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神様は見ている  作者: ももらら
傷ついた2人

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3/54

デレクという男

 デレク・ヘイズと出会ったのは、3年前だった。

 最初は、本当に優しい人だった。仕事帰りには迎えに来てくれた。重い荷物を持ってくれた。エリンが夜勤明けで疲れていると、朝食を作ってくれた。誕生日には花束を贈ってくれた。

「君のことが大切なんだ」

 そう言って、何度も抱きしめてくれた。

 エリンは幸せだった。少なくとも、そう信じていた。


 最初の違和感は、些細なことだった。

 同僚の男性と話していると、デレクの機嫌が悪くなった。

「ずいぶん楽しそうだったな」

「仕事の話をしてただけよ」

「俺には、あんな顔で笑わないくせに」

 エリンは冗談だと思った。だから笑って否定した。けれど、デレクは笑わなかった。

 次第に、彼はエリンの行動を細かく尋ねるようになった。「誰と話したのか」「どこに行ったのか」「なぜ電話に出なかったのか」「どうして帰りが遅くなったのか」

 エリンが説明すると、デレクはため息をついた。

「俺が心配してるのがわからないのか?」

 その言葉を聞くたびに、エリンは申し訳なくなった。「自分のことを心配してくれているのだから」「愛してくれているのだから」

 そう考えて「少しくらい、我慢するべきなのだろう」と思っていた。


 最初に殴られた日のことは、今でもはっきり覚えている。

 夕食の支度が遅れた。ただ、それだけだった。

 デレクは突然、テーブルを叩いた。エリンが驚いて振り返ると、頬に強い衝撃が走った。何が起きたのかわからなかった。床に倒れたエリンを、デレクが見下ろしていた。

「俺を馬鹿にしてるのか?」

 エリンは頬を押さえた。口の中に、血の味がした。

 デレクはしばらく荒い息をついていたが、やがて我に返ったように膝をついた。

「ごめん!」

 彼は泣いていた。

「ごめん、エリン。俺、どうかしてた」

 エリンは何も言えなかった。

「二度としない。約束する」

 デレクは彼女を抱きしめた。

「愛してるんだ。本当に愛してる。だから失うのが怖いんだよ」

 エリンは泣きながら頷いた。そのときは、信じたかった。本当に。


 けれど、二度目があった。

 三度目もあった。

 謝罪は次第に短くなり、言い訳が増えた。

「お前が怒らせるからだ」「俺をこんなふうにするな」「お前がちゃんとしていれば、こんなことにはならない」

 いつの間にか、エリンは謝る側になっていた。

 何をしても、何をしなくても、デレクの機嫌を損ねる可能性があった。だから、いつも彼の顔色を窺っていた。足音を聞いただけで、その日の機嫌がわかるようになった。

 ドアの閉め方。鍵を置く音。冷蔵庫を開ける音。

 ほんのわずかな違いで、今夜は危険かもしれないと察することができた。

 それでも、逃げられなかった。怖かったからだ。逃げたら、もっとひどいことをされるかもしれない。誰かに相談したら、その人まで巻き込まれるかもしれない。何より、かつて優しかったデレクが、いつか戻ってくるのではないかと、心のどこかで期待していた。

 しかし、戻ってこなかった。

 最後の夜、デレクはエリンの首を絞めた。何が原因だったのか、もうよく覚えていない。ただ息ができなかった。目の前が暗くなった。このまま死ぬのだと思った。

 そのとき、エリンは初めて、はっきりと理解した。

「この人は、私を殺すかもしれない」


 翌日、エリンは警察に助けを求めた。デレクは逮捕された。

 病院では、同僚たちが彼女を心配してくれた。

「大変だったね」

「辛かったでしょう」

「よく逃げてきたね」

 そう言ってくれる人もいた。

 けれど、別の声もあった。

「どうして、そんな男と付き合ったの?」

「最初に殴られたとき、別れればよかったのに」

「男を見る目がなかったんじゃない?」

 そして、誰かが言った。

「自分で選んだ男なんだから、自業自得でしょう」

エリンは、何も言い返せなかった。自分でも、そう思っていたからだ。

「なぜ、もっと早く逃げなかったのだろう」「なぜ、何度も許してしまったのだろう」「なぜ、あんな男を好きになってしまったのだろう」

 答えは見つからなかった。

 デレクが釈放される直前、エリンは町を離れることを決めた。仕事を辞め、住まいを引き払い、できる限りの荷物を車に積んだ。そして、誰も自分を知らない土地へ向かった。

 エリンは、貸家の床に座ったまま、ゆっくりと息を吐いた。窓の外では、雨上がりの道路を車が通り過ぎていった。ヘッドライトの光が、一瞬だけ室内の壁を照らした。

 エリンは立ち上がり、玄関の鍵を確認した。何度も何度も。

それから寝室へ行き、ベッドの端に腰を下ろした。新しい町。新しい仕事。新しい生活。ここでは、誰も自分を知らない。もう誰かの顔色を窺って暮らす必要はない。もう殴られることもない。もう傷つけられることもない。そのためには、1つだけ守らなければならないことがあった。


 もう、誰も好きにならない


 エリンは、心の中でそう呟いた。1人でいれば、誰にも傷つけられない。

 そう決めた。決めたはずだった。けれど、明かりを消して横になると、急に寂しさが押し寄せてきた。

 誰かに「おやすみ」と言ってほしかった。ただ、それだけだった。

 エリンは毛布を引き寄せ、目を閉じた。暗闇の中で、ミラー夫妻の笑い声を思い出した。温かいシチュー。「またいつでもいらっしゃい」という言葉。

 それだけを頼りに、眠ろうとした。翌朝から、新しい人生が始まる。まだ見ぬ誰かとの出会いが、自分の運命を変えることになろうとは、そのときのエリンには想像もできなかった。



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