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神様は見ている  作者: ももらら
傷ついた2人

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9/57

微妙な変化

少しずつノアが気になり始めるエリン。周囲も気づいています。

 4月を迎え、暖かさを感じることが多くなった。川のほとりでは長い冬の間、葉を落としていた木々が芽吹き始めていた。メインストリートの花壇には色とりどりの花が植えられ、古い映画館の前には、どこから飛んできたのか、黄色いタンポポが一輪咲いていた。エリン・ウォーカーがこの町に来て、5ヶ月が過ぎようとしていた。

 彼女の生活は、少しずつ落ち着きを取り戻していた。朝は7時前に起きる。簡単な朝食を摂り、車で病院へ向かう。仕事が終われば、スーパーに立ち寄ったり、ミラー夫妻の雑貨店に顔を出したりする。ときには、エミリーと夕食を楽しむこともあった。

 休日には、町外れの公園を散歩するようになった。以前なら、人の少ない場所を1人で歩くことなど考えられなかった。もちろん、今でも怖くなることはある。知らない男が近づいてくると、身構えてしまう。夜中に車の音が聞こえると、窓の外を確かめずにはいられない。玄関の鍵も、相変わらず何度も確認していた。それでも以前より、眠れる夜が増えていた。


 ある日の午後。エリンは病棟の廊下で、ノア・ベネットが1人の少年と話しているところに出くわした。少年は10歳くらいだった。名前はトミー・クラーク。数週間前、交通事故で脚を骨折し、手術を受けていた。

「だから、やりたくないって言ってるだろ!」

トミーは怒ったように言った。

「もう、歩く練習なんかしない!」

ノアは少年の前にしゃがんだ。

「そうか」

「そうだよ!」

「何か、嫌なことがあった?」

トミーは唇を噛んだ。

「別に……」

「そう」

 ノアはそれ以上訊かず、少年の隣に腰を下ろす。やがてトミーがぽつりと言った。

「友達がさ……昨日、来たんだ」

「そうだったね」

「みんなサッカーの話ばっかりしてた。来月試合があるんだって」

 トミーが俯いた。

「僕だけ、出られない」

 ノアは黙っていた。

「みんな、僕がいなくても平気なんだ」

 少年の声が震えた。ノアは、しばらく何も言わなかったが、やがて静かに口を開いた。

「友達が、昨日来てくれたんだよね」

「うん」

「どうしてだと思う?」

 トミーは顔を上げた。

「わかんない」

「トミーに会いたかったからじゃないかな」

 少年は黙った。

「サッカーができなくても、トミーはトミーだよ」

 ノアは微笑んだ。

「友達にとって、大切なトミーであることは変わらないと思う」

 トミーは目を伏せた。

「でも……やっぱり悔しいよ」

 ノアは頷いた。

「すごく、悔しい」

 少年の目から涙がこぼれた。ノアは、そっとティッシュを差し出した。

「そうだよね。悔しいよね」

トミーは頷いた。

「その気持ちは、大事にしていいんだよ」

「いいの?」

「もちろん」

 ノアは微笑んだ。

「悔しいって思うのは、それだけサッカーが好きだからだろう? そして練習を頑張っていたからだよね?」

 トミーは涙を拭いた。

「うん」

「じゃあ、その気持ちも一緒に、少しずつ歩く練習をしていこうか。大好きなサッカーをまたやらなきゃ」

少年はしばらく考えて小さく頷いた。

「わかった」

 ノアが優しく微笑む。エリンは、少し離れたところから、その様子を見ていた。

 ノアは、子供に対しても決して急がなかった。励ますことより、まず気持ちを受け止めることを大切にしている。

 エリンは思った。

「この人、どうしてこんなに優しくできるんだろう?」

 その疑問は、以前から胸の中にあった。しかし最近は少し違っていた。疑問に思うだけではなく、理由が知りたいと思うようになっていた。

 ノアが、どんな人生を歩んできたのか。何を大切にしているのか。何を悲しいと思い、何を嬉しいと思うのか。そうしたことを、少しずつ知りたくなっていた。


 その日の夕方。エリンはナースステーションで書類を整理していたとき、背後から声がした。

「ウォーカーさん」

 振り返ると、ノアが立っていた。

「ベネットさん」

「少しよろしいでしょうか」

「はい」

 ノアが書類を差し出した。

「トミーの訓練計画について、変更がありまして」

 エリンは書類に目を通した。

「今日は、少し気持ちが落ち込んでいるようでしたので」

「ええ。お話しされているところを見かけました」

 エリンは書類を返した。

「ベネットさん」

「はい」

「いつも、患者さんの気持ちをよく考えていらっしゃいますね」

「そうでしょうか?」

「ええ」

 エリンは微笑んだ。

「私も、見習わなくちゃと思います」

 ノアは首を横に振りながら答えた。

「ウォーカーさんこそ、いつも丁寧に接していらっしゃいます。僕はウォーカーさんの患者さんへの接し方を、尊敬しています」

 エリンは言葉に詰まった。

「尊敬……ですか?」

「はい」

 ノアは微笑んだ。

「患者さんの小さな変化によく気づかれますし、話を最後まで聞いていらっしゃいますから」

 エリンは、少し照れくさくなった。

「ありがとうございます……」

 そしてノアは軽く頭を下げた。

「それでは、失礼します」

「お疲れさまです」

 ノアが去ったあと、エリンはしばらく書類を見つめていた。

「尊敬しています」

 その言葉が、胸の中に残っていた。以前の職場では、仕事を褒められることはあった。だが誰かから「尊敬している」と言われたことはなかった。少しくすぐったい気持ちになって、エリンは小さく微笑んだ。


 5月。町では、春の小さな祭りが開かれることになった。メインストリートに屋台が並び、地元の学校の吹奏楽部が演奏し、広場では子供たちのゲーム大会が行われる。病院も、健康相談のブースを出すことになった。エリンはエミリーと一緒に、当日の準備をしていた。

「血圧計、これで足りるかしら」

 エミリーが言った。

「予備も持っていったほうがいいと思う」

「そうね」

 エリンが備品のリストを確認しているとき、スーザンが声をかけた。

「エリン、ちょっといいかしら?」

「はい」

「当日、ベネットさんも手伝ってくれることになったから」

 エリンは顔を上げた。

「そうなんですか?」

「ええ。簡単な運動指導をしてもらう予定なの」

「そうなんですね」

 自然と笑顔になるエリン。その様子を見ていたエミリーがにやりと笑った。

「よかったわね」

エリンは眉をひそめた。

「何が?」

「ノアも来るんでしょう?」

「そうね。仕事だから」

「その割には嬉しそうじゃなぁい?」

 エミリーは意味ありげに口にする。

 エリンはため息をついた。

「あなた、何が言いたいの?」

「別に?」

 エミリーは笑った。

「ただあなたたち、最近よく話してるなと思って」

 エリンは少し考えた。

「仕事で接する機会が多いからよ」

「そうね。そういうことにしておきましょ」

 エミリーは、それ以上何も言わなかったが、その笑顔には何かを見透かしているようなところがあった。


 祭りの日は快晴だった。メインストリートには色とりどりの旗が飾られ、広場には多くの人が集まっていた。

 焼きとうもろこしの匂い。甘い綿菓子の匂い。子供たちの笑い声。

 エリンは、病院のブースで血圧測定を担当していた。ノアは少し離れたところで、高齢者向けの簡単な体操を指導していた。

「はい。ではゆっくり腕を上げましょう。無理のない範囲で結構です」

 参加者たちは、ノアの動きに合わせて腕を上げた。その中には、ミラー夫妻の姿もあった。

「ウォルター、もっと上げなさいよ!」

 マーサが言った。

「上げてるだろ!」

「全然上がってないじゃない!」

「お前こそ、肩が固いぞ!」

 ノアが笑った。

「くれぐれも無理はしないでくださいね!」

 エリンも、少し離れたところで笑っていた。

 体操が終わると、マーサがエリンのところへやって来た。

「あら、エリン!」

「こんにちは」

「今日は忙しそうね」

「ええ。でも、楽しいです」

 マーサは満足そうに頷いた。

「そう。よかったわ」

 そして、少し声を潜めた。

「ねえ、ノアなんだけど」

「はい?」

 マーサは少し溜めてから言葉を発する。

「本当にいい人よねえ」

 エリンは微笑んだ。

「そうですね」

 マーサは目を細めた。

「ふうん」

 エリンは嫌な予感がした。

「何ですか?」

「何でもないわよ」

 マーサは笑った。

「ただ、ああいう人が側にいると、安心でしょうね」

 エリンは少し考えてから、静かに答えた。

「そうですね……」

 マーサは、それ以上何も言わなかった。

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