働き者の手
ヌクミズ先生は、温水洋一さんを思い浮かべてください。
昼過ぎ、エリンは休憩を取るため、広場の端にあるベンチに腰を下ろした。手には屋台で買ったレモネードがあった。少し離れたところでは、子供たちが輪投げをしている。エリンはその様子を眺めていた。
「ウォーカーさん」
声をかけられて振り返ると、ノアが立っていた。彼は少し離れた場所に立ったまま尋ねた。
「こちら、座ってもよろしいですか?」
「もちろんです」
ノアはベンチの端に腰を下ろした。2人の間には、人1人分ほどの距離があった。しばらく何も話さなかったが、不思議と気まずくはなかった。
子供たちの笑い声。屋台から聞こえる音楽。風に揺れる旗の音。そんなものをただ一緒に聞いていた。
やがてエリンが口を開いた。
「ベネットさんは、こういうお祭り、お好きですか?」
ノアは少し考えた。
「賑やかなのは嫌いではありません。ウォーカーさんは?」
エリンは微笑んだ。
「久しぶりです。こういうところに来るの。以前は人が多いところが苦手だったので」
ノアは理由を尋ねず、ただ静かに頷いた。
「そうでしたか」
それだけだった。エリンは少し安心した。
「でも今日は楽しいです」
ノアが微笑んだ。
「それはよかったです」
エリンも微笑んだ。
しばらくしてノアが言った。
「こちらの町には、もう慣れましたか?」
エリンは少し考えた。
「そうですね……最近やっと慣れてきた気がします」
ノアは安心したように頷いた。
「よかったです」
エリンは彼を見た。
「ベネットさんは、ずっとこの町に?」
ノアは否定した。
「いえ。僕も数年前に来たんです」
「そうなんですか?」
「はい」
「以前はどちらにいらしたんですか?」
ノアは少し考えた。
「いろいろなところを転々としていました」
エリンは首を傾げた。
「いろいろなところ?」
「ええ」
ノアは微笑んだ。
「少し引っ越しが多かったので……」
エリンはそれ以上訊かなかった。誰にでも話したくないことはある。自分にもある。だから無理に聞く必要はないと思った。
午後3時頃、広場の端で小さな騒ぎが起きた。男の子が転び、膝を擦りむいたのだ。泣き声が聞こえると、エリンはすぐに立ち上がった。
「大丈夫?」
男の子の母親が、困った顔をしていた。
「すみません、転んじゃって……」
エリンはしゃがみ込み、傷を確認した。
「少し擦りむいてるね」
男の子は泣きながら頷いた。
「痛いよぅ」
「そうだね。痛かったね」
エリンは持っていた救急セットを開いた。
「ちょっと洗おうね」
男の子は首を振った。
「やだ!」
「しみるのが怖い?」
「うん……」
そのとき、ノアが近づいてきた。
「何かお手伝いしましょうか?」
エリンは顔を上げた。
「ありがとうございます。少し気を紛らわせてもらえますか?」
「もちろんです」
ノアは男の子の前にしゃがんだ。
「こんにちは」
男の子は涙目でノアを見た。
「こんにちは。名前は?」
「サム」
「サムか。かっこいい名前だね」
ノアは微笑んだ。
「僕はノア」
「ノア?」
「うん」
ノアは少し考えた。
「サム、ちょっとお願いがあるんだけど」
「何?」
「僕の手を見てくれる?」
首を傾げるサムにノアは両手を広げた。
「右と左、どっちが大きいと思う?」
サムは涙を拭いながら、ノアの手を見た。
「同じ」
「本当?」
「うん」
「よく見てみて」
サムは真剣な顔になった。その間にエリンは傷を洗い始めた。少し顔をしかめたが、サムは泣かなかった。
「右!」
サムが叫ぶと、ノアは驚いた顔をした。
「右?」
「うん!」
「そうか。じゃあ、右が大きいのかな」
サムは頷いた。
「絶対そう!」
ノアは笑った。
「ありがとう。教えてくれて」
そのときには、エリンは処置を終えていた。
「はい、終わり」
サムが驚いた顔をした。
「もう?」
エリンは微笑んだ。
「頑張ったね」
サムは母親を見た。
「ママ、終わった!」
母親はほっとしたように笑った。
「よかったわね」
エリンは立ち上がった。ノアも立ち上がった。
「ありがとうございました、ベネットさん」
ノアは微笑んだ。
「ウォーカーさん、お疲れさまでした」
エリンも笑った。
「2人でやると、早いですね」
「そうですね」
そのとき、エリンはふと気づいた。ノアの手は、思っていたより大きかった。そして年齢に似合わないほど皺が多かった。指の付け根には、古い傷跡もあった。
「働き者の手」
そんな言葉が浮かんだ。
祭りが終わる頃には、空が茜色に染まっていた。病院の職員たちは、ブースの片づけを始めていた。エリンが備品を箱に詰めているところに、ノアが近づいてきた。
「ウォーカーさん。こちら運びましょうか?」
「ありがとうございます。でも大丈夫です」
ノアは頷いた。
「わかりました」
そして別の箱を持ち上げた。
エリンは少し笑った。
「ベネットさん。本当によく働きますね」
ノアは困ったように笑った。
「そうでしょうか?」
「ええ」
エリンは微笑んだ。
「たまには、休んでください」
「ありがとうございます」
ノアは頷いた。
「ウォーカーさんも休んでくださいね」
「はい」
2人は並んで病院の車へ向かった。少し離れたところで、エミリーがその様子を見ていた。隣にはヌクミズ先生がいた。
「ねえ、先生」
エミリーが言った。
「何?」
「あの2人、最近よく一緒にいますよね」
ヌクミズは2人を見た。
「そうだねえ」
「どう思います?」
ヌクミズは少し考えた。
「2人とも仕事熱心だね」
エミリーは呆れた顔をした。
「先生、そういう意味じゃありません!」
「え?」
「もう、いいです」
エミリーがため息をつくと、ヌクミズは不思議そうに首を傾げた。そしてもう一度2人の背中を見た。
エリンが何かを言った。ノアが笑った。エリンも笑った。
ヌクミズは、少しだけ目を細めた。
「なるほどねぇ」
エミリーが振り返った。
「何がですか?」
「いや、何でもない」
ヌクミズは微笑んだ。
「まだ早いかな」
「何が?」
「さあ?」
今度は、エミリーが首を傾げる番だった。
その夜。エリンは自宅の居間で、祭りでもらった小さな紙袋を開けていた。中には地元の菓子店が作ったクッキーが入っていた。1枚取り出して、口に運ぶ。甘い味が広がった。
エリンは、今日の出来事を思い返した。ミラー夫妻の楽しそうな顔。子供たちの笑い声。ノアと並んで座ったベンチ。転んだ男の子を一緒に手当てしたこと。思い出すと自然に微笑んでいた。
「楽しかったな」
そう思った。
誰かと一緒にいて楽しい。その感覚を久しぶりに思い出した気がした。
エリンはクッキーをもう1枚取り出した。そしてふと考えた。
「ベネットさんは、今日楽しかったのかな?」
誰かのために働いて。誰かのために笑って。いつも誰かを助けている。
「あの人は、何をしたら喜ぶんだろう?」
エリンは少し考えた。そして、心の中で呟いた。
「今度、訊いてみようかな」
それはまだ恋ではなかった。少なくとも彼女はそう思っていた。ただ1人の人間として、ノア・ベネットのことを知りたいと思い始めていた。
同じ頃。ノアは自宅で祭りの片づけを終えた後に持ち帰った書類を整理していた。机の上には子供からもらった小さな絵が置かれていた。今日、サムが描いてくれたものだった。
大きな手をした男が、笑っている。その隣には、看護師らしい女性が描かれていた。2人とも妙に長い脚をしていた。ノアは思わず笑った。
「僕とウォーカーさんか」
そう思った。
子供の絵というのは不思議なものだ。上手ではない。それなのに描いた子供が何を大切に思っているのか、伝わってくることがある。
ノアは絵を机の端に置いた。そして今日の出来事を思い返した。
ウォーカーさんは、男の子に優しく話しかけていた。怖がらせないように。急がせないように。相手の気持ちを尊重しながら。思い出してノアは微笑んだ。
「やっぱりいい看護師さんだ」
そしてもうひとつ
「一緒に仕事ができて、よかった」
とも思った。
それだけだった。少なくとも、そのときは。
ノアは書類を閉じ、部屋の明かりを消した。窓の外には、春の夜が広がっていた。
2人はまだ、互いをファーストネームで呼ばない。仕事以外で会う約束もしていない。互いの過去も、ほとんど知らない。
けれど、少しずつ、確かに。2人の間には信頼と親しみが育ち始めていた。
そしてその先に何が待っているのかを2人はまだ知らなかった。
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