拭いきれない不安
一度トラウマができると、なかなか克服するのは難しいですよね。
初出勤の夕方。勤務を終えたエリンが更衣室から出ると、廊下の向こうから子供たちの笑い声が聞こえてきた。
病院の一角には、長期的なケアを必要とする子供たちのための小さな病棟があった。声は、そちらから聞こえてくるようだった。
エリンは何気なく足を止めて中を覗く。そこにはノアがいた。床に座り、3人の子供たちに囲まれている。そのうちの1人は、朝、駐車場で見かけたリリーだった。
「ずるい!」
男の子が叫んだ。
「ノア、今のずるいよ!」
「そうかな?」
「絶対ずるい!」
「じゃあ、もう1回やってみようか」
ノアは小さなボールを手に取った。
床には、色とりどりの輪が並べられていた。その輪に向かってボールを転がしているらしい。
「次はリリーの番だね」
「うん!」
リリーは車椅子から身を乗り出し、ボールを転がしたがボールは輪の手前で止まった。
「あーっ!」
リリーが悔しそうに叫んだ。ノアはボールを拾い上げる。
「惜しかったね」
「全然惜しくない!」
「そうかな。さっきより、ずっと真っすぐ転がっていたよ」
リリーは首を傾げた。
「本当?」
「本当」
「じゃあ、もう1回!」
「よし! チャレンジだ」
ノアは笑った。
その笑顔を見て、エリンはふと思った。「この人、本当に楽しそう」。
仕事だから子供たちに付き合っている、という感じではなかった。子供たちと一緒にいることそのものを、楽しんでいるように見えた。
そのとき、背後から声がした。
「何してるの?」
エミリーだった。
「ああ、また来てるんだ」
「また?」
「そう。ノア、勤務が終わっても、よく子供たちのところに顔を出すのよ」
「そうなの?」
「ええ。休みの日に来ることもあるわ」
エリンは驚いた。
「どうして?」
「さあ。好きなんじゃない? 子供たちのことが」
エミリーは肩をすくめた。
「本当に、お人好しなのよ」
その言葉には、呆れと親しみが半分ずつ混じっていた。
「自分だって疲れてるでしょうにね」
エリンはもう一度、ノアを見た。リリーが何かを言った。ノアは大げさに驚いた顔をした。子供たちが一斉に笑った。
ノアは本当に楽しそうに笑っている。しかしエリンにはどうしても気になることがあった。
自分の時間は、どうしているんだろう? 誰かのために働いて。誰かのために笑って。休みの日まで、誰かのところへ出かけていく。それは素敵なことだと思う。でもこの人自身は、何が楽しいんだろう。
エリンは、自分でも不思議に思った。なぜ、そんなことが気になるのか。まだほとんど知らない人なのに。
「さ、帰ろう」
エミリーが言った。
「ええ」
2人が歩き出した、そのとき背後から声がした。
「ウォーカーさん」
振り返ると、ノアがドアのところに立っていた。
「お疲れさまでした。初日はいかがでしたか?」
「覚えることが多くて、少し大変でした」
エリンは笑った。
「でもみんな親切だから、何とかやっていけそうです」
「それはよかった」
ノアは心から安心したような顔をした。
「何か困ったことがあれば、遠慮なく声をかけてください」
「ありがとう」
「いえ」
ノアは軽く会釈した。
「それでは、また明日」
「また明日」
エリンは答えた。
廊下を歩きながら、エミリーが横目でエリンを見た。
「何?」
エリンが尋ねた。
「別に?」
「何か言いたそうだけど」
「いいえ、何も」
エミリーは笑っていた。
エリンは、少しだけ嫌な予感がした。この同僚は、どうやら人のことをからかうのが好きらしい。
病院を出ると、空はすっかり暗くなっていた。駐車場の照明が、薄い霧を白く照らしていた。エリンは車に乗り込み、ドアを閉めた。しばらく、そのまま座っていた。
疲れていたが、不思議と嫌な疲れではなかった。今日1日、覚えられないことはあった。失敗しそうになった場面もあった。それでも、仕事を終えた今、胸の中には小さな達成感があった。「明日も頑張ろう」。そう思えた。
エンジンをかけようとしたとき、携帯電話が震えた。
エリンの身体が強張った。画面を見る。知らない番号だった。
心臓の鼓動が早くなる。その間、呼び出し音が続く。エリンは電話を見つめたまま、動けなかった。
「まさか!」
「そんなはずない」
「番号を変えた」
「住む場所も変えた」
「職場も変えた」
「誰にも行き先を教えていない」
それでも、デレクの顔が思い浮かんでいた。
呼び出し音が止まると、エリンは大きく息を吐いた。
数秒後、留守番電話の通知が届いた。
震える指先で再生ボタンをタップする。
「もしもし、エリンさん。マーサよ。ウォルターの携帯からかけてるの。今夜、チキンパイを焼いたんだけど、よかったら食べに来ない? 返事はいつでもいいからね」
エリンは目を閉じた。しばらくして笑いともため息ともつかない息が漏れた。マーサだった。何も怖がる必要はなかった。エリンは携帯電話を握りしめた。そして、画面に表示された番号を連絡先に登録した。
「ウォルター&マーサ」
名前を入力すると、少しだけ安心した。そのまま返信のメッセージを打つ。
「ありがとうございます。ぜひ伺わせてください」
送信するとすぐに返事が来た。
「待ってるわ!」
最後には、赤いハートの絵文字が3つ並んでいた。
その夜、ミラー夫妻の家から帰る途中、エリンは空を見上げた。雲の切れ間に、星が見えていた。都会にいた頃より、ずっと多くの星が見えた。
冷たい風が吹いた。エリンはコートの襟を立てた。新しい町に来て、まだ2日目。知らないことばかりだった。けれど「悪いことばかりではないのかもしれない」。そう思いかけて、すぐに首を振った。
「期待してはいけない」
「誰かに頼ってはいけない」
「幸せになれるかもしれない、などと思ってはいけない」
期待すれば、裏切られたときに傷つく。それはもう、十分に知っている。
エリンは足早に家へ向かった。玄関の鍵を開け、室内に入る。ドアを閉める。鍵をかける。チェーンをかける。いつものように、何度も確認する。そして、ようやく息を吐いた。
もう誰も好きにならない
そう決めたのだから。
その夜、眠りにつく前に、エリンはふと昼間の出来事を思い出した。病室で、ジョージが薬のカップを乱暴に置いたとき思わず身体が強張った自分。そして、廊下でのノアの言葉。
「ウォーカーさんが悪いわけではありませんから」
エリンは毛布の中で目を閉じた。何でもない言葉。きっと、ノアにとっては。けれど、エリンにはその言葉がいつまでも耳に残っていた。
「変わった人だな」
心の中で呟いた。そして、ほんの少しだけ微笑んだ。
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