気の合う2人?
初めて病院外でノアとエリンが遭遇します。
エリン・ウォーカーが町の病院で働き始めて、3週間が過ぎた。最初の頃は、仕事を覚えるだけで1日が終わった。病院は大きいわけではなかったが、だからといって仕事が少ないというわけではない。むしろ、人手が足りないぶん、1人の職員が受け持つ仕事は多かった。
それでも、エリンは少しずつ新しい環境に慣れ始めていた。病棟の看護師たちとは、気軽に話せるようになった。
エミリー・カーターとは、昼食を一緒に取ることが増えた。患者たちも、彼女の顔を覚えてくれた。そして、理学療法士のノア・ベネットとも、仕事で顔を合わせる機会が多くなっていた。
もっとも、2人の会話は、相変わらず仕事の話が中心だった。
「ウォーカーさん、ブラウンさんの件ですが」
「はい、ベネットさん」
「午後の訓練を30分ほど遅らせてもよろしいでしょうか?」
「構いません。検査の予定もありませんから」
そんなやり取りを、日に何度も繰り返していた。
ノアは誰に対しても丁寧だった。患者にも、看護師にも、清掃員にも、受付の職員にも。そしてエリンに対しても。
だから、彼女は最初、彼のことを特別に意識してはいなかった。ただ仕事がしやすい人だと思っていた。
ある日の午後。エリンは、病室で1人の老人と向き合っていた。ジョージ・ハーパーである。
「だから、もう歩けるって言ってるだろ!」
ジョージは苛立った声を上げた。
「お気持ちはわかります。でも、まだ1人で歩くのは危険です」
「危険、危険って、お前らはそればっかりだ!」
ジョージはベッドの柵を叩いた。大きな音が響いた。エリンの肩が、わずかに強張る。
それでも怯むことなく、彼女は深く息を吸って言った。
「ハーパーさん、早くご自宅に帰りたいんですよね?」
「当たり前だ」
「私も、できるだけ早く退院していただきたいと思っています」
ジョージは黙った。
「だからこそ、今は少しずつ練習していただきたいんです」
「少しずつか……」
「はい」
ジョージは窓の外を見た。
「家のことが気になるんだよ」
エリンは椅子を引き寄せた。
「何か、心配なことがあるんですか?」
「犬だ」
「犬?」
「うちの犬。もう年寄りでな」
ジョージは小さく息を吐いた。
「今は隣の家の奴が面倒を見てくれてるが、俺が入院してから飯もろくに食わねえらしい」
エリンは頷いた。
「そうだったんですね」
「早く帰ってやりたいんだよ」
その声は、先ほどまでの怒鳴り声とはまるで違っていた。
エリンはしばらく考えた。
「ハーパーさん」
「何だ」
「ベネットさんに相談してみませんか?」
「ノアに?」
「はい。退院までに何ができるようになればいいのか、一緒に考えていただきましょう」
ジョージは少し考えた。
「確かにあいつなら、話を聞いてくれるかもな」
「ええ」
エリンは微笑んだ。
「きっと」
翌日
ノアはジョージの病室で、退院に向けた目標について話していた。そこにはエリンも同席していた。
「つまり、家の中を安全に移動できることが大切なんですね」
ノアが言った。
「そうだ」
「玄関には段差がありますか?」
「2段ある」
「手すりは?」
「ない」
ノアは頷いた。
「それなら、退院前に段差を越える練習も必要ですね」
ジョージは顔をしかめた。
「面倒だな」
「そうですね」
ノアはあっさり認めた。
「でも、家に帰ってから転んでしまったら、もっと面倒なことになります」
ジョージは鼻を鳴らした。
「それはそうだな」
ノアは微笑んだ。
「では、まずは病棟の廊下を、安全に歩けるようになるところから始めましょう」
「どれくらいかかる?」
「回復の具合を見ながら考えましょう。焦らずに」
ジョージはため息をついた。
「お前も、ウォーカーさんも、同じことを言うな」
ノアはエリンを見た。
「そうですか?」
「そうだよ。二人とも、急ぐな、焦るな、少しずつ、って」
エリンは思わず笑った。ノアも微笑む。
「それなら、専門家2人の意見は一致していますね」
ジョージは呆れた顔をした。
「まったく、気の合うことで」
病室を出たあと、ノアが言った。
「ウォーカーさん、ありがとうございました」
「何がですか?」
「ハーパーさんのお話を、丁寧に聞いてくださったことです」
エリンは少し驚いた。
「看護師として、当然のことです」
「それでも、ありがとうございます」
ノアは微笑んだ。
「退院したい理由がわかって、訓練の目標も立てやすくなりました」
エリンは、少し嬉しくなった。
「お役に立てたなら、よかったです」
「とても助かりました」
ノアは深く頭を下げた。エリンも頭を下げる。2人は、それぞれの仕事へ戻っていった。まだそれだけの関係だった。
12月に入ると、町はすっかり冬の装いになった。メインストリートには小さなクリスマスの飾りが取りつけられ、雑貨店の窓には赤と緑のリボンが飾られた。
ある日の夕方、エリンはミラー夫妻の店に立ち寄った。牛乳と卵を買うつもりだった。ところが、店に入るとウォルターが脚立の上に立っていた。
「ちょっと、あなた!」
マーサが叫んでいた。
「危ないから、降りなさい!」
「あと少しだ!」
「さっきから、あと少しって言ってるじゃない!」
ウォルターは天井から吊るす飾りを取りつけようとしていた。しかし、もう少しのところで手が届かないらしい。
エリンは思わず笑った。
「こんばんは」
「あら、エリン!」
マーサが振り返った。
「ちょうどいいところに来たわ」
「どうしたんですか?」
「この人ったら、脚立に乗って飾りつけをするって言い張るのよ」
「俺だって、これくらいできる」
「去年、脚立から落ちたでしょう!」
「落ちてねえ。滑っただけだ」
「同じことよ!」
エリンは苦笑した。
そのとき、店のドアが開いた。
「こんばんは」
入ってきたのは、ノアだった。思わぬノアの登場にエリンは少し驚いた。
「ベネットさん?」
ノアも驚いたように目を見開いた。
「あ、ウォーカーさん。こんばんは」
ノアの顔を見てマーサは嬉しそうに言った。
「ちょうどよかったわ。ノア、ちょっとお願いできる?」
「はい、何でしょう?」
「うちの人の代わりに、飾りをつけてくれないかしら」
ウォルターが抗議した。
「おい、俺はまだ……」
「あなたは降りなさい!」
ノアは状況を理解したらしく、微笑んだ。
「僕でよければ」
ウォルターは不満そうに脚立を降りた。
「まったく! 年寄り扱いしやがって」
ノアは脚立を確かめ、慎重に上った。飾りを取りつける。マーサが少し離れて眺めた。
「もう少し右!」
「このくらいですか?」
「そうそう。あ、ちょっと左!」
ノアは言われたとおりに動かした。
「どうでしょう?」
「う〜ん」
マーサは首を傾げた。
「最初のほうがよかったかしら」
ウォルターが吹き出した。
「ほら見ろ。俺がやっても同じだ」
「あなたは黙ってて!」
エリンは笑いをこらえた。ノアも脚立の上で困ったように笑っていた。
結局、飾りが取りつけられるまで、15分ほどかかった。
「ありがとう、ノア!」
マーサは満足そうに言った。
「助かったわ」
「いえ、お役に立ててよかったです」
「お礼に何か持っていって」
「そんな、お気遣いなく」
「遠慮しないで!」
マーサは店の奥から、大きな袋を持ってきた。中には焼き菓子が入っていた。
「これ、昨日焼いたの」
「ありがとうございます」
恐縮しながらお礼を受け取るノアに、エリンは思わず言った。
「ベネットさん、本当に頼まれごとを断らないんですね」
ノアは首を傾げた。
「そうでしょうか?」
「ええ」
エリンは微笑んだ。
「病院でも、いつも誰かを手伝っていらっしゃるから」
「できることをしているだけですよ」
ノアは静かに答えた。その言い方には、少しも気負いがなかった。
エリンは思った。
「この人、本当にそう思っているんだ」
店を出ると、冷たい風が吹いていた。駐車場には、エリンの車とノアの車が並んでいる。
「ウォーカーさん」
ノアが声をかけた。
「はい?」
「これ、よかったら」
ノアは焼き菓子の袋を差し出した。
「え?」
「僕だけでは食べきれそうにないので」
エリンは少し迷った。誰かから何かを受け取ることに、まだ慣れていなかった。デレクは、贈り物をした後で、それを理由に何かを要求することがあった。だから、親切を受けることが怖かった。
「でも、ベネットさんが頂いたものですし」
「そうですね」
ノアはすぐに頷いた。
「では、また機会があれば」
そう言って、袋を引っ込めた。
エリンは驚いた。断られたことに、少しも不満そうな顔をしない。理由を尋ねることもしない。ただ彼女の返事を受け入れた。
「それでは、お気をつけて」
ノアは微笑んだ。
「おやすみなさい、ウォーカーさん」
「おやすみなさい……」
自分の車へ向かうノアの背中を見送るエリン。そして、ふと思った。
「この人は、私が断っても怒らないんだ」
当たり前のことだった。本来なら……。けれど、エリンにとっては、決して当たり前ではなかった。
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