デレクという男
デレク・ヘイズと出会ったのは、3年前だった。
最初は、本当に優しい人だった。仕事帰りには迎えに来てくれた。重い荷物を持ってくれた。エリンが夜勤明けで疲れていると、朝食を作ってくれた。誕生日には花束を贈ってくれた。
「君のことが大切なんだ」
そう言って、何度も抱きしめてくれた。
エリンは幸せだった。少なくとも、そう信じていた。
最初の違和感は、些細なことだった。
同僚の男性と話していると、デレクの機嫌が悪くなった。
「ずいぶん楽しそうだったな」
「仕事の話をしてただけよ」
「俺には、あんな顔で笑わないくせに」
エリンは冗談だと思った。だから笑って否定した。けれど、デレクは笑わなかった。
次第に、彼はエリンの行動を細かく尋ねるようになった。「誰と話したのか」「どこに行ったのか」「なぜ電話に出なかったのか」「どうして帰りが遅くなったのか」
エリンが説明すると、デレクはため息をついた。
「俺が心配してるのがわからないのか?」
その言葉を聞くたびに、エリンは申し訳なくなった。「自分のことを心配してくれているのだから」「愛してくれているのだから」
そう考えて「少しくらい、我慢するべきなのだろう」と思っていた。
最初に殴られた日のことは、今でもはっきり覚えている。
夕食の支度が遅れた。ただ、それだけだった。
デレクは突然、テーブルを叩いた。エリンが驚いて振り返ると、頬に強い衝撃が走った。何が起きたのかわからなかった。床に倒れたエリンを、デレクが見下ろしていた。
「俺を馬鹿にしてるのか?」
エリンは頬を押さえた。口の中に、血の味がした。
デレクはしばらく荒い息をついていたが、やがて我に返ったように膝をついた。
「ごめん!」
彼は泣いていた。
「ごめん、エリン。俺、どうかしてた」
エリンは何も言えなかった。
「二度としない。約束する」
デレクは彼女を抱きしめた。
「愛してるんだ。本当に愛してる。だから失うのが怖いんだよ」
エリンは泣きながら頷いた。そのときは、信じたかった。本当に。
けれど、二度目があった。
三度目もあった。
謝罪は次第に短くなり、言い訳が増えた。
「お前が怒らせるからだ」「俺をこんなふうにするな」「お前がちゃんとしていれば、こんなことにはならない」
いつの間にか、エリンは謝る側になっていた。
何をしても、何をしなくても、デレクの機嫌を損ねる可能性があった。だから、いつも彼の顔色を窺っていた。足音を聞いただけで、その日の機嫌がわかるようになった。
ドアの閉め方。鍵を置く音。冷蔵庫を開ける音。
ほんのわずかな違いで、今夜は危険かもしれないと察することができた。
それでも、逃げられなかった。怖かったからだ。逃げたら、もっとひどいことをされるかもしれない。誰かに相談したら、その人まで巻き込まれるかもしれない。何より、かつて優しかったデレクが、いつか戻ってくるのではないかと、心のどこかで期待していた。
しかし、戻ってこなかった。
最後の夜、デレクはエリンの首を絞めた。何が原因だったのか、もうよく覚えていない。ただ息ができなかった。目の前が暗くなった。このまま死ぬのだと思った。
そのとき、エリンは初めて、はっきりと理解した。
「この人は、私を殺すかもしれない」
翌日、エリンは警察に助けを求めた。デレクは逮捕された。
病院では、同僚たちが彼女を心配してくれた。
「大変だったね」
「辛かったでしょう」
「よく逃げてきたね」
そう言ってくれる人もいた。
けれど、別の声もあった。
「どうして、そんな男と付き合ったの?」
「最初に殴られたとき、別れればよかったのに」
「男を見る目がなかったんじゃない?」
そして、誰かが言った。
「自分で選んだ男なんだから、自業自得でしょう」
エリンは、何も言い返せなかった。自分でも、そう思っていたからだ。
「なぜ、もっと早く逃げなかったのだろう」「なぜ、何度も許してしまったのだろう」「なぜ、あんな男を好きになってしまったのだろう」
答えは見つからなかった。
デレクが釈放される直前、エリンは町を離れることを決めた。仕事を辞め、住まいを引き払い、できる限りの荷物を車に積んだ。そして、誰も自分を知らない土地へ向かった。
エリンは、貸家の床に座ったまま、ゆっくりと息を吐いた。窓の外では、雨上がりの道路を車が通り過ぎていった。ヘッドライトの光が、一瞬だけ室内の壁を照らした。
エリンは立ち上がり、玄関の鍵を確認した。何度も何度も。
それから寝室へ行き、ベッドの端に腰を下ろした。新しい町。新しい仕事。新しい生活。ここでは、誰も自分を知らない。もう誰かの顔色を窺って暮らす必要はない。もう殴られることもない。もう傷つけられることもない。そのためには、1つだけ守らなければならないことがあった。
もう、誰も好きにならない
エリンは、心の中でそう呟いた。1人でいれば、誰にも傷つけられない。
そう決めた。決めたはずだった。けれど、明かりを消して横になると、急に寂しさが押し寄せてきた。
誰かに「おやすみ」と言ってほしかった。ただ、それだけだった。
エリンは毛布を引き寄せ、目を閉じた。暗闇の中で、ミラー夫妻の笑い声を思い出した。温かいシチュー。「またいつでもいらっしゃい」という言葉。
それだけを頼りに、眠ろうとした。翌朝から、新しい人生が始まる。まだ見ぬ誰かとの出会いが、自分の運命を変えることになろうとは、そのときのエリンには想像もできなかった。




