逃げてきた女
エリンが親切な大家夫婦と出会います。
この町には、昔、製紙工場があった。町の中心を流れる川沿いに建てられた巨大な工場は、何十年もの間、住民たちの暮らしを支えていた。朝になれば煙突から白い煙が上がり、夕方には作業を終えた男たちが、油と汗の匂いをまとって通りを歩いた。商店街には人が溢れ、映画館も、ボウリング場も、24時間営業のダイナーもあった。
しかし工場が閉鎖されてから、町は少しずつ寂れていった。若者は仕事を求めて出ていき、残った人々は年を取った。メインストリートには空き店舗が増え、かつて映画館だった建物には、色褪せたポスターが貼られたままになっていた。
しかしそれでも、町にはまだ人が暮らしていた。朝になればパン屋が店を開け、郵便配達員が通りを走り、教会の鐘が鳴った。そして、町外れの小さな総合病院には、毎日、助けを必要とする人々が訪れた。
エリン・ウォーカーがこの町にやって来たのは、秋の終わりだった。空は低く、冷たい雨が降っていた。彼女は古いセダンを運転し、メインストリートをゆっくり走っていた。助手席には大きな鞄が1つ。後部座席には段ボール箱が2つ。それが、彼女の持ち物のすべてだった。
信号で車を停めたとき、エリンはバックミラーを見た。後ろには誰もいない。それでも、しばらく視線を外せなかった。
黒いピックアップトラックが通り過ぎる。エリンの肩が強張った。「車種が違う」「ナンバープレートも違う」「運転している男も、知らない人間」
それを確認して、ようやく息を吐いた。
「大丈夫。ここまで来たんだから……」
信号が青に変わった。エリンはアクセルを踏んだ。
新しい職場は、町の北側にある病院。看護師の募集を見つけたのは、偶然だった。給与は以前の職場より少し低い。都会の病院に比べれば、設備も十分とは言えない。
けれど、エリンにはどうでもよかった。
誰も自分を知らない場所。それだけで十分だった。
住まいは、病院から車で15分ほどのところにある、小さな貸家だった。平屋で、寝室が1つ。居間と台所があり、裏庭には古い木製のベンチが置かれていた。
大家は、町で雑貨店を営むミラー夫妻だった。
「まあ、かわいそうに。こんな雨の日に引っ越してくるなんて」
マーサ・ミラーはエリンを見るなり、そう言った。大柄で、よく通る声の女性だった。灰色の髪を無造作にまとめ、花柄のエプロンをつけている。
「荷物はそれだけ?」
「はい」
「じゃあ、すぐ終わるわね」
マーサは夫を振り返った。
「ウォルター、ぼんやりしてないで手伝ってあげて」
ウォルター・ミラーは新聞から顔を上げた。
「ぼんやりなんかしてねえよ」
「じゃあ、早く」
ウォルターはゆっくり立ち上がった。背が高く、痩せていて、少し猫背だった。顔には深い皺が刻まれていたが、目元は優しかった。
「馴れ馴れしくて悪いな。うちの女房は、誰にでもこうなんだ」
「何ですって?」
「何でもねえよ」
エリンは思わず笑った。
久しぶりに、自然な笑い声が出た気がした。
ウォルターは段ボール箱を一つ持ち上げた。
「お、重いな。何が入ってるんだ?」
「仕事関係の本です」
「看護師だったよな。勉強熱心だなぁ」
「そんなことないです」
「いやいや。俺なんか、本を開いたら5分で眠くなる」
マーサが呆れたように言った。
「この人、説明書だって読まないのよ」
「読まなくても何とかなるだろ」
「だから、いつも壊すんじゃない」
エリンはまた笑った。
2人は、彼女の過去を尋ねなかった。「どうしてこの町に来たのか?」「なぜ1人なのか?」「家族はどこにいるのか?」
そんなことは、一度も聞かなかった。
荷物を運び終えると、マーサは台所を覗いた。
「冷蔵庫、空っぽね」
「明日、買い物に行こうと思っています」
「今日は何を食べるつもり?」
「どこかでサンドイッチでも買おうかと」
「駄目よ、そんなの」
マーサは即座に言った。
「うちに来なさい。夕飯、食べていけばいいわ」
「いえ、そんな、ご迷惑ですから」
「迷惑だったら誘わないわよ」
エリンは言葉に詰まった。
マーサはにっこり笑った。
「寒い日に、1人で冷たいものなんか食べるもんじゃないわ」
その言葉を聞いた瞬間、エリンの胸が微かに痛んだ。ずいぶん長い間、他人からそんなふうに言われていなかった。
「ありがとうございます」
「決まりね」
マーサは満足そうに頷いた。
「19時にいらっしゃい。お腹を空かせてね」
その夜、エリンはミラー夫妻の家で、温かいシチューを食べた。
ウォルターは昔の町の話をした。工場があった頃のこと。映画館に初めてマーサを誘った日のこと。デートの途中で財布を忘れたのに気づいたこと。
「本当に、情けない人だったのよ」
マーサが言った。
「人だった? 今でも情けないだろ」
ウォルターが答えた。
「それはそうね」
2人が笑った。エリンも笑った。
食事が終わる頃には、外の雨は止んでいた。
「またいつでもいらっしゃい」
帰り際、マーサが言った。
「1人分の食事なんて、作るのもつまらないでしょう」
「ありがとうございます」
「それから、何か困ったことがあったら、遠慮しないで言うのよ」
ウォルターも頷いた。
「この町じゃ、困ったときはお互いさまだ」
エリンは深く頭を下げた。
貸家に戻ると、室内はひんやりとしていた。段ボール箱はまだ開けていない。カーテンもつけていない。エリンは居間の床に座り込み、しばらく動かなかった。
静かだった。
誰かがドアを乱暴に開ける音もしない。酒の匂いもしない。機嫌を損ねないように、相手の足音に耳を澄ませる必要もない。
ただ、静かだった。
エリンは両膝を抱えた。
「もう、大丈夫」
そう思った。
けれど、身体はまだ、その言葉を信じてくれなかった。
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