褒められること
ノア・ベネットはポール・メスカルさんを想定して読んでみてください。穏やかな青年で、過去に苦しむ葛藤を上手に演じられる役者さんだと思います。まぁこの作品がハリウッドで映画化されることはありませんが(笑)。
5月の終わり、町には初夏の気配が漂い始めていた。病院の中庭では、花壇のマリーゴールドが黄色い花を咲かせていた。芝生は鮮やかな緑色になり、昼休みには職員たちがベンチに腰掛けて食事を取るようになった。
エリン・ウォーカーがこの町に来て、半年が過ぎていた。彼女はようやくここでの生活を自分のものだと感じ始めていた。
朝、病院へ向かう道。いつも同じルートで散歩をしている老人。交差点の角にあるパン屋。開店前に店先を掃除している女性。そんな風景の一つひとつが、少しずつ馴染みのあるものになっていた。
病院でも仕事を任される機会が増えた。エミリーとはすっかり打ち解け、休日に一緒に買い物へ出かけることもあった。ミラー夫妻の家では、週に数回夕食をご馳走になっていた。
そしてノア・ベネットとも、以前より自然に話せるようになっていた。ただし2人は相変わらず互いを姓で呼んでいた。
「ウォーカーさん」
「はい、ベネットさん」
それが2人の間では当たり前になっていた。
ある日の午後。エリンは病棟の廊下で、ヘレン・ブラウンが退院の準備をしているところに出くわした。数ヶ月前、股関節の手術を受けた女性だった。
「ブラウンさん、いよいよ退院ですね」
エリンが声をかけると、ヘレンは嬉しそうに微笑んだ。
「ええ、やっと家に帰れるわ」
「お庭の薔薇も、きっと待っていますね」
「そうなのよ」
ヘレンは笑った。
「息子がね、今年は綺麗に咲いてるって写真を送ってくれたの」
エリンは微笑んだ。
「それは楽しみですね」
エリンの言葉に頷きながら、ヘレンは少し声を落とした。
「でもね……正直に言うと、まだ少し怖いの」
「何がですか?」
「家に帰ってから、また転んだらどうしようって」
エリンは頷いた。
「そうですよね」
ヘレンはため息をついた。
「病院にいる間は誰かが助けてくれるでしょう? でも家に帰ったら、そうはいかないもの」
そのとき背後から声がした。
「ブラウンさん」
振り返るとノアが立っていた。
「ベネットさん」
ヘレンの顔が明るくなった。
「退院の準備は進んでいますか?」
「ええ。でも、ちょっと不安でね」
「そうですか」
ノアはヘレンの隣に椅子を引き寄せた。
「何が一番心配ですか?」
ヘレンは先ほどエリンに話したことを繰り返した。ノアは最後まで聞いて静かに頷いた。
「そうですね。退院したあとも、気をつけなければならないことはあります」
「やっぱり、そうよね」
「でも、ブラウンさん」
ノアは微笑んだ。
「最初に立つ練習をした日のこと、覚えていますか?」
ヘレンは少し考えた。
「怖くてなかなか立てませんでしたね」
「そうだったわ」
「でも今は歩行器を使って、病棟の廊下を歩けるようになりました」
ヘレンは頷いた。
「退院した後もできることを少しずつ増やしていきましょう。ご自宅での注意点は、もう一度一緒に確認します。必要な支援についても担当の方と相談してありますから」
ヘレンはホッとしたように息を吐いた。
「ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました」
ヘレンが首を傾げた。
「どうしてあなたがお礼を言うの?」
「ブラウンさんが毎日頑張ってくださったからです」
ヘレンは目を潤ませた。
「あなた……本当に優しいのね」
ノアは少し照れくさそうに笑った。
「そんなことはありませんよ」
ヘレンは、ノアの両手を取った。
「あなたに担当してもらえてよかったわ」
ノアは何も言わなかった。ただ穏やかに微笑んでいた。
エリンはその様子を見ていた。いつもの光景だった。患者が回復し退院していく。ノアはそれを心から喜んでいる。
しかしその日の彼にはいつもと少し違うところがあった。ヘレンが手を離した後、ノアは一瞬だけ自分の手を見つめていた。ほんの数秒だった。すぐにいつもの笑顔に戻った。エリンはなぜかその表情が気になった。
夕方。エリンはナースステーションで書類を整理していた。エミリーが隣にやって来る。
「ねえ、エリン」
「何?」
「ブラウンさん、今日退院したんでしょう?」
「ええ」
「よかったわね」
エリンは微笑んだ。
「お庭の薔薇を楽しみにしていらしたから」
エミリーは頷いた。
「ノアも喜んでたでしょう?」
「ええ」
エリンは少し考えた。
「でも……」
「でも?」
「何でもない」
エミリーは首を傾げた。
「何よ! 気になるじゃない」
エリンは少し迷った。
「ベネットさんって、いつも患者さんの回復を喜んでいるでしょう?」
「そうね」
「でもご自分のことは、あまり話さない気がして」
エミリーは少し考えた。
「確かに……」
「そう思う?」
「ええ。そう言われてみれば、そうかもしれないわ」
エミリーは椅子に腰掛けた。
「ノアって誰にでも親切だけど、自分の話はほとんどしないのよね」
「そうなの?」
「ええ。好きな食べ物とか、趣味とか、そういう話ならするけど」
エミリーは少し笑った。
「少し深い話や昔の話になると、うまくかわされちゃうの」
エリンは黙った。
「まあ、誰にだって話したくないことはあるでしょうけど」
エミリーは肩をすくめた。
「それにあの人秘密主義っていうより、単に自分の話をするのが苦手なんじゃないかしら」
エリンは頷いた。
「そうかもしれないわね」
エミリーはエリンを見た。
「でも、どうしてそんなことが気になるの?」
エリンは少し驚いた。
「どうしてって……」
エリンは書類に目を落とした。
「仕事で一緒になることが多いからよ」
「ふうん」
エミリーはそれ以上追及しなかった。ただ少しだけ微笑んでいた。
6月の初め。病院では年に一度の地域向け健康講座が開かれることになった。会場は町の公民館だった。
高齢者の転倒予防や日常生活でできる運動について、病院の職員が講演する。ノアはその講師に選ばれていた。エリンは受付と参加者の案内を担当することになった。
講座の前日。エリンが会議室で資料を整理しているとノアが入ってきた。
「ウォーカーさん」
「はい」
「明日の資料、こちらでよろしいでしょうか?」
ノアは印刷した資料を差し出した。エリンが目を通して感想を述べる。
「すごくわかりやすいと思います」
「ありがとうございます」
「ベネットさん、こういう講演は慣れていらっしゃるんですか?」
ノアは少し困ったように笑った。
「いえ、あまり得意ではありません」
エリンは驚いた。
「そうなんですか? 患者さんとはあんなに自然にお話しされるのに」
「一人ひとりとお話しするのは好きなんですが、大勢の前で話すのは少し緊張します」
エリンは思わず笑った。
「意外です」
「明日は失敗しないように頑張ります」
「大丈夫ですよ」
「そうでしょうか」
「はい」
「ベネットさんのお話はわかりやすいですから」
エリンが微笑みながら答えると、ノアは少し驚いた顔をした。
「ありがとうございます」
「こちらこそ、いつも勉強になります」
ノアは照れくさそうに笑った。エリンはその表情を見て、なんだか嬉しくなった。
講座当日。公民館には50人ほどの参加者が集まっていた。ノアは壇上に立ち、マイクの前で軽く咳払いをした。
「皆さん、こんにちは」
参加者たちが挨拶を返した。
「今日は生活の中でできる簡単な運動について、お話ししたいと思います」
最初の数分間、ノアは少し緊張しているようだった。資料を確認する回数が多く、言葉も普段より慎重だった。
エリンは会場の後方で、その様子を見ていた。「本当に緊張してるんだ」。少し意外だった。
病院ではどんな患者に対しても落ち着いている。でも今は少し違う。エリンはなぜか微笑ましく感じた。
やがてノアは参加者に簡単な運動を実演してみせた。
「では、椅子に座ったまま、ゆっくり膝を伸ばしてみましょう」
参加者たちが動き始めた。
「無理はしないでくださいね。痛みがある場合は、そこで止めてください」
ある老人が手を上げた。
「先生! 膝が伸びないんだが」
ノアはすぐに答えた。
「大丈夫ですよ。伸ばせるところまでで結構です」
「こんなもんでいいのか?」
「はい。十分です」
老人が満足そうに頷く。
そのやり取りをきっかけに、会場の空気が和らいだ。ノアもいつもの調子を取り戻した。参加者の質問に丁寧に答え、冗談を交えながら説明を続けた。講座が終わる頃には、会場から大きな拍手が起こった。ノアは少し照れくさそうに頭を下げた。エリンも拍手をしていた。
講座が終わった後、エリンは公民館の裏手で資料の入った箱を車に積んでいた。そこにノアが近づいてきた。
「ベネットさん! お疲れさまでした」
ノアは小さく息を吐いた。
「緊張しました……」
エリンは笑った。
「最初は、少しそう見えました」
「やっぱり、わかりましたか」
「ええ」
ノアは困ったように笑った。
「お恥ずかしいです」
「でも途中からはいつものベネットさんでしたよ」
エリンは微笑んだ。
「とてもわかりやすかったです」
ノアは少し安心したように笑った。
「ありがとうございます」
エリンはふと尋ねた。
「ベネットさん」
「はい」
「こういうふうに誰かに褒められるのはお好きですか?」
ノアは少し驚いた。
「褒められる……ですか?」
「ええ」
ノアは考えた。
「そうですね。ありがたいことだと思います」
「嬉しいですか?」
ノアは少し困った顔をした。
「どうでしょうか。いえ……やはり嬉しいものですね」
エリンは首を傾げた。
「今、少し考えましたよね?」
ノアは苦笑した。
「そうですね」
エリンも笑った。
「変なことを訊いてしまいました」
ノアは首を振った。
「そんなことはありません」
そして少し間を置いて言った。
「ただ……あまり慣れていないですから」
エリンは驚いた。
「褒められることに?」
「はい」
ノアは微笑んだ。
「昔からあまり器用な人間ではありませんでしたから」
エリンは、何も言わなかった。
ノアはすぐに話題を変えた。
「ウォーカーさんも今日はお疲れさまでした」
「ありがとうございます」
「ゆっくり休んでくださいね」
「ベネットさんも」
2人は微笑み合った。そしてそれぞれの車へ向かった。
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