっ……!


途中で止まることなく、勢いよく――最後の一滴まで、一気に。


「……ううっ……」


飲み干した直後、瓶を棚の端にそっと置いて、ふっと息を吐く。

それから顔を上げて――


「……ん〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ……っ!!」


目をぎゅっとつむり、首をぶんぶん左右に振ったあと。

くるっと顔を上げて、舞台役者みたいに声を張った。


「まっず〜〜〜いっ!!」


そして、にかっと笑って、


「……も、もういっぱ〜〜〜いっ!!」


「…………」


店内が、一瞬しん……と静まった。


「……ヒカリちゃん、キャラ変わったんか……?」


天音ちゃんがぽつりと突っ込む。


ただ呆然と、その様子を見つめていた。


(今の……今のって……)


胸の奥が、じんわり熱くなる。

目の前で、夢の中とまったく同じ言葉としぐさが――いま、現実で起きてる。


(やっぱり……間違いない……!)


まるで、時を越えてつながっていた記憶が、

この場所で、そっとほどけていくみたいに――。


ヒカリは静かに目を伏せ、飲み終えた瓶を棚の隅に置くと、

そのまま、ゆっくりこちらを振り返った。


そして、ほんのすこしだけ――あたたかく微笑む。


その笑顔は、“大丈夫”って語りかけてくるようで、

どこか遠い記憶の中でも、見たことがある気がした。


……ふと、ヒカリの視線が店の奥へと向けられる。


飾り棚の一角。

ちいさな箱の上に、大切そうに置かれた白い首輪があった。

淡いレースに金色のちいさな鈴――猫のために作られた、やさしい贈り物みたいで。


引き寄せられるように、ヒカリがそっと歩を進める。

指先で首輪にふれ、手の中に抱くように持ち上げた。


言葉はない。

けれど、その仕草のひとつひとつが、大切なものを思い出そうとしているみたいで――


(……ヒカリ、それ……)


まさか――夢の中で見た、みぃちゃんの首元にあった、あの首輪……?


「それ……ね」


はるさんが、ぽつりと声を落とした。


「昔ね、ある人が、大事な猫のために作った首輪なのよ。

とっても一生懸命でね、小さな手で、一針ずつ……。

少し不器用だったけど、それでも――すごく愛情のこもった、あったかい首輪だったわ」


どこか遠い記憶の底から、やっと掬い上げたみたいな声。

やさしくて、あたたかくて――


「なのにね……不思議と、その人の顔も、名前も思い出せないの。

でもね、心の中にだけは、どうしても消えないぬくもりが残ってて……

今でも、ときどき夢に見るのよ。

その子が、この首輪を持って、うれしそうに笑ってる姿を」


ヒカリはそっと目を伏せ、手の中の首輪を見つめていた。

その瞳がほんのすこし揺れているのに、気づく。


「だから、ずっと迷ってたのよ。

これ、どうしたらいいんだろうって……。

でもね、今日、あなたたちに出会って――なんとなく、思い出したの」


はるさんはヒカリに向けて、そっと首輪を差し出す。


「きっと、その人が言ってた気がするの。

“この首輪、欲しいと思った人に渡してあげて”って……

夢だったのか、本当だったのか、もうわからないけれど」


ヒカリは、その言葉を受け取るように、

静かに首輪を両手で受け取った。


そして――ほんの少しだけ、頭を下げる。

その仕草はとても丁寧で、どこか懐かしさに満ちていた。


ただ、そのやりとりを見つめながら――

胸の奥があたたかくなるのを感じていた。


(……よかったね、みぃちゃん……)


遠い時間の記憶と記憶が、

この店の静けさの中で、そっと結ばれていくようで――


にじんだ光が、目の奥でやさしく揺れていた。


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