↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神様は見ている  作者: ももらら
傷ついた2人

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/54

逃げてきた女

エリンが親切な大家夫婦と出会います。

 この町には、昔、製紙工場があった。町の中心を流れる川沿いに建てられた巨大な工場は、何十年もの間、住民たちの暮らしを支えていた。朝になれば煙突から白い煙が上がり、夕方には作業を終えた男たちが、油と汗の匂いをまとって通りを歩いた。商店街には人が溢れ、映画館も、ボウリング場も、24時間営業のダイナーもあった。

 しかし工場が閉鎖されてから、町は少しずつ寂れていった。若者は仕事を求めて出ていき、残った人々は年を取った。メインストリートには空き店舗が増え、かつて映画館だった建物には、色褪せたポスターが貼られたままになっていた。

 しかしそれでも、町にはまだ人が暮らしていた。朝になればパン屋が店を開け、郵便配達員が通りを走り、教会の鐘が鳴った。そして、町外れの小さな総合病院には、毎日、助けを必要とする人々が訪れた。


 エリン・ウォーカーがこの町にやって来たのは、秋の終わりだった。空は低く、冷たい雨が降っていた。彼女は古いセダンを運転し、メインストリートをゆっくり走っていた。助手席には大きな鞄が1つ。後部座席には段ボール箱が2つ。それが、彼女の持ち物のすべてだった。

 信号で車を停めたとき、エリンはバックミラーを見た。後ろには誰もいない。それでも、しばらく視線を外せなかった。

 黒いピックアップトラックが通り過ぎる。エリンの肩が強張った。「車種が違う」「ナンバープレートも違う」「運転している男も、知らない人間」

 それを確認して、ようやく息を吐いた。

「大丈夫。ここまで来たんだから……」

 信号が青に変わった。エリンはアクセルを踏んだ。

 新しい職場は、町の北側にある病院。看護師の募集を見つけたのは、偶然だった。給与は以前の職場より少し低い。都会の病院に比べれば、設備も十分とは言えない。

 けれど、エリンにはどうでもよかった。

 誰も自分を知らない場所。それだけで十分だった。


 住まいは、病院から車で15分ほどのところにある、小さな貸家だった。平屋で、寝室が1つ。居間と台所があり、裏庭には古い木製のベンチが置かれていた。

 大家は、町で雑貨店を営むミラー夫妻だった。

「まあ、かわいそうに。こんな雨の日に引っ越してくるなんて」

 マーサ・ミラーはエリンを見るなり、そう言った。大柄で、よく通る声の女性だった。灰色の髪を無造作にまとめ、花柄のエプロンをつけている。

「荷物はそれだけ?」

「はい」

「じゃあ、すぐ終わるわね」

 マーサは夫を振り返った。

「ウォルター、ぼんやりしてないで手伝ってあげて」

 ウォルター・ミラーは新聞から顔を上げた。

「ぼんやりなんかしてねえよ」

「じゃあ、早く」

 ウォルターはゆっくり立ち上がった。背が高く、痩せていて、少し猫背だった。顔には深い皺が刻まれていたが、目元は優しかった。

「馴れ馴れしくて悪いな。うちの女房は、誰にでもこうなんだ」

「何ですって?」

「何でもねえよ」

 エリンは思わず笑った。

 久しぶりに、自然な笑い声が出た気がした。

 ウォルターは段ボール箱を一つ持ち上げた。

「お、重いな。何が入ってるんだ?」

「仕事関係の本です」

「看護師だったよな。勉強熱心だなぁ」

「そんなことないです」

「いやいや。俺なんか、本を開いたら5分で眠くなる」

 マーサが呆れたように言った。

「この人、説明書だって読まないのよ」

「読まなくても何とかなるだろ」

「だから、いつも壊すんじゃない」

 エリンはまた笑った。

 2人は、彼女の過去を尋ねなかった。「どうしてこの町に来たのか?」「なぜ1人なのか?」「家族はどこにいるのか?」

 そんなことは、一度も聞かなかった。

 荷物を運び終えると、マーサは台所を覗いた。

「冷蔵庫、空っぽね」

「明日、買い物に行こうと思っています」

「今日は何を食べるつもり?」

「どこかでサンドイッチでも買おうかと」

「駄目よ、そんなの」

 マーサは即座に言った。

「うちに来なさい。夕飯、食べていけばいいわ」

「いえ、そんな、ご迷惑ですから」

「迷惑だったら誘わないわよ」

 エリンは言葉に詰まった。

 マーサはにっこり笑った。

「寒い日に、1人で冷たいものなんか食べるもんじゃないわ」

 その言葉を聞いた瞬間、エリンの胸が微かに痛んだ。ずいぶん長い間、他人からそんなふうに言われていなかった。

「ありがとうございます」

「決まりね」

 マーサは満足そうに頷いた。

「19時にいらっしゃい。お腹を空かせてね」

 その夜、エリンはミラー夫妻の家で、温かいシチューを食べた。

 ウォルターは昔の町の話をした。工場があった頃のこと。映画館に初めてマーサを誘った日のこと。デートの途中で財布を忘れたのに気づいたこと。

「本当に、情けない人だったのよ」

 マーサが言った。

「人だった? 今でも情けないだろ」

ウォルターが答えた。

「それはそうね」

 2人が笑った。エリンも笑った。

 食事が終わる頃には、外の雨は止んでいた。

「またいつでもいらっしゃい」

 帰り際、マーサが言った。

「1人分の食事なんて、作るのもつまらないでしょう」

「ありがとうございます」

「それから、何か困ったことがあったら、遠慮しないで言うのよ」

 ウォルターも頷いた。

「この町じゃ、困ったときはお互いさまだ」

 エリンは深く頭を下げた。


 貸家に戻ると、室内はひんやりとしていた。段ボール箱はまだ開けていない。カーテンもつけていない。エリンは居間の床に座り込み、しばらく動かなかった。

 静かだった。

 誰かがドアを乱暴に開ける音もしない。酒の匂いもしない。機嫌を損ねないように、相手の足音に耳を澄ませる必要もない。

 ただ、静かだった。

 エリンは両膝を抱えた。

「もう、大丈夫」

 そう思った。

 けれど、身体はまだ、その言葉を信じてくれなかった。

ご意見、ご感想、いいね、ブックマーク登録などいただけると励みになります。よろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。