自分のこと
ノア自身のことにエリンが興味を抱きます。
年が明けて、1月の初め、町にはまとまった雪が降った。病院の駐車場も銀世界となり、朝から職員たちが除雪に追われていた。
エリンは少し遅れて出勤した。道路が凍結していたため、いつもより慎重に運転してきたのだ。車を止めると、フロントガラスの向こうに見覚えのある姿が見えた。ノアだった。
雪かき用のシャベルを持ち、職員用の通路を除雪していた。その隣では、病院の設備担当者が同じ作業をしている。
エリンは車を降りた。
「おはようございます、ベネットさん」
ノアが顔を上げる。
「おはようございます、ウォーカーさん」
「朝から大変ですね」
「ええ。でも、もう少しで終わります」
「私も手伝いましょうか?」
「ありがとうございます。お気持ちだけ。もうすぐ勤務時間でしょう?」
「まだ少しあります」
エリンは腕時計を見た。
「10分くらいなら」
ノアは少し考えた。
「それなら、入口の近くをお願いできますか?」
「はい」
エリンは予備のシャベルを受け取った。2人は並んで雪をかいた。
しばらくして、エリンが言った。
「ベネットさん、こういうこともよくされるんですか?」
「雪かきですか?」
「ええ」
「人手が足りないときだけですよ」
「やっぱり」
クスリと笑うエリン。
「頼まれごとを断らないんですね」
エリンの言葉にノアは笑った。
「そんなことはありませんよ」
「本当ですか?」
「ええ」
「じゃあ、何を断るんですか?」
真剣な表情で考え込むノア。
「そうですね……」
エリンは手を止めた。
「今、考えましたよね? 考えないと思いつかないくらい断ることがないんですね」
ノアは少し困った顔をした。
「はい」
エリンは笑った。ノアも苦笑する。
そのとき、エリンのシャベルが凍った地面に引っかかった。身体が前に傾く。
「あっ!」
ノアがすぐに声をかけた。
「大丈夫ですか?」
エリンはシャベルを支えにして踏みとどまった。ノアは近づきかけたが、彼女が自分で体勢を立て直したのを見ると足を止めた。
「滑りやすいので、気をつけてください」
「ありがとうございます」
エリンは小さく息を吐いた。ノアは必要でなければ、エリンの身体に触れようとしなかった。そのことに、彼女は少し安心した。
2月になった。エリンが病院に勤め始めて、3ヶ月以上が過ぎていた。
ある日の午後、病棟で小さな騒ぎが起きた。長期入院している6歳のリリーが、リハビリテーション室へ行くのを嫌がっていたのだ。
「やだ! 今日は行かない」
母親が困った顔をしていた。
「リリー、ノア先生が待ってるわよ」
「やだ!」
エリンはしゃがみ込んだ。
「どうしたの?」
リリーは唇を尖らせた。
「どうせ歩けないもん」
エリンは黙った。
「昨日も、いっぱい練習したのに……」
リリーの目に涙が浮かぶ。
「全然、歩けないんだもん」
エリンは少し考えた。
「そうか」
リリーは頷いた。
「もう、やりたくない」
エリンは、すぐには励まさなかった。「頑張れば歩けるようになる」「諦めてはいけない」。そんな言葉をかけることは簡単だ。しかし今のリリーに必要なのは、そういう言葉ではない。
「悔しかったんだね?」
リリーの目を見ながらエリンは言った。
「うん」
「頑張ったのに、思うようにできなかったんだね」
「うん……」
少女の目から涙がこぼれる。エリンは、そっとティッシュを差し出した。
「今日は、ベネットさんにその気持ちを話してみようか」
「ノアに?」
「うん」
エリンは微笑んだ。
「大丈夫。ちゃんと聞いてくれると思うよ」
リリーはしばらく考えた後に小さく頷いた。
リハビリテーション室で、ノアはリリーの話を最後まで聞いた。途中で遮ることも、励ましの言葉を挟むこともしなかった。
リリーが話し終えると、ノアは静かに口を開いた。
「そうか。昨日は悔しかったんだね」
その言葉にリリーが首を縦に振る。
「教えてくれて、ありがとう」
リリーは驚いた顔をした。
「ありがとう?」
「うん。リリーがどう思っているのか、僕にはわからなかったから」
ノアは微笑んだ。
「話してくれて、嬉しいよ」
リリーは少し考えた。
「ノア、怒らないの?」
「何を?」
ノアが不思議そうな顔をする。
「歩く練習、したくないって言ったこと」
その言葉に笑いながら首を横に振る。
「怒らないよ」
「本当?」
「本当」
「じゃあ、今日はやらなくてもいい?」
ノアは少し考えた。
「そうだね。今日は別のことをしてみようか」
「別のこと?」
「うん。座ったままでできる運動もあるんだ」
リリーの目が少し輝いた。
「ボール?」
「そう。ボールを使ってみよう」
「やる!」
ノアは笑った。
「じゃあ、始めようか」
エリンは少し離れたところで、その様子を見ていた。ノアはリリーに無理をさせなかった。しかし訓練を諦めたわけでもなかった。その日のリリーにできることを、一緒に探していた。
エリンは思った。
「こういう人なんだ」。ただ優しいだけではない。相手の気持ちを尊重しながら、必要なことを考えている。それがノアの仕事のやり方なのだ。
訓練が終わったあと、ノアがエリンに声をかけた。
「ウォーカーさん」
「はい」
「リリーのこと、ありがとうございました」
「いえ、私は話を聞いただけです」
「それが大切だったんだと思います」
ノアは微笑んだ。
「今日はリリーが自分の気持ちを話してくれましたから」
エリンは少し嬉しくなった。
「ウォーカーさんは、患者さんの話をよく聞いていらっしゃいますね。とても大切なことだと思います」
エリンは、少し照れくさくなった。
「ありがとうございます」
2人は微笑み合った。以前なら、それだけで会話は終わっていただろう。だがその日は、エリンがもう1つ質問をした。
「ベネットさんはどうして理学療法士になろうと思ったんですか?」
ノアは少し考えてから答える。
「人が元気になっていくところを、見たかったんです」
エリンは微笑んだ。
「素敵な理由ですね」
「ありがとうございます」
ノアが照れくさそうに笑った。しかしその笑顔の奥に、何か別のものがあるようにエリンには見えた。
この人は、いつも誰かのことを考えている。患者のこと。子供たちのこと。同僚のこと。そして自分自身のことは、あまり話さない。
「ベネットさん、お休みの日は何をされているんですか?」
ノアはまた考えた。
「読書をしたり、散歩をしたり……」
「ほかには?」
「子供たちのところへ来ることもあります」
エリンは笑った。
「それは知っています。エミリーから聞きました」
「そうでしたか」
ノアが笑った。
「本当に、お仕事がお好きなんですね」
「そうですね」
ノアは穏やかに答えた。
「好きな仕事ができるのは、ありがたいことです」
エリンは頷いた。
けれど、少しだけ気になった。この人は自分のことになると、いつも話が短くなる。
それ以上は尋ねず会話は終了した。「まだそこまで親しいわけではない」。そう思ったからだ。
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