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神様は見ている  作者: ももらら
傷ついた2人

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12/57

幸せになってもいい

エリンはフローレンス・ピューさんを思い浮かべながら読んでください。傷ついて弱っている姿と芯の強さ、その二面性を完全に演じ切る素晴らしい役者さんです。

 ノアの講演から数日後、病院でちょっとした出来事があった。ノアが担当していた患者の1人が急に容体を悪化させたのだ。

 80代の男性で名前はアーサー・コリンズ。数週間前に脳梗塞を起こし、リハビリテーションを受けていた。ノアは毎日彼の訓練を担当していた。

 アーサーは口数の少ない老人だったが、ノアのことを信頼していた。

「お前さんが来ると少し元気が出る」

 そう言っていた。

 しかしその日の朝、アーサーは突然意識を失った。医師と看護師たちが駆けつけ、懸命な処置が行なわれた。ノアも廊下で待っていた。けれどアーサーは戻らなかった。


 夕方。エリンは病院の裏手にある中庭でノアを見かけた。彼はベンチに座っていた。

 いつもなら誰かと話しているか子供たちのところへ行っている時間だったが……その日は1人だった。

 エリンは少し迷った。声をかけるべきだろうか? そっとしておいたほうがいいだろうか?

 しばらく考えてから近づいた。

「ベネットさん」

 ノアが顔を上げた。

「お疲れさまです、ウォーカーさん」

 いつものように微笑んだ。

 エリンはノアから1人分空いたところを指差して尋ねた。

「ここ、座ってもいいですか?」

「もちろんです」

 エリンが腰を下ろしてから、しばらく何も話さなかった。

 風が吹いた。木々の葉が揺れた。遠くで車の走る音が聞こえた。

 やがてエリンが口を開いた。

「コリンズさんのこと、聞きました。残念でしたね」

「はい」

 ノアは静かに頷くと、小さく言った。

「昨日まで元気だったんです」

 エリンは何も言わなかった。

「昨日も歩く練習をしました」

 ノアは自分の手を見つめた。

「今日はもう少し長く歩けるかもしれないって、話していたんです」

 エリンは黙って聞いていた。

「楽しみにしていらしたんです」

 ノアの声はいつもと変わらなかった。穏やかで、落ち着いていた。だがその横顔は、どこか遠くを見ているようだった。

「僕は……」

 ノアは言いかけて口を閉じた。エリンはそっと待った。

 しばらくしてノアが続けた。

「何もできませんでした……無力でした」

 エリンは彼を見た。

「ベネットさん、そんなことはありません」

 ノアは黙った。

「コリンズさんは、ベネットさんと練習するのを楽しみにしていたんでしょう?」

 頷くノア。

「だったらそれはとても大切なことだったと思います」

 ノアは何も言わなかった。エリンは続けた。

「病気を治すことも、命を救うことも限界があります。助けたい患者さんが助からないこともあります」

 自分に言い聞かせるような言葉だった。看護師として働いていれば、何度も経験することだ。どれだけ努力しても救えない命がある。

 それでも何かをしてあげたいと思う。その思いがときには自分を苦しめる。

「でもだからといって、何もしていなかったことにはならないと思います」

 ノアはゆっくりと顔を上げた。やりきれない顔をしているノアにエリンは微笑んだ。

「コリンズさんは、ベネットさんと過ごす時間を楽しみにしていらしたんですよね」

「はい」

「それはベネットさんがあの方にしてあげられた、大切なことだったと思います」

 ノアはしばらく彼女を見つめていた。そして静かに頷いた。

「ありがとうございます」

 エリンは微笑んだ。

「いえ」

 2人はまた黙ったが、その沈黙は先ほどより少し穏やかだった。


 しばらくしてエリンが言った。

「ベネットさん、いつも患者さんのことを一生懸命考えていらっしゃいますよね」

 ノアは少し困ったように笑った。

「そうでしょうか?」

 エリンは頷いた。

「でもご自分のことは……あまり話されませんね」

 ノアが黙り込んだので、エリンは慌てて付け加えた。

「すみません。変なことを言ってしまいました」

「いえ」

 ノアは首を横に振った。

「そんなことはありません」

 エリンは少し考えてから、静かに尋ねた。

「ベネットさんは、どんなときが幸せですか?」

 ノアの表情が、ほんのわずかに変わった。

「幸せ……ですか?」

「ええ」

 エリンは微笑んだ。

「患者さんが元気になったとき幸せを感じるというのは、よくわかります」

 ノアは頷いた。

「でもそうじゃなくて……ベネットさんご自身のことです」

 ノアは黙った。

 風が吹いた。木々の葉が揺れた。遠くで鳥が鳴いた。

 ノアはしばらく考えていたが、やがて小さく笑った。

「難しい質問ですね」

 エリンは少し驚いた。

「そうですか?」

 ノアは自分の手を見つめた。

「あまり考えたことがありませんでした」

 エリンは黙った。

「自分がどんなときに幸せなのか」

 ノアは少し困ったように笑った。その笑顔を見た瞬間、エリンは胸の奥が締めつけられるのを感じた。

「なぜだろう?」

「こんなに優しい人なのに……」

「誰かのために働き、誰かのために笑い、誰かの回復を心から喜んでいる」

「それなのに自分自身の幸せについては、答えが見つからない」

 エリンはたまらず言葉を繋げた。

「無理していませんか?」

 ノアが顔を上げた。

「え?」

「いつも、誰かのために頑張っていらっしゃるから」

 エリンは少し言葉を探した。

「ご自分のことを後回しにしているんじゃないかと思って」

 ノアは何も言わなかった。それを見てエリンは少し後悔した。

 踏み込みすぎただろうか? まだそれほど親しいわけではないのに。

「すみません……余計なお世話ですよね」

「いえ……そんなことはありません」

 その声はいつもより少し小さかった。

 ノアは微笑もうとしたが、その笑顔はいつものような自然さが見えなかった。どこか無理しているように見えた。

「ありがとうございます……心配していただいて」

 その笑顔を見て、エリンは心が痛むのを感じながら静かに言った。

「ベネットさん。ご自分も幸せになっていいんですよ」

 ノアは動かなかった。まるで聞き慣れない言葉を耳にしたかのようだった。

 エリンは少し恥ずかしくなった。

「何だか偉そうなことを言ってしまいましたね……」

 ノアはエリンを見た。まだ何かを言おうとしているようだった。しかし結局、何も言わなかった。

「ありがとうございます、ウォーカーさん」

 ノアは静かにお礼を伝えた。


 その夜、ノアは自宅の居間で椅子に座っていた。

 部屋の明かりはつけていなかった。窓から差し込む月明かりが床を淡く照らしていた。

 彼は自分の手を見つめていた。

 大きな手だった。

 指は長く、節が目立ち、甲には細かな皺が刻まれていた。古い傷跡もあった。

 ノアはゆっくりと指を曲げた。

 そして今日の出来事を思い返した。

 コリンズさんのこと。ウォーカーさんと中庭で話したこと。

 そしてあの言葉……。

「ご自分も幸せになっていいんですよ」

 ノアは目を閉じた。胸の奥に説明のつかない感覚があった。

 苦しいような。温かいような。懐かしいような。

 ずいぶん長い間、忘れていた感覚だった。

 誰かが自分のことを心配してくれる。

 何かをしてほしいからではない。

 助けてほしいからでもない。

 ただ自分が幸せであるかどうかを気にかけてくれる。

 ノアはゆっくりと息を吐いた。

「僕が幸せに……」

 その言葉を心の中で繰り返した。そして小さく首を振った。


「僕にそんな資格はない」


 ノアは立ち上がった。窓の外には静かな夜が広がっていた。遠くで車の走る音が聞こえた。

 ノアはもう一度自分の手を見た。そして消え入るような声で呟いた。

「ごめんなさい……」

 誰に向けた言葉だったのか。彼自身にもわからなかった。


 同じ頃、エリンは自宅の寝室でベッドに腰掛けていた。

 窓の外には月が浮かんでいた。彼女は今日のノアの表情を思い返していた。

 コリンズさんの死を悼んでいた顔。

 自分の幸せについて尋ねられ、困ったように笑った顔。

 そして……

「ご自分も幸せになっていいんですよ」

 そう言ったときの、あの表情。

 あの顔を思い出すと、エリンは胸の奥がギュッとなるのを感じた。

「どうしてあんな顔をしたんだろう?」

 悲しそうだった。

 驚いているようにも見えた。

 そしてどこか諦めているようにも見えた。

 エリンはゆっくりと息を吐いた。

 誰にでも話したくない過去はある。自分にもある。だから無理に聞こうとは思わなかった。

 けれど……

「あの人にも何かあるのかな」

 そう思った。そしてもう1つ考えた。

「私もいつか話せるだろうか……」

 デレクのこと。逃げてきたこと。今でも怖いこと。自分を責めていること。

 誰にも知られたくなかった。知られたら軽蔑されるかもしれない。「どうして逃げなかったのか?」と責められるかもしれない。

「でもあの人なら……誰の話でもきちんと耳を傾ける、あの人なら」

 そこまで考えて、エリンは首を振った。

「まだ早い」

 そう思った。

 それでも心のどこかで、小さな変化が起きていることを感じていた。

「いつか誰かに話してもいいのかもしれない」

 そう思えるようになっていた。

 エリンはベッドに横になり目を閉じた。

 その夜、彼女は久しぶりに穏やかな眠りについた。

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