お人好しの理学療法士
エリン、初出勤です。
エリンが新しい病院に出勤した最初の日、駐車場には霜が降りていた。車を降りると、冷たい空気がピリピリと体に沁みる。
病院は3階建ての古い建物だった。正面玄関の上には、町の名前を冠した医療センターの看板が掲げられていたが、端の塗装が少し剥がれていた。
エリンは腕時計に視線を落とす。
午前7時20分。始業まで、まだ40分ある。「早く着きすぎた」。そう思ったが、車に戻る気にはなれなかった。
初めての職場で遅刻するよりはいい。それに何かしていないと落ち着かなかった。玄関へ向かう途中、建物の脇で男性ががしゃがみ込んでいるのが見えた。
「何をしているのだろう?」と、よく見ると、男の前には小さな女の子がいた。車椅子に座っている。
男は女の子の靴紐を結び直していた。
「これでどうかな」
「きつい」
「そうか。じゃあ、少し緩めよう」
男は結び目をほどき、もう一度結び直した。
「今度は?」
女の子は足を動かした。
「うん。いい」
「よかった」
男は微笑んだ。
「じゃあ、お母さんのところへ戻ろうか」
「ノア」
「何?」
「今日も歩く練習するの?」
「もちろん」
「昨日より、いっぱい歩けるかな」
「どうだろう。でも、一緒に頑張ってみよう」
女の子は嬉しそうに頷いた。
エリンが2人の邪魔をしないように少し離れて通り過ぎようとしたとき、男が顔を上げた。
「おはようございます」
「あ……おはようございます」
それが、エリンとノア・ベネットの最初の出会いだった。
病棟の責任者は、50代半ばの女性。名をスーザン・ハリスといった。短く切った銀髪に、縁の細い眼鏡。厳しそうな顔つきをしていたが、話し方は落ち着いていた。
「ウォーカーさんね、ようこそ」
「エリンで結構です」
「じゃあ、私もスーザンでいいわ」
彼女は書類を手渡した。
「経験は十分あるようね。もっとも、ここでは都会の大病院みたいに何でも揃っているわけじゃないから、最初は戸惑うかもしれない」
「承知しています」
「それから、人手も足りない」
スーザンは苦笑した。
「大丈夫です」
エリンの答えにスーザンが満足そうな笑みを浮かべる。
「そう言ってもらえると助かるけど、無理はしないで。困ったら必ず誰かに相談すること」
エリンは頷いた。
相談する。簡単な言葉だった。しかし彼女にとっては、決して簡単なことではなかった。
「それじゃあ、病棟を案内するわね」
スーザンは廊下へ出た。
病院は古かったが、清潔に保たれていた。廊下の壁には、地域の子供たちが描いた絵が飾られている。窓際には鉢植えが置かれ、ナースステーションのカウンターには、誰かが持ってきたらしい手作りのクッキーが並んでいた。
「エミリー!」
スーザンが呼ぶと、奥から若い女性が顔を出した。
「はーい!」
明るい声だった。
肩までの茶色い髪を後ろでまとめ、胸元には看護師の名札をつけている。
「新しく入ったエリンよ。しばらくあなたが仕事を教えてあげて」
「了解です!」
女性はすぐに近づいてきた。
「エミリー・カーター。よろしくね!」
「エリン・ウォーカーです。よろしくお願いします」
礼儀正しいエリンの挨拶に微笑みを返すエミリー。
「そんなにかしこまらなくていいわよ。ここ見た目ほど怖いところじゃないから」
スーザンが眉を上げた。
「見た目ほど?」
「あ、いや病棟が古いから、なんだかお化け屋敷みたいかなって。スーザンさんのことじゃありませんよ」
「誰もそんなこと言ってないわ」
エミリーは笑った。エリンもつられて微笑んだ。
「じゃあ、あとはお願いね」
スーザンが去ると、エミリーはエリンに顔を寄せた。
「安心して。スーザンさん、ああ見えてすごく優しいから」
「そうみたいね」
「怒ると怖いけど。この世の終わりが来たのかと思うほどにね」
「そうなの?」
「ええ。でも、怒られるのはだいたい先生たちだから」
エミリーは声を潜めた。
「特にヌクミズ先生」
「ヌクミズ先生?」
「日本から来た先生。ちょっと変わってるの」
「変わってる?」
「会えばわかるわ」
エミリーは意味ありげに笑った。
午前中は、覚えることが山ほどあった。患者の名前。薬品や備品の保管場所。電子カルテの操作。検査室への連絡方法。病棟ごとの細かな決まり。
エリンは手帳に次々と書き込んだ。忙しいことはありがたかった。余計なことを考えずに済む。
昼近くになった頃、エミリーが声をかけた。
「そろそろ休憩にしましょう」
「もうそんな時間?」
「そう。病院で働いてると、1日があっという間よね」
2人はカフェテリアへ向かった。
廊下の角を曲がったところで、前方から男性が歩いてきた。両手に書類を抱え、首から職員証を下げている。朝、駐車場で見かけた男だった。
「あ、ノア!」
エミリーが手を振った。男が足を止めた。
「こんにちは、エミリー」
「ちょうどよかった。紹介するわ。今日からうちの病棟に来たエリン」
エリンは軽く頭を下げた。
「エリン・ウォーカーです」
「ノア・ベネットです。理学療法士をしています」
ノアは微笑んだ。
「今朝、玄関でお会いしましたね」
「ええ。女の子と一緒にいらしたでしょう」
「ああ、リリーですね」
「患者さんですか?」
「はい。歩く練習を頑張っているんです」
その言い方が、エリンには少し印象的だった。「自分が訓練をしている」とは言わなかった。「女の子が頑張っている」と言った。
「ノアって、本当に子供に好かれるのよ」
エミリーの言葉に照れたようなノアが返す。
「そんなことありませんよ」
「あるわよ。この間なんか、リリーが『私、ノアと結婚する!』って言ってたじゃない」
ノアは困ったように笑った。
「あれは、きっと冗談です」
「6歳の女の子が言う結婚って、案外本気よ」
「そうなんですか?」
「そうよ。気をつけなさい」
ノアは真剣に考え込むような顔をしたので、エリンは思わず笑ってしまった。
その笑い声に、ノアが顔を向けた。
「何か、おかしかったですか?」
「いえ、ごめんなさい」
「ノア、あなた本当に真面目なんだから」
エミリーは肩をすくめた。
「じゃあ、私たち、お昼だから」
「はい、ゆっくり休んでください」
ノアは二人に会釈し、廊下を歩いていった。エミリーはその背中を見送った。
「いい人でしょう?」
「そうね」
「しかも、独身」
エリンは足を止めた。
「え?」
エミリーはにやりと笑った。
「別に、聞いてないわよ」
エリンが眉をひそめる様子を見て、エミリーは楽しそうに笑った。
その日の午後、エリンは病室で1人の男性患者に薬を届けた。60代後半で、数日前に転倒して脚を骨折していた。名前はジョージ・ハーパー。
入院生活に不満があるらしく、朝から何度も看護師を呼んでいた。
「こんなところ、早く出ていきたいんだよ」
ジョージは薬の入ったカップを見て言った。
「お気持ちはわかります。でも、今は無理をしないほうがいいですよ」
「みんな同じことを言う」
「先生からも説明があったと思いますが……」
「聞き飽きた!」
ジョージはカップを乱暴に置いた。
エリンの肩が、わずかに跳ねた。
大きな音だった。
ほんの一瞬、ジョージの顔がデレクの顔に重なった。
「何やってんだ、お前は!」
耳の奥で声がした。エリンは息を止めた。
「おい、聞いてるのか?」
ジョージがまくし立てる。
「あ……はい」
エリンは慌てて表情を整えた。
「すみません」
謝る必要などなかった。それでも、言葉が先に出た。
そのとき、病室のドアがノックされた。
「失礼します」
ノアだった。
「ジョージさん、こんにちは」
「おお、ノアか」
ジョージの声が少し和らいだ。
「今日はもう来ないのかと思ったぞ」
「遅くなってすみません」
ノアはエリンに目を向けた。
「お薬の時間でしたか?」
「ええ」
「それなら、僕は少し待ちますね」
「いや、待たなくていい」
ジョージは薬のカップを手に取った。
「飲めばいいんだろ、飲めば」
水と一緒に薬を飲み込む。
ノアは微笑んだ。
「ありがとうございます」
「お前に礼を言われる筋合いはねえよ」
「そうですね」
ノアは笑った。ジョージも、つられたように口元を緩めた。
エリンはその様子を見ていた。ノアは、患者を叱らなかった。薬を飲むよう命令もしなかった。ただ相手が自分で行動するのを待っていた。
「じゃあ、少し身体を動かしましょうか」
「今日は歩くのか?」
「まずはベッドから立ち上がる練習をしましょう」
「またそれか」
「ええ。またそれです」
ノアは穏やかに答えた。
「でも、昨日より少し楽にできるかもしれませんよ」
ジョージは鼻を鳴らした。
「お前は本当に諦めが悪いな」
「よく言われます」
病室を出ると、ノアが後ろからエリンに声をかけた。
「ウォーカーさん」
彼女は振り返った。
「はい?」
「先ほどは、すみませんでした」
「何がですか?」
「お薬の時間に入ってしまって」
「そんなこと。むしろ助かりました」
「そうですか」
ノアは安心したように微笑んだ。
少しの沈黙があった。
エリンは、先ほどの自分の反応を思い出した。ジョージがカップを置いた音。思わず身体が強張ったこと。ノアは気づいただろうか?
「あの……」
「はい」
「ハーパーさんって、いつもあんな感じなんですか?」
「そうですね。入院してから、少し苛立っていらっしゃるようです」
「そうですか」
「奥様が亡くなられてから、ずっと一人暮らしだそうです」
エリンは黙った。
「ご自宅では、何でも自分でなさっていたそうです。だから、今のように誰かの手を借りなければならないことが、辛いのかもしれません」
「なるほど……」
ノアは続けた。
「もちろん、だからといって、看護師さんに怒鳴っていいわけではありませんけど」
エリンは顔を上げた。
「え?」
「ウォーカーさんが悪いわけではありませんから」
ノアは静かに言った。
「どうか、あまり気にしないでください」
エリンは、しばらく彼を見つめた。
「ありがとうございます……」
「いえ」
ノアは軽く頭を下げた。
「それでは、失礼します」
彼は歩き出した。エリンは、その背中を見送った。
何気ない言葉だった。誰にでも言える言葉かもしれない。それでも彼女には不思議なほど温かく感じられた。
「あなたが悪いわけではない」
そんなことを、誰かに言われたのは久しぶりだった。
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