消失
「うぅ、最悪だ、最悪だ…」
薄暗い人気のない路地裏に男はいた。
彼は口から汚物を垂れ流しながら、蹲って一人泣いていた。
瞼を腫らしながら、その小ぶりな目からは大粒の涙が溢れてくる。
もう二十歳、成人である。こんな歳になって人前でありえない醜態を晒し、コンビニ一つ満足に行くことができないなんて。
情けなくて悔しくて、これまで抑えてきたものが一気に決壊したように、彼はおめおめと泣いた。
赤子のように大声で泣き叫ばなかっただけましであった。
さっきまでの気分の悪さは、吐いたおかげかいくらか落ち着いた。しかし気持ちは最悪だ。 俊郎は先ほどの失態を何度も思い出すと、自分の吐しゃ物で汚れた顔を青くさせた。
落ち込んでも仕方がないことは分かっている。それに今さら失うものなんて何もないのだ。
ニートで引きこもり、友人と呼べるものもおらず、家族とさえ会話がない。
だが俊郎には気持ちを切り替える術がなかった。いや、術を忘れたと言った方が正しいかもしれない。
中学の頃は学校を休むまで、罵倒されても、暴力を振るわれても、何とか己を保つことができていた。
だがそれも、引きこもるようになってからは必要なくなった。
自尊心を守ることも、気持ちを切り替えて自分を奮い立たせることも、パタリとなくなった。
しかし嫌なことはなくなるわけではない。家族とのことで苛々することもあるし、ネットゲーム上でフレンドと上手くいかず、モニターに向かって罵声を浴びせることもある。
そんなときはぼーっとしたり、アニメや漫画を見たり、延々とゲームをしたりするのだ。
時間が解決してくれる、それが唯一この数年間で得た教訓であった。
「帰るか…」
彼はひとしきり泣いたあと、ぽつりと呟いた。そう、帰ってゲームでもしながら母親を待とうと思った。
腹は減るが、白色の無地のTシャツとくたくたになったジーンズは汚物まみれで、決して白昼堂々と店に入れる恰好ではなかった。
そうでなくても俊郎の脳は、これ以上外にいることに対して警鐘を鳴らしていた。
こんな怖い場所からは早く逃げ出したい、それが俊郎の思いのすべてであった。
俊郎は人二人が通れるくらいの路地裏をとぼとぼと歩き出した。しかしすぐにその歩みは止まった。
「帰り道が分からない…」
こんな裏通り、中学時代も通ったことがなかった。それにその頃から五年もすれば東京の都会だ、知らない建物もかなり増えた。大きな通りに出れば分かるのだろうが、この見た目では無理であろう。
俊郎は途方に暮れながらも、大体の家の方角を頼りに歩き始めた。
ぐるぐると音を立てる腹を擦りながら、俊郎は二十分ほど暗くじめじめとした路地裏を覚束ない足取りとともに進んだが、一向にして自宅にたどり着く気配がない。
普段歩かないせいか、かかとは靴擦れで皮が剥け、ちくちくと痛んだ。両足は筋肉痛で徐々に歩くペースは落ちた。
「はぁ、腹減ったし、疲れたし、もう大通りへの道も分からないし」
俊郎は大きく息を吐きだすとともに、今日何回目だろうか膝に手をついた。
そして右手にあるものが触れてハッとした。
何故気付くことができなかったのだろうと、目前に持ってきたスマートフォンを見やるとまた、深く息を吐いたのだった。
彼はその薄型の電子機器をささっと操作すると、元々インストールされていた地図アプリを起動させた。
地図アプリによると、どうやら彼は裏通りを歩いているうちに自宅を通り過ぎていたようだった。
家までの距離はおよそ一キロメートル。普通に歩けば十五分もあれば帰宅できる範囲である。
それが分かると俊郎は安心したのか、肉の重りのついた手足は心なしか軽くなった気がした。
心が落ち着くと視界も開けて周りの情報が入ってくる。
五、六階建てのビルが建ち並ぶ建物と建物の間、狭い路地裏。
いくつかのビルの換気扇からは、食堂でもやっているのだろう、いかにも日本食という感じの和風な出汁の香りやカレーの食欲のそそる匂いがした。
俊郎はそれらの誘惑に負けそうになりながらも、言うことの聞かない脚を引きずりながら歯を食いしばっって家を目指した。
そんな体力と精神の限界の中で『それは』起こった。
連なるビル群が太陽を遮り、薄暗い路地裏の、それも俊郎の今踏み出そうとした地面は激しい光を発した。
その眩い白色光は、暗がりに慣れてしまっていた俊郎の目を焼いた。
「ひぃ!なんだ!?」
俊郎の視界は一瞬にして真っ白になり、数秒かけて徐々に色を取り戻し始める。
驚いて尻餅をついた俊郎の周りを囲うように、円盤状に地面が発光している。
いや、よく見ると光は線であり、文字であった。
その文字のように見える光の粒が、円の中心から外側に向かって、所狭しと敷き詰められている。
「こ、これは…、ま、魔法陣?」
俊郎は腫れて重たくなった瞼を精一杯持ち上げ、大きく目を見開きながらその光景を凝視していた。
漢字でも仮名文字でも英字でもない光の文字は、二次元から三次元へと変形していく。
まるで俊郎を包み込むように移動し始めた頃には、俊郎の感情は驚きから恐怖へと変わっていく。
「く、来るなぁあ!ひぃいい!」
まるで自分を一飲みに食らおうかというような光の粒子、それを両目は捉えているのに、手も足もまるで自分のものでないかのように言うことを聞かない。
口をパクパクとさせ、半べそをかいて涎を垂らし、必死に助けを祈っても、光は動くのをやめない。一つ一つの粒子が機械的にあるべき姿へと導かれているようだ。
それから、ことは一瞬で起こった。
象形文字のようにも見える光の文字達が、俊郎を球体状に覆ったそのときだった。
プツンと通信が途絶えるような尻すぼみな音を立てて俊郎の巨体は消えた。
七月の初めの東京の一角、じめじめと湿気の酷いビルの路地裏に、雑然と置かれた汚れた大柄な男物の衣服と財布、そしてスマートフォン。
それらが日本料理店を経営する三十過ぎの男性に発見されるのは、それから一か月もあとのことであった。




