育児の専門家?
ノア、勉強熱心です。
4月6日、火曜日。午前11時。ノア・ベネットは病院のリハビリ室で1枚の写真を見ていた。
写真には木製の鳥の餌台が写っている。屋根は新しい板に取り替えられ、傾いていた支柱もまっすぐになっていた。餌台の縁には、小さな茶色い鳥が1羽止まっている。
写真を送ってきたのは、サミュエル・プライスだった。退院してから1週間。最初の数日は、妻に付き添われながら庭へ出ていたらしい。餌台の修理は、近所に住む息子が手伝ったという。
添えられたメッセージには、こう書かれていた。
鳥は戻ってきた。
俺がいなくても、あいつらは勝手に生きていたらしい。
少し腹が立つ。
だが、まあ悪くない。
ノアは笑った。隣で記録を整理していたルークが顔を上げる。
「何かいいことですか?」
「プライスさんから写真が届いたんだ」
ノアは画面を見せた。ルークは目を細めた。
「ああ、餌台!」
「直したみたいだね」
「よかったですね。あの人、ずっと気にしてましたから」
「うん」
ルークは写真を眺めた。
「でも退院前はあんなに手すりを嫌がってたのに、結局つけたんですよね」
「勝手口にはね」
「何が決め手だったんでしょう」
ノアは携帯電話をしまった。
「手すりをつけることが目的じゃなくて、庭へ出ることが目的だって納得してくれたんだと思う」
ルークは頷いた。
「なるほど」
「プライスさんにとって大切なのは、誰の助けも借りないことじゃない。自分の生活を取り戻すことだから」
ルークは少し考えた。
「僕、あの人が手すりを拒否するたびに、頑固だなって思ってました」
「頑固なのは確かだよ」
ノアが答えると、ルークは笑った。
「そこは否定しないんですね」
「本人も認めてるから」
ノアは机の上の記録に目を落とした。
「でも、何を守ろうとして頑固になっているのか、考える必要はあるよね」
ルークは真面目な顔で頷いた。
「はい」
ノアはもう一度写真を開いた。小さな鳥が修理された餌台に止まっている。プライスはきっと今朝も庭へ出ただろう。妻に声をかけられ、手すりにつかまり、慎重に2段の階段を下りたに違いない。
以前とまったく同じ生活ではない。それでも彼は再び自分の庭に立っている。
ノアは返信を打った。
写真ありがとうございます。
鳥が戻ってきてよかったですね。
でも屋根の上に登って修理したのはプライスさんじゃありませんよね?
数分後、返信が来た。
俺を何歳だと思ってる。
息子に決まってるだろう。
ノアは笑った。続けてもう1通届いた。
だが次は俺がやる!
ノアはため息をつき、ルークに画面を見せた。ルークは声を上げて笑った。
午後0時40分。職員食堂の窓際で、エリンはスーザン・ハリスと向かい合っていた。2人の間には、来月の勤務表の案が置かれている。
「夜勤については、主治医の意見も確認しながら調整していきましょう」
「ありがとうございます」
「ただし……あなたが希望していた新人看護師の研修は、予定どおり担当してもらいたいと思っているの」
エリンは顔を上げた。
「本当ですか?」
「もちろん。体調を見ながらだけどね」
スーザンは勤務表を指さした。
「あなたが作った患者さんとのコミュニケーションに関する資料、評判がいいのよ。新人だけじゃなく、経験のある看護師からも参考になったという声が出ている」
エリンは嬉しそうに笑った。
「よかったです」
「だからできることは続けてほしい。ただ無理をして倒れられたら困るから、その点は遠慮なく相談して」
「はい」
スーザンは書類を揃えた。
「それから……これは上司としてではなく、少し年上の人間としての助言だけど」
エリンは姿勢を正した。
「何でしょう?」
「周囲が心配してくれることと、自分で何も決められなくなることは別よ」
スーザンは微笑んだ。
「妊娠すると、みんな親切になるでしょう? もちろんありがたいことよ。でも親切が行き過ぎることもある。自分の体のことも、仕事のことも、あなた自身の意見を大切にしなさい」
エリンは頷いた。
「ありがとうございます」
スーザンは立ち上がった。
「ところで、ノアはどう?」
エリンは少し笑った。
「かなり張り切ってます」
「そうでしょうね」
「もうベビーベッドの場所を決めて、家具店まで見に行ったんです」
スーザンは声を上げて笑った。
「あら、まあ!」
「まだ何ヶ月も先なのに」
「いいじゃない。楽しみにしてくれているんでしょう?」
「はい。それは本当に嬉しいんです」
エリンは笑った。
「でも放っておいたら来週には組み立ててしまいそうで」
スーザンは鞄を持った。
「それなら1つ仕事を与えたらどう?」
「仕事?」
「今のうちに、家の中の不要なものを整理してもらうの。赤ちゃんが生まれたら、物は増える一方だから」
エリンは考え込んだ。
「なるほど……」
「ノアならきっときれいに片づけてくれるわ」
「たぶん収納棚の寸法から測り始めます」
2人は笑った。
その日の午後。ノアは病院の正面玄関を出たところで声をかけられた。
「ノア・ベネット先生」
振り返ると男性が2人立っていた。1人は40代半ば、もう1人は30代前半だろうか。どちらも地味なスーツ姿だった。40代半ばの男性にはどこか見覚えがあるような気がしたが、いつ会ったのかはわからなかった。年上の男が身分証を示した。
「州警察のマイケル・グラントです。こちらは同僚のデイヴィッド・ロス」
「何かありましたか?」
「マーティン・クーパー氏について、少しお話を伺いたいのですが」
ノアは頷いた。
「わかりました」
グラントは病院の建物を見上げた。
「お仕事中でしょうか?」
「今は休憩時間です。少しなら大丈夫です」
「ありがとうございます。できれば人目の少ない場所で」
ノアは2人を、病院の1階にある小さな面談室へ案内した。3人が座ると、グラントは手帳を開いた。
「クーパー氏をご存じですね?」
「はい。以前、病院の設備に関する仕事でお会いしたことがあります」
「最近も会いましたか?」
「3月8日に病院で。それから10日の夜に自宅へ来られました」
グラントはペンを動かした。
「10日の夜……ですか」
「はい」
「何時頃でしょう?」
「午後7時前後だったと思います」
「どのようなお話を?」
ノアは少し考えた。
「仕事の依頼でした」
「具体的には?」
「ある人物に会ってほしいという話でした。ただ僕の仕事とは関係がなかったので、お断りしました」
グラントは顔を上げた。
「その人物の名前を覚えていますか?」
ノアは頷いた。そしてクーパーから聞いた名前を告げた。グラントは手帳に書き留める。
「その方をご存じですか?」
「いいえ」
「クーパー氏は、なぜあなたに会ってほしいと?」
「わかりません。詳しい説明はありませんでした」
グラントは観察するようにノアを見た。
「クーパー氏とは、以前から親しかったのでしょうか?」
「いいえ。個人的な付き合いはありません」
「では、なぜご自宅まで訪ねてきたと思いますか?」
「僕にもわかりません」
ロスが口を開いた。
「そのときクーパー氏は興奮していましたか?」
「少し強引な印象は受けました」
「脅されたりは?」
ノアは1拍置いた。
「依頼を断ると……後悔すると言われました」
グラントが顔を上げた。
「それは脅迫と受け取れる発言ですね」
「そうかもしれません。ただ具体的に何かをすると言われたわけではありません」
グラントは頷き、さらにいくつか質問した。
クーパーが車で来たか?
誰か同行者がいたか?
家にどのくらい滞在したか?
ノアは覚えている範囲で答えた。やがてグラントは手帳を閉じた。
「ご協力、ありがとうございます」
「いえ」
「今後、追加でお話を伺うかもしれません」
「わかりました」
グラントは立ち上がった。そして扉へ向かいかけたところで振り返った。
「ベネット先生」
「はい」
「クーパー氏が亡くなったことについて、どう思われますか?」
「驚きました」
「それだけですか?」
「面識のある人が殺されたかもしれないと聞いて、気持ちのいいものではありません」
グラントは納得したように頷いた。
「そうでしょうね」
それから軽く頭を下げた。
「失礼しました」
2人が去った後、ノアは面談室に1人残った。窓の外では病院の庭木が風に揺れている。
彼は時計を見た。休憩時間はあと10分ほど残っていた。ノアは椅子に座り直し、両手を膝の上に置いた。グラントの最後の質問が頭に残っていた。
「どう思われますか?」
ノアは目を閉じた。クーパーが死んだ。もう彼が自宅へ来ることはない。エリンに何かを告げることもない。そのことに安堵している自分がいた。同時に誰かの死によって安心を得ていることに嫌悪感もあった。
ノアはゆっくりと息を吐いて立ち上がった。午後の患者が待っている。彼にはまだ仕事があった。
4月9日、金曜日。午後6時15分。エリンは帰宅すると、居間のテーブルに見慣れない冊子が置かれていることに気づいた。表紙には、赤ん坊を抱いた男女の写真が印刷されている。
『はじめての育児ガイド』
エリンは冊子を手に取った。中には付箋が何枚も貼られていた。
「ノア?」
台所から返事があった。
「おかえり」
「ただいま。これどうしたの?」
ノアが顔を出した。
「ああ、それ。病院の売店で見つけたんだ」
「買ったの?」
「うん」
エリンはページをめくった。付箋にはノアの字で細かなメモが書かれている。
『抱っこの姿勢』
『睡眠環境』
『沐浴』
『父親ができること』
エリンは笑った。
「勉強熱心ね」
ノアは少し照れくさそうに笑った。
「知らないことばかりだから」
「そうね。私も看護師だからって、何でも知ってるわけじゃないし……」
エリンは冊子を閉じた。
「でも1つだけ言っていい?」
「何?」
「あなた、赤ちゃんが生まれるまでに育児の専門家になりそう」
ノアは笑った。
「それは無理だよ」
「どうして?」
「本を読んだだけじゃ、実際にできるようにはならないから」
エリンは少し驚いた顔をした。
「リハビリでもそうだけど、知識があることと、目の前の人に合わせて動けることは違うでしょう?」
「そうね」
「だからきっと失敗もすると思う」
ノアは冊子を見た。
「赤ちゃんが泣いてる理由がわからなかったり、うまく抱っこできなかったり……」
エリンは彼の隣に立った。
「私だって同じよ」
「だったら一緒に覚えよう」
エリンが頷いた。
「どちらかが完璧になる必要なんてないんだから。2人で少しずつ親になればいいのよ」
ノアも頷いた。
「うん!」
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