プロローグ2
もう十五分は歩いただろうか。身体からはどくどくと滝のように汗が流れてくる。
中学生の時に使っていた自転車は、錆びついてタイヤもぺちゃんこに潰れていた。
移動手段は徒歩しかなかった。
家を出る前、シャワーを浴びたにも関わらず、もうすでに身体はべたべたである。
たまにバリカンで刈っているだけなので、ぼさぼさでだらしのない髪の毛を気にしながら、俊郎はゆっさゆっさと体躯を揺らしながら進む。
「くそ、こんなに暑いのか。暑さで死んじまう」
蝉がせわしなく鳴いている。今は初夏である。
俊郎は人に聞こえない程度の小声で文句を言う。
一日中クーラーの冷気で満たされた部屋にいるせいもあり、三十度を超える東京の外気は、俊郎の少ない体力をこれでもかというほど奪った。
燦々と照りつける太陽によって温められたアスファルトの熱が、地面を蹴る足の裏から伝わってくる。
すれ違うスーツ姿の人や、主婦の視線も気になるが、空腹とだるさでそれどころではなかった。
まだ一番近くのコンビニまでは、二キロメートルほどあるだろうか。
俊郎はこんなに苦しい思いをするなら、いっそ冷蔵庫にあったであろうキャベツでもかじっていれば良かったと後悔した。
五年ぶりに他人のいる場所に出るのだ、相当な葛藤はあった。玄関に座り込んで、ああでもないこうでもないと数時間は留まっていただろう。
醜悪になった己の姿を、風呂場の鏡で何度も眺めては自己嫌悪に陥った。
家族でさえ面と向かって話すこともないのだ、知らない人々で溢れる外の世界が怖くて仕方がなかった。
それに中学の頃の同級生たちと出会う可能性も、俊郎を尻込みさせた。
しかし、五年という長い時間と、背と腹がくっつきそうな酷い空腹が俊郎の背中を押したのだった。
俊郎は目的地に近づくとともに、次第に人通りが多くなっていくのを感じていた。
それとともに彼らの視線を、奇異の目に晒されていると思って足が止まった。
道を行くすべての人が、自分を見て馬鹿にしていると思えた。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
息が詰まる。さっきまであんなに熱を発していた全身から、さーっと血の気が引いていくのを感じた。
視界がぐるぐると回る中、俊郎は膝に手をついた。
「あの、大丈夫ですか?」
少し高い女性の声だ。
女性は見た目二十代後半だろうか、半袖のブラウスにネイビーのスカート姿の彼女は、俊郎の前に回り込むとその顔を覗き込むようにして声をかけた。
俊郎は驚いた。赤の他人と会話したのなんていつぶりだろうか、何て答えればいいのか分からない。
それに己と動揺とともに、気分の悪さもどんどん加速していくのを感じた。
「あ、あ、あの、だ、だいじょぶ、ですから…」
ふり絞った声は、脂肪で圧迫され縮まった喉を通過して相手に伝わったか定かでない。
そして、何か悍ましいものが胃の奥底から込み上げてくる。
「え?とりあえず、木陰で休みましょう。すごく顔色が悪そうですから」
女性は俊郎の声が聞こえていなかったのか、そう言って俊郎の手を引こうとした。
「や、やめ、やばい、で、でる。ヴぇええ」
俊郎は嘔吐した。綺麗に舗装された真っ白な歩道に、俊郎が昨日の深夜に食したと思われるカップラーメンの成れの果てがぶち撒かれた。
周囲からは手を引いたのとは違う女性からだろうか、悲鳴のようなものが聞こえる。
「ご、ごめんなさい。その吐きそうだったとは分からなくて…あ、待って!」
そうすまなそうにしている女性の脇を、俊郎は必死に駆け抜けた。
一時その場は騒然となったが、俊郎が見えなくなると周囲にいた人はまた何事もなかったかのように歩き出した。
そう、人々には、ただ変な人がいたというそれだけの出来事でしかなかった。




