萌芽
ほんの少しだけお互いを意識し始める2人です。
3月になり町の雪が少しずつ溶け始めた。エリンが病院に勤め始めて、4ヶ月ほどが過ぎていた。
ある日の夕方、エリンはミラー夫妻の店に立ち寄った。マーサがレジの奥から顔を出した。
「あら、エリン!」
「こんばんは」
「今日は遅かったのね」
「少し仕事が長引いて」
「そう。お疲れさま」
マーサは棚から缶詰を取り出した。
「これ、安くなってるわよ」
「ありがとうございます」
エリンが笑って缶を受け取ったそのとき、店のドアが開いた。
「こんばんは」
ノアだった。
マーサが嬉しそうに声を上げた。
「あら、ノアじゃない!」
「こんばんは」
「ちょうどいいところに来たわ」
ノアは少し警戒したように微笑んだ。
「何かありましたか?」
マーサは大きな箱を指した。
「これ、奥の倉庫まで運んでもらえる?」
ウォルターが奥から顔を出した。
「おい、そいつは俺が運ぶ。お客さんに頼むな」
「でもあなたは腰が痛いんでしょう?」
「今日は痛くねえよ」
「昨日、痛いって言ってたじゃない」
「昨日は昨日だ」
ノアは笑った。
「僕でよければ、運びますよ」
マーサは満足そうに頷いた。
「ありがとう!」
エリンは思わず口にする。
「やっぱり、断らないんですね」
ノアは困ったように笑った。
「そうですね」
エリンも笑った。
買い物を終えたあと、エリンとノアは店の外に出た。夕暮れの空は、淡い紫色に染まっていた。
「ウォーカーさん」
ノアが声をかけた。
「はい」
「今日は、お仕事が大変だったんですか?」
エリンは少し驚いた。
「どうしてですか?」
「少しお疲れのように見えるので」
エリンは微笑んだ。
「そうですね。今日は少し忙しかったです」
「無理をなさらないでくださいね」
「ありがとうございます」
お礼を言いながらエリンは言葉を返した。
「ベネットさんも」
ノアは顔を上げた。
「僕も?」
「ええ」
エリンが微笑んだ。
「いつも、誰かのために頑張っていらっしゃるから」
ノアは少し驚いたような顔をした。
「そうでしょうか?」
「そうですよ」
エリンがまた笑った。
「たまには、ご自分のことも大切にしてください」
ノアは黙った。その沈黙は、ほんの数秒だった。しかしエリンには少し長く感じられた。
「ありがとうございます」
ノアは静かに言った。
「ウォーカーさんも、どうかお気をつけて」
「はい」
2人は、それぞれの車へ向かった。エリンは運転席に座り、シートベルトを締めた。
そして、ふと考えた。
「ベネットさんは、どんなときが幸せなんだろう?」
誰かが元気になると、嬉しそうに笑う。子供たちと遊ぶときも、楽しそうにしている。でも彼自身が何を望んでいるのか、まだわからない。
エリンはエンジンをかけながら「いつか、聞いてみようかな」と思った。
ただの好奇心だった。少なくとも、そのときのエリンはそう考えていた。
同じ頃。ノアは車を運転しながら、先ほどの言葉を思い返していた。
「たまには、ご自分のことも大切にしてください」
何でもない言葉だった。職場の同僚なら、誰でも言うかもしれない。それでも不思議なほど心に残った。
ウォーカーさんは、よく人を見ている。患者の気持ちを丁寧に聞く。小さな変化にも気づく。そして相手が無理をしていると、そっと声をかける。
ノアは微笑んだ。
「いい看護師さんだ」
そう思った。それ以上のことは、考えなかった。考えないようにしていた。
ノアはハンドルを握り直した。夕暮れの道路を、車が静かに走っていく。
2人はまだ、互いをファーストネームで呼ばない。仕事以外で会う約束をしたこともない。互いの過去も、ほとんど知らない。
しかし4ヶ月前には存在しなかったものが、2人の間に生まれ始めていた。
それは、まだ恋ではなかった。少なくとも、2人はそう思っていた。
ただ相手と話すことが、少し楽しみになっていた。相手が困っていれば、気になった。相手が笑っていれば、少し嬉しかった。
そんな小さな出来事が、少しずつ積み重なっていた。そして、その積み重ねが、やがて2人の人生を大きく変えることになる。
そのことをまだ2人は知らなかった。
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