湖畔のプロポーズ
ノアとエリン、夫婦になります。
4月11日、日曜日。午前10時。ノアは町の中心部にある小さな花屋の前で立ち止まった。
店先には色とりどりの花が並んでいる。黄色いチューリップ。白いマーガレット。淡いピンクのバラ。
彼がしばらく花を眺めていると、店員が声をかけてきた。
「何かお探しですか?」
「花束をお願いしたいんですが」
「贈り物ですか?」
「はい」
「どなたに?」
ノアは照れくさそうに答えた。
「大切な人に……」
店員は微笑んだ。
「それでしたら、どんな雰囲気がお好きでしょうか?」
ノアはエリンの顔を思い浮かべた。彼女は派手なものよりも、自然で落ち着いた色合いを好む。だが明るい花を見ると、子どものように喜ぶこともある。
「春らしい感じがいいです」
「かしこまりました」
店員は淡いピンクのバラと白い小花を組み合わせた。そこに薄い緑色の葉を添える。ノアは出来上がった花束を見つめた。
「きれいですね」
「ありがとうございます」
彼は花束を受け取って店を出た。車の助手席に花束を置き、しばらく眺めた。その隣には小さな紙袋がある。中には濃紺の指輪の箱が入っていた。
ノアはゆっくりと息を吸った。今日、エリンに伝えよう。そう決めていた。
午後3時。ノアとエリンは、町の外れにある湖へ来ていた。昨年の秋、2人が初めて気持ちを確かめ合った場所だった。
湖畔には春の花が咲き始めている。水面は穏やかで、遠くには小さなボートが浮かんでいた。エリンは車から降りると大きく伸びをした。
「気持ちいい!」
ノアは笑った。
「今日は暖かいね」
「うん。ここに来るの、久しぶりだね」
「そうだね」
2人は湖畔の遊歩道を歩いた。途中、ベンチに座っている老夫婦がいた。夫が妻の肩に上着をかけている。エリンはその姿を見て微笑んだ。
「いいな……」
ノアは彼女を見た。
「何が?」
「ああいうの。何十年も一緒にいて、自然に相手のことを気にかけられる関係」
ノアは頷いた。
「そうだね」
「私たちも、あんなふうになれるかな?」
「きっと……いや絶対なれるよ」
エリンは頷きながら嬉しそうに笑った。
2人はしばらく歩いた。やがて湖を見渡せる小さな広場に出た。そこには木製のベンチが1つ置かれている。
ノアは立ち止まった。
「エリン……」
「何?」
彼は緊張していた。唇が乾いている。
エリンは首を傾げた。
「どうしたの?」
ノアは大きく息を吸った。
「君に……話したいことがあるんだ」
エリンは彼を見た。
「うん」
ノアはしばらく言葉を探してから口を開いた。
「僕は……ずっと自分の人生に何かを期待することが苦手だった」
エリンは黙って聞いていた。
「明日が来ることも、来年が来ることも、ただ当たり前に受け止めていた。何かを楽しみにすることが、あまりなかったんだ」
ノアは彼女の手を握った。
「でも……君に出会ってから変わった」
エリンの目に光るものが浮かんだ。
「君と一緒に食事をすること。仕事から帰って、君の顔を見ること。休みの日に、どこかへ出かけること」
ノアは微笑んだ。
「そんな何でもないことが、僕にはすごく大切になった」
エリンはゆっくりと頷いた。
「うん……」
「そして今、僕たちには赤ちゃんがいる」
ノアが彼女のお腹に視線を移す。
「まだ会ったこともないのに、もう会いたくて仕方がない」
エリンは笑った。
「知ってる」
ノアも笑った。
「そうだね」
彼は真面目な顔になった。
「でも……僕が君に伝えたいのは、赤ちゃんのことだけじゃないんだ」
ノアは続けた。
「君が妊娠したから、結婚したいわけじゃない」
エリンは息を止めた。
「もちろん、赤ちゃんのことは大切だよ。でもそれとは別に……」
ノアは彼女の手を両手で包んだ。
「僕は君と生きていきたい」
エリンの頬を涙が伝った。
「嬉しいことがあったら、一番に君に話したい。悲しいことがあったら、君のそばにいたい。何かで意見が食い違っても、ちゃんと話し合って、また一緒に歩いていきたい」
彼は少し笑った。
「僕は完璧な人間じゃない。きっと君を困らせることもあると思う」
エリンは首を振った。
「それでも……君と家族になりたい」
コートのポケットから小さな箱を取り出した。そしてゆっくりと箱を開けた。中には1粒のダイヤモンドが輝く指輪が入っていた。
「エリン・ウォーカーさん……」
エリンは涙を拭うことも忘れていた。
「僕と結婚してくれませんか?」
しばらく風の音だけが聞こえた。エリンはノアを見つめた。彼女の目にはノアだけが映っていた。世界中の風景が消えてノアだけが……。
エリンはゆっくりと頷いた。
「はい……喜んで」
ノアの目が大きく見開かれた。そして絞り出すように言った。
「ありがとう……」
エリンは笑った。
「もう。そんな顔しないで!」
「どんな顔?」
「断られると思ってたみたいな顔」
ノアは少し困ったように笑った。
「緊張してた……」
エリンは声を上げて笑った。ノアが指輪を取り出した。
「つけてもいい?」
エリンは左手を差し出した。
「もちろん!」
ノアは優しく指輪を彼女の薬指にはめた。少しだけ緩かった。
ノアが気まずそうに笑った。
「サイズ……少し大きかったみたいだ」
エリンは指輪を見て笑った。
「大丈夫! 直してもらえばいいんだから」
エリンは指輪を見つめた。小さなダイヤモンドが、春の日差しを受けて輝いていた。
「きれい……」
「気に入ってくれた?」
「すごく……」
エリンはノアの首に腕を回した。ノアは彼女を抱きしめた。エリンが彼の肩に顔を埋めた。頭をノアの肩にグリグリと押しつける。
「私も……あなたと生きていきたい」
「うん……」
「嬉しいことも、悲しいことも、全部一緒に」
「うん……」
「ノア……愛してる」
ノアは彼女を強く抱きしめた。
「僕も愛してる」
2人はしばらくそのままでいた。湖の向こうから、鳥の声が聞こえた。春の風が2人の髪を揺らしていた。
午後5時半。2人は帰宅した。エリンは居間のソファに座り、何度も指輪を眺めていた。ノアは台所で夕食の準備をしている。
「ノア。これ、いつ買ったの?」
「先月の終わり頃」
エリンは目を丸くした。
「そんな前から?」
「うん」
「全然気づかなかった!」
ノアは笑った。
「よかった……」
エリンは少し考えた。
「もしかして、あのときの片づけって……」
ノアは手を止めた。
「あのとき?」
「何か隠してたでしょう?」
「気づいてた?」
「何となく」
ノアは肩をすくめた。
「隠すの……あまり得意じゃないんだ」
エリンは指輪を見つめて静かに言った。
「ありがとう」
ノアは彼女を見た。
「何が?」
「私を選んでくれて……」
「僕のほうこそ。選んでくれてありがとう、エリン」
「これからも、よろしくね」
ノアは頷いた。
「こちらこそ!」
その夜。エリンが眠った後、ノアは1人で居間にいた。テーブルの上には今日買った花束が飾られている。
淡いピンクのバラ。白い小花。春らしい柔らかな色合い。
ノアはその花を見つめていた。ふとダニーの言葉を思い出した。
「幸せになれよ」
「今度こそ、ちゃんと自分の幸せも大事にしろよ」
ノアはゆっくりと息を吐いた。
今日エリンに結婚を申し込んだ。
彼女は喜んでくれた。
自分はこれから彼女と家族になる。
その事実がまだ少し信じられなかった。
ノアは自分の手を見た。傷の残る、しわの多い手。エリンが好きだと言ってくれた手。今日その手で彼女の指に指輪をはめた。
ノアは静かに目を閉じた。
「僕は幸せになってもいいのだろうか……」
その問いはまだ心の奥に残っていた。それでも今日は少し違う答えが浮かんだ。
「幸せになりたい」
ノアはゆっくりと目を開けた。そして花束を見つめた。
明日になれば、エリンが目を覚ます。2人で朝食を食べる。仕事へ行く。帰ってきたら、また一緒に夕食を食べる。そんな日々がこれからも続いていく。
ノアは静かに微笑んだ。そして寝室へ向かった。
扉を開けるとエリンが眠っていた。左手の薬指には指輪が輝いている。
ノアはベッドの端に腰を下ろした。そっと彼女の手を取った。
「ありがとう」
小さく呟いた。エリンは眠ったまま彼の手を握り返した。
ノアはしばらくその手を見つめていた。そして彼女の隣に横たわった。
窓の外には春の夜が広がっていた。
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