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神様は見ている  作者: ももらら
プロローグ

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優しい手

過去に傷を負ったノアとエリンの物語が始まります。魔法やチート能力、転生などは出てきません。

何気ない日常に見つかる幸せを描いていきます。

「もう一度、やってみましょう」

 ノア・ベネットは、車椅子に座った老人の前にしゃがみ込んだ。

 老人が不機嫌そうに答えた。

「昨日もやった。今朝もやった。何度やったって同じだ。こんな脚じゃ、もう歩けやしない」

「昨日は3秒でした」

「何が?」

「立っていられた時間です」

 ノアは微笑んだ。

「今日は5秒でした」

「だから何だってんだ?」

「2秒も長くなりました」

 老人は顔をしかめて吐き捨てるように言う。

「たった2秒だろうが」

「ええ。でも、2秒も長くなったんです」

 老人は何も言わなかった。


 リハビリテーション室には、消毒液と、使い込まれたゴム製マットの匂いが漂っていた。

 ノアは老人の足元を確認し、歩行器を少し近づけた。

「もう一度だけ、試してみましょうよ」

「しつこい男だな、お前は」

「よく言われます」

 ノアが屈託なく笑う。老人は歩行器を睨みながら大きく息を吐いた。

「1回だけだぞ」

「はい。1回だけ」

 ノアは老人の身体を支えた。老人を包み込む手は大きかった。指は長く、節が目立ち、甲には年齢に似合わないほど細かな皺が刻まれていた。手のひらには硬い部分があり、指の付け根には古い傷跡もあった。決して美しい手ではなかった。けれど、その手は老人の身体を驚くほど丁寧に支えていた。

「慌てなくていいですよ」

「わかっとる」

「まず、足の裏で床を感じてください」

「感じとるわい」

「では、ゆっくり」

 老人は歯を食いしばった。膝が震える。ノアは支える位置を微かに変えた。

「大丈夫です。僕がいます」

 老人の腰が、ゆっくりと車椅子から浮いた。

「そうです。そのまま」

 1秒……2秒……3秒……。老人の顔が赤くなった。

「くそっ」

「大丈夫です。呼吸を止めないで」

 4秒……5秒……6秒。

「はい。ゆっくり座りましょう」

 老人は車椅子に腰を下ろし、荒い息をつきながら、ノアを睨んだ。

「何秒だ?」

 ノアは満面の笑みを浮かべた。

「6秒です」

 老人が目を見開いた。

「6秒?」

「はい」

「昨日は?」

「3秒です」

「倍になったな」

「そうですね」

 老人はしばらく黙っていたが、やがて顔を背けた。

「明日は7秒だな」

 ノアは笑った。

「8秒を目指しましょうか」

「欲張りだな」

 そう言いながら、老人は笑う。


 少し離れた場所で、その様子を見ている女性がいた。看護師のエリン・ウォーカー。彼女は患者の記録を確認するためにリハビリテーション室を訪れていたのだが、いつの間にか手を止めていた。

 老人は、病棟でも有名な頑固者だった。薬を飲むのも嫌がる。検査に文句を言う。看護師に対して怒鳴ることも珍しくない。

 そんな老人が、今は子供のように嬉しそうな顔をしている。エリンは思わず微笑んだ。

「何か、いいことでもありましたか?」

 背後から声がした。振り返ると、医師のケンジ・ヌクミズが立っていた。小柄で、どこか頼りなさそうな雰囲気の日本人医師だった。白衣のポケットにはペンが何本も差し込まれている。

「いえ、別に」

 エリンは答えた。ヌクミズは、彼女の視線の先を見た。

「ああ、ノア君ね」

「はい」

「いい男でしょう」

エリンは少し驚いた。

「え?」

「イケメンだし、仕事ができるし、患者さんに優しい」

 ヌクミズはノアを見ながら言う。

「僕が女性だったら、放っておかないなあ」

 エリンは苦笑した。

「先生」

「何?」

「お仕事に戻らなくていいんですか?」

 ヌクミズが腕時計を見る。

「いけない、いけない」

 そう言って歩き出したが、数歩進んだところで振り返った。

「でも、本当にいい男だよ」

「わかりましたから」

 ヌクミズは満足そうに頷き、廊下へ消えていった。

 エリンは小さく息を吐いた。そして、もう一度ノアを見た。

 彼は老人の前にしゃがみ、何かを話していた。老人が笑い、ノアも笑顔を返す。その笑顔には、少しも嘘がないように見えた。少なくとも、患者の回復を喜ぶ気持ちには。

 エリンはふと、不思議なことに気づいた。ノアは患者が歩けるようになれば喜ぶ。子供が元気になれば喜ぶ。同僚が困っていれば助ける。けれど、彼自身が何かを欲しがったり、自分のために喜んだりしているところを、エリンは一度も見たことがなかった。

 もちろん、まだそれほど親しいわけではない。ただの同僚だ。それでも、なぜか気になった。

 ノアが顔を上げた。エリンと目が合う。彼は穏やかに微笑んだ。

「お疲れさまです、ウォーカーさん」

「お疲れさま」

「何かご用でしたか?」

 エリンは手元の書類を見た。

「ミラーさんの歩行訓練について、ちょっと確認したいことがあって」

「もちろんです」

 ノアが立ち上がる。

「少しお待ちいただけますか?」

「ええ」

 ノアは老人に向き直った。

「では、今日はここまでにしましょう」

「明日もお前か?」

「その予定です」

「8秒だからな」

「はい。8秒です」

 老人は満足そうに頷いた。

 ノアは歩行器を片づけ、記録用紙を手に取った。エリンは、その手を見た。

 皺の多い、大きな手。「働き者の手だ」と思った。

 そのときは、まだ知らなかった。いつか自分が、その手を好きになることを。

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