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神様は見ている  作者: ももらら
幸せになる資格

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72/75

ノア、大学時代

ダニーは熱い男なのです。

 7年前の9月。大学の講義室には100人近い学生が集まっていた。

 ノア・ベネットは、後方の席に1人で座っていた。26歳。周囲の学生より、少し年上だった。

 大学に入学するまで、いくつかの遠回りをしていた。そのことを彼は誰にも話していなかった。

 机の上には分厚い解剖学の教科書とノートが置かれている。

 講義が始まる10分前。ノアは前回の内容を復習していた。

「おい、そこ空いてるか?」

 突然、声をかけられた。顔を上げると、背の高い青年が立っていた。

 明るい茶色の髪。人懐っこい顔。肩には今にも破れそうな大きな鞄をかけている。

「空いてるよ」

 ノアが答えると、青年は隣に座った。

「助かった。前の席しか空いてなかったら、教授に居眠りがばれるところだった……」

 ノアは少し笑った。

「講義が始まる前から、寝るつもりなの?」

「昨日、徹夜したんだ」

「勉強で?」

「いや。友達とオンラインゲームをやってた」

 ノアは教科書に目を戻した。青年は、机の上を覗き込んだ。

「復習してんの?」

「うん」

「真面目だな」

「そうかな?」

 青年はノアのノートを見た。

「字まできれいだ」

 ノアは少し困ったように笑った。

「ありがとう」

 青年は手を差し出した。

「俺、ダニエル・マーフィー。ダニーでいい」

 ノアはその手を握った。

「ノア・ベネット」

「よろしくな、ノア」

「よろしく」

 ダニーは、しばらくノアを見ていた。そして突然言った。

「お前、ちょっと気取ってるな」

 ノアは目を丸くした。

「え?」

「いや……悪い意味じゃないけど。なんか妙に落ち着いてるし」

 ノアは苦笑した。

「そう見える?」

「見える。俺たちと同い年じゃないだろ?」

「26歳だよ」

 ダニーは目を見開いた。

「26!?」

周囲の学生が振り返った。ノアは慌てて声を落とした。

「静かに」

ダニーは口を押さえた。そして小声で言った。

「悪い。でも26ってことは、俺より5つも上じゃん」

「そうだね」

「なんで今、大学に?」

 ノアは少し考えた。

「勉強したいと思ったから」

 ダニーは眉を上げた。

「それだけ?」

「うん」

 ダニーはしばらくノアを見ていた。そして、肩をすくめた。

「まあ、いいか……」

 そのとき教授が教室に入ってきた。ダニーは慌てて教科書を開いた。しかしすぐにノアへ顔を寄せた。

「なあ」

「何?」

「教科書……今日のところ、どこ?」

 ノアは笑った。


 2週間後。大学の図書館。ノアは机に向かって勉強していた。向かい側ではダニーが頭を抱えている。

「無理だ……」

 ノアは顔を上げた。

「何が?」

「解剖学」

「まだ始まったばかりだよ」

「だから無理なんだよ!」

 ダニーは教科書を閉じた。

「筋肉の名前が多すぎる。誰だ? こんなに名前をつけたやつ」

 ノアは笑った。

「一度に覚えようとするからだよ」

「じゃあ、どうすりゃいいんだ?」

「まず部位ごとに分けてみよう」

 ノアは紙を取り出して簡単な図を描いた。

「ここが肩甲骨。こっちが上腕骨」

「うん」

「この筋肉は、どこからどこにつながってると思う?」

 ダニーは図を覗き込んだ。

「ここから、ここ?」

「そう。じゃあ、収縮したらどんな動きになる?」

 ダニーは自分の腕を動かした。

「あ、そうか!」

 ノアは頷いた。

「そういうふうに動きと結びつけると覚えやすいよ」

 ダニーはしばらく図を見つめていたが、顔を上げて感心したように言った。

「ノア、教えるの上手いな」

「そう?」

「教授よりわかりやすい」

 ノアは苦笑した。

「それは言いすぎだよ」

「いや、本当だって!」

 ダニーはノアの肩を叩いた。

「よし。今日からお前、俺の家庭教師な」

「家庭教師?」

「そう。報酬はコーヒー1杯」

 ノアは笑った。

「安いね」

「学生なんだから仕方ないだろ」

「じゃあ、コーヒー2杯で」

 ダニーは大げさに頭を抱えた。

「ぼったくりだ!」

 図書館の司書が2人を睨んだ。

 ノアは慌てて口元に指を当てた。ダニーは小さく手を上げた。

「すみません……」

 2人は顔を見合わせ、声を殺して笑った。


 10月。大学の食堂。ダニーはノアの向かいに座り、ハンバーガーを頬張っていた。

「なあ、ノア」

「何?」

「お前、彼女いないの?」

 ノアは水を飲んでいた手を止めた。

「いないよ」

「マジで?」

「うん」

「なんで?」

 ノアは少し困ったように笑った。

「なんでって言われても……」

「お前、顔はいいし、頭もいいし、性格は……まあ、ちょっと堅いけど」

「ありがとう……かな?」

「褒めてんだぞ」

 ダニーは身を乗り出した。

「誰か紹介してやろうか?」

「いいよ」

「遠慮すんなって」

「遠慮じゃないんだ」

 ノアは少し考えた。

「今は勉強に集中したいから」

 ダニーは呆れた顔をした。

「お前、本当に真面目だな……」

「よく言われる」

「そりゃそうだ。いつも俺が言ってんだから」

 ノアは笑った。

 そのとき食堂の入口から1人の女性が歩いてきた。

 長い金髪。整った顔立ち。周囲の学生たちが、自然と彼女に目を向けた。

 ヴァネッサ・リード。同じ学部の学生だった。彼女はノアの前で足を止めた。

「ノア」

 ノアは顔を上げた。

「やあ、ヴァネッサ」

「今日の午後、時間ある?」

「午後は図書館に行く予定だけど」

「それって絶対行かないとダメなの? 映画でも観に行きましょうよ」

 ノアは少し考えた。

「ごめん……。今日はダニーと勉強する約束があるんだ」

 ヴァネッサがダニーを睨むように見た。

「そう……」

 ダニーはハンバーガーを持ったまま2人を見ていた。

 ヴァネッサは笑顔を作った。

「じゃあ、また今度ね」

「うん」

 彼女が去った後、ダニーは口を開けたままノアを見つめた。

「お前……」

「何?」

「今、何をしたかわかってる?」

 ノアは首を傾げた。

「約束があるって伝えたけど」

 ダニーは頭を抱えた。

「違う! ヴァネッサ・リードだぞ!」

「知ってるよ」

「学部で1番人気の女だぞ!」

 ノアは少し困ったように笑った。

「そうなんだ……」

 ダニーは椅子にもたれた。

「あんな女の誘いを断るなんて! お前、絶対にどこかおかしい……」

 ノアは笑った。


 11月。大学で妙な噂が広まり始めた。

 ノアは自分より年下の学生たちを見下している。

 成績がいいことを鼻にかけている。

 女性からの誘いを断るのは、自分に釣り合う相手がいないと思っているからだ。

 最初は誰が言い始めたのかわからなかった。やがてヴァネッサとその取り巻きが関係していることがわかってきた。

 ノアは噂を知っても何も言わなかった。

 授業に出る。勉強する。図書館へ行く。いつもと変わらない日々を過ごしていた。しかしダニーは違った。

 ある日の夕方。大学近くのダイナーで、ダニーは1人で食事をしていた。いつもなら隣にノアがいるのだが、彼は大学へ忘れ物を取りに行ったので、1人で食事をしていたのだ。

 隣のテーブルでは数人の学生がノアの話をしている。

「ベネットって、何か感じ悪いよな」

「わかる。いつも勉強ばかりしてるし」

「ヴァネッサの誘いを断ったって?」

「自分のほうが上だと思ってるんじゃない?」

 ダニーはフォークを置いた。

「おい!」

 学生たちが振り返った。ダニーは立ち上がった。

「今……誰の話をしてた?」

 1人が笑った。

「ベネットだよ。お前、あいつと仲いいんだろ?」

「そうだ」

「よくあんなやつと仲良くできるな。何を考えているかわからない変人と」

 ダニーは静かにその学生を見つめた。

「お前……ノアとちゃんと話したことあるのか?」

「いや、別に……」

「だったら、何がわかるんだよ!」

 学生は肩をすくめた。

「噂だよ。そんなに怒るなって」

 ダニーは一歩近づいた。

「噂だからって、何を言ってもいいのか?」

 周囲が静まり返る。ダニーは声を荒らげた。

「俺の友達を悪く言うんじゃねえ!」

 学生たちはバツが悪そうに彼を見た。

「ノアは誰かを見下したりしねえ! 俺が勉強で困ってたときだって、何時間も付き合ってくれた。わからないところがあれば、何度でも教えてくれた」

 ダニーは続けた。

「自分がどれだけ勉強してるかなんて、一度も自慢したことがない。あいつが他人に優しくしてるところを俺は何度も見てる」

 学生たちは黙っていた。

「それなのにお前らは、ろくに話したこともない相手を勝手に決めつけてる」

 ダニーは拳を握った。握った拳からギリギリと音が聞こえてきそうなくらいだ。ダニーは心底怒っていた。

「ふざけんなよ!」

 そのとき背後から声がした。

「ダニー……」

 振り返るとノアが立っていた。彼は少し驚いた顔をしていた。

「ノア……」

 ダニーは口を閉じた。ノアは学生たちを見た。そして静かに頭を下げた。

「騒がせて、ごめん」

 ダニーは目を見開いた。

「おい!」

 ノアは彼を見た。

「ダニー、行こう」

 ダニーは何か言いかけた。しかしノアの表情を見て口を閉じた。2人は店を出た。


 外では冷たい風が吹いていた。街路樹の葉が歩道の上で踊っている。

 ダニーはしばらく無言で歩いていた。やがて、ノアが口を開いた。

「ごめん」

 ダニーは立ち止まった。

「何がだよ?」

「僕なんかのことで嫌な思いをさせて……」

 ダニーはノアを見た。

「お前、何言ってんだ?」

 ノアは少し困ったように笑った。

「いや……僕のせいで」

「違うだろ!」

 ダニーが声を上げた。ノアは驚いた。

 ダニーは深く息を吸った。

「お前さ……」

「うん」

「なんでいつも自分のことをそんなふうに言うんだよ?」

 ダニーは続けた。

「『僕なんか』とか、『僕のせいで』とか。お前、よく言うだろ?」

 ノアは視線を落とした。

「そうかな……」

「そうだよ!」

 ダニーはノアの肩をつかんだ。

「俺が怒ったのは、俺が怒りたかったからだ。お前から頼まれたわけじゃない」

 ノアは顔を上げた。

「でも……」

「でも、じゃねえ!」

 ダニーは彼をまっすぐ見た。

「お前は……俺の大切な友達なんだよ」

 ノアは何も言えなかった。ダニーは続けた。

「その友達を悪く言われたら、腹が立つに決まってるだろ」

 ノアの目が揺れた。

「僕なんかのために、あんなに怒ってくれるなんて……」

 ダニーは呆れたように天を仰いだ。

「また言った……」

「え?」

「『僕なんか』って」

 ノアは口を閉じた。ダニーは彼の肩を軽く叩いた。

「いいか、ノア」

「うん」

「お前も……俺の大切な友人であるノア・ベネットを軽く扱うのか?」

 ノアは目を見開いた。ダニーは真剣な顔で続けた。

「たとえ本人でも許さないぞ!」

 ノアは俯いた。

「ごめんなさい……」

 ダニーは大きく息を吐いた。

「違う。そういうときは……ありがとうだ!」

 ノアが顔を上げた。ダニーは笑った。

「ほら、言ってみろ」

 ノアは少し困ったように笑った。そしてゆっくりと言った。

「ありがとう、ダニー……」

 ダニーは大きく頷いた。

「おう!」


 その瞬間、ノアの胸の奥で何かがほどけた。


 誰かが自分のために怒ってくれる

 自分が頼んだわけでもないのに

 何の見返りも求めずに

 ただ友達だからという理由で


 ノアはそんなことがあるのだと、初めて知った気がした。

 ダニーは歩き始めた。

「ほら、行くぞ」

「どこへ?」

「飯だよ。さっき途中で出てきちまったからな」

 ノアは笑った。

「そうだね」

「今日はお前のおごりな」

「え?」

「俺……友達のためにあんなに頑張ったんだぞ!」

 ノアは声を上げて笑った。

「わかったよ」

 ダニーは満足そうに頷いた。

「よし!」

 2人は並んで歩き始めた。


 3年後。5月。大学の卒業式。青い空の下、学生たちが記念写真を撮っていた。

 ノアは卒業証書を手に立っていた。ダニーが駆け寄ってくる。

「ノア!」

「ダニー」

「卒業だぞ!」

「そうだね」

 ダニーはノアの肩を抱いた。

「いやあ、長かったな!」

 ノアは笑った。

「3年間だよ」

「俺にとっては10年くらいに感じた」

「それは大変だったね」

「お前がいなかったら、絶対に卒業できなかった」

 ノアは首を振った。

「そんなことないよ。君が頑張ったからだ」

 ダニーは笑った。

「そういうところだよな……」

「何が?」

 ダニーは真面目な顔になった。

「ノア」

「うん」

「俺、お前のこと……尊敬してるんだ」

 ノアは驚いた。

「僕を?」

 ダニーは頷いた。

「頭がいいからとか、成績がいいからじゃない」

 彼はノアをまっすぐ見た。

「お前は人に優しくできる。相手が誰でもちゃんと向き合おうとする」

 ノアは黙っていた。

「俺が何度同じことを聞いても、嫌な顔ひとつしなかった。困ってるやつがいたら、自分の時間を削ってでも助けてた」

 ダニーは笑った。

「ノアは俺にとってのお手本だ」

 ノアの目が揺れた。

「そこまで優しくできる人間は、そうそういない」

 ノアは、しばらく何も言えなかった。ダニーは彼の肩を叩いた。

「だから……これからもそのままでいろよ」

 ノアは顔を上げた。そして、ゆっくりと頷いた。

「ありがとう、ダニー」

 ダニーは笑った。

「おう!」

 2人は卒業式の会場を背に写真を撮った。その写真は、今もノアの家で大切に飾られている。

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