微妙な変化
少しずつノアが気になり始めるエリン。周囲も気づいています。
4月を迎え、暖かさを感じることが多くなった。川のほとりでは長い冬の間、葉を落としていた木々が芽吹き始めていた。メインストリートの花壇には色とりどりの花が植えられ、古い映画館の前には、どこから飛んできたのか、黄色いタンポポが一輪咲いていた。エリン・ウォーカーがこの町に来て、5ヶ月が過ぎようとしていた。
彼女の生活は、少しずつ落ち着きを取り戻していた。朝は7時前に起きる。簡単な朝食を摂り、車で病院へ向かう。仕事が終われば、スーパーに立ち寄ったり、ミラー夫妻の雑貨店に顔を出したりする。ときには、エミリーと夕食を楽しむこともあった。
休日には、町外れの公園を散歩するようになった。以前なら、人の少ない場所を1人で歩くことなど考えられなかった。もちろん、今でも怖くなることはある。知らない男が近づいてくると、身構えてしまう。夜中に車の音が聞こえると、窓の外を確かめずにはいられない。玄関の鍵も、相変わらず何度も確認していた。それでも以前より、眠れる夜が増えていた。
ある日の午後。エリンは病棟の廊下で、ノア・ベネットが1人の少年と話しているところに出くわした。少年は10歳くらいだった。名前はトミー・クラーク。数週間前、交通事故で脚を骨折し、手術を受けていた。
「だから、やりたくないって言ってるだろ!」
トミーは怒ったように言った。
「もう、歩く練習なんかしない!」
ノアは少年の前にしゃがんだ。
「そうか」
「そうだよ!」
「何か、嫌なことがあった?」
トミーは唇を噛んだ。
「別に……」
「そう」
ノアはそれ以上訊かず、少年の隣に腰を下ろす。やがてトミーがぽつりと言った。
「友達がさ……昨日、来たんだ」
「そうだったね」
「みんなサッカーの話ばっかりしてた。来月試合があるんだって」
トミーが俯いた。
「僕だけ、出られない」
ノアは黙っていた。
「みんな、僕がいなくても平気なんだ」
少年の声が震えた。ノアは、しばらく何も言わなかったが、やがて静かに口を開いた。
「友達が、昨日来てくれたんだよね」
「うん」
「どうしてだと思う?」
トミーは顔を上げた。
「わかんない」
「トミーに会いたかったからじゃないかな」
少年は黙った。
「サッカーができなくても、トミーはトミーだよ」
ノアは微笑んだ。
「友達にとって、大切なトミーであることは変わらないと思う」
トミーは目を伏せた。
「でも……やっぱり悔しいよ」
ノアは頷いた。
「すごく、悔しい」
少年の目から涙がこぼれた。ノアは、そっとティッシュを差し出した。
「そうだよね。悔しいよね」
トミーは頷いた。
「その気持ちは、大事にしていいんだよ」
「いいの?」
「もちろん」
ノアは微笑んだ。
「悔しいって思うのは、それだけサッカーが好きだからだろう? そして練習を頑張っていたからだよね?」
トミーは涙を拭いた。
「うん」
「じゃあ、その気持ちも一緒に、少しずつ歩く練習をしていこうか。大好きなサッカーをまたやらなきゃ」
少年はしばらく考えて小さく頷いた。
「わかった」
ノアが優しく微笑む。エリンは、少し離れたところから、その様子を見ていた。
ノアは、子供に対しても決して急がなかった。励ますことより、まず気持ちを受け止めることを大切にしている。
エリンは思った。
「この人、どうしてこんなに優しくできるんだろう?」
その疑問は、以前から胸の中にあった。しかし最近は少し違っていた。疑問に思うだけではなく、理由が知りたいと思うようになっていた。
ノアが、どんな人生を歩んできたのか。何を大切にしているのか。何を悲しいと思い、何を嬉しいと思うのか。そうしたことを、少しずつ知りたくなっていた。
その日の夕方。エリンはナースステーションで書類を整理していたとき、背後から声がした。
「ウォーカーさん」
振り返ると、ノアが立っていた。
「ベネットさん」
「少しよろしいでしょうか」
「はい」
ノアが書類を差し出した。
「トミーの訓練計画について、変更がありまして」
エリンは書類に目を通した。
「今日は、少し気持ちが落ち込んでいるようでしたので」
「ええ。お話しされているところを見かけました」
エリンは書類を返した。
「ベネットさん」
「はい」
「いつも、患者さんの気持ちをよく考えていらっしゃいますね」
「そうでしょうか?」
「ええ」
エリンは微笑んだ。
「私も、見習わなくちゃと思います」
ノアは首を横に振りながら答えた。
「ウォーカーさんこそ、いつも丁寧に接していらっしゃいます。僕はウォーカーさんの患者さんへの接し方を、尊敬しています」
エリンは言葉に詰まった。
「尊敬……ですか?」
「はい」
ノアは微笑んだ。
「患者さんの小さな変化によく気づかれますし、話を最後まで聞いていらっしゃいますから」
エリンは、少し照れくさくなった。
「ありがとうございます……」
そしてノアは軽く頭を下げた。
「それでは、失礼します」
「お疲れさまです」
ノアが去ったあと、エリンはしばらく書類を見つめていた。
「尊敬しています」
その言葉が、胸の中に残っていた。以前の職場では、仕事を褒められることはあった。だが誰かから「尊敬している」と言われたことはなかった。少しくすぐったい気持ちになって、エリンは小さく微笑んだ。
5月。町では、春の小さな祭りが開かれることになった。メインストリートに屋台が並び、地元の学校の吹奏楽部が演奏し、広場では子供たちのゲーム大会が行われる。病院も、健康相談のブースを出すことになった。エリンはエミリーと一緒に、当日の準備をしていた。
「血圧計、これで足りるかしら」
エミリーが言った。
「予備も持っていったほうがいいと思う」
「そうね」
エリンが備品のリストを確認しているとき、スーザンが声をかけた。
「エリン、ちょっといいかしら?」
「はい」
「当日、ベネットさんも手伝ってくれることになったから」
エリンは顔を上げた。
「そうなんですか?」
「ええ。簡単な運動指導をしてもらう予定なの」
「そうなんですね」
自然と笑顔になるエリン。その様子を見ていたエミリーがにやりと笑った。
「よかったわね」
エリンは眉をひそめた。
「何が?」
「ノアも来るんでしょう?」
「そうね。仕事だから」
「その割には嬉しそうじゃなぁい?」
エミリーは意味ありげに口にする。
エリンはため息をついた。
「あなた、何が言いたいの?」
「別に?」
エミリーは笑った。
「ただあなたたち、最近よく話してるなと思って」
エリンは少し考えた。
「仕事で接する機会が多いからよ」
「そうね。そういうことにしておきましょ」
エミリーは、それ以上何も言わなかったが、その笑顔には何かを見透かしているようなところがあった。
祭りの日は快晴だった。メインストリートには色とりどりの旗が飾られ、広場には多くの人が集まっていた。
焼きとうもろこしの匂い。甘い綿菓子の匂い。子供たちの笑い声。
エリンは、病院のブースで血圧測定を担当していた。ノアは少し離れたところで、高齢者向けの簡単な体操を指導していた。
「はい。ではゆっくり腕を上げましょう。無理のない範囲で結構です」
参加者たちは、ノアの動きに合わせて腕を上げた。その中には、ミラー夫妻の姿もあった。
「ウォルター、もっと上げなさいよ!」
マーサが言った。
「上げてるだろ!」
「全然上がってないじゃない!」
「お前こそ、肩が固いぞ!」
ノアが笑った。
「くれぐれも無理はしないでくださいね!」
エリンも、少し離れたところで笑っていた。
体操が終わると、マーサがエリンのところへやって来た。
「あら、エリン!」
「こんにちは」
「今日は忙しそうね」
「ええ。でも、楽しいです」
マーサは満足そうに頷いた。
「そう。よかったわ」
そして、少し声を潜めた。
「ねえ、ノアなんだけど」
「はい?」
マーサは少し溜めてから言葉を発する。
「本当にいい人よねえ」
エリンは微笑んだ。
「そうですね」
マーサは目を細めた。
「ふうん」
エリンは嫌な予感がした。
「何ですか?」
「何でもないわよ」
マーサは笑った。
「ただ、ああいう人が側にいると、安心でしょうね」
エリンは少し考えてから、静かに答えた。
「そうですね……」
マーサは、それ以上何も言わなかった。
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