知らない約束
指輪のサイズってわからないですよね。
3月24日、水曜日。午後7時。ノアとエリンは、夕食を終えて居間でくつろいでいた。
テレビでは古い映画が放送されている。エリンはソファに座り、ノアは隣で本を読んでいた。しばらくしてエリンが口を開いた。
「ねえ、ノア……」
「何?」
「私たち、結婚についてちゃんと話したことなかったよね?」
ノアがテレビを消して、読んでいた本を閉じる。
「そうだね。ちゃんとは話してなかった」
エリンは膝の上で両手を組んだ。
「赤ちゃんができたから、っていうだけじゃないんだけど……。私、あなたとこれからも一緒にいたいと思ってる」
ノアが大きく頷いた。エリンは続けた。
「でも……結婚って、ただ一緒に暮らすのとは違うでしょう? 家族になるって、どういうことなのかなって……」
ノアは少し考えた。
「僕も最近よく考えてる」
「本当?」
「僕は家族っていうものを、あまり知らないから……」
エリンは黙って聞いていた。
「子どもの頃から、普通の家庭がどういうものなのか、よくわからなかった」
ノアは自分の手を見た。
「でも……君と暮らすようになって、少しずつわかってきた気がするんだ」
「どんなこと?」
ノアは彼女を見た。
「帰ってきたときに、誰かがいること。一緒に食事をして、今日あったことを話して、時々意見が食い違って……それでも、また明日も一緒にいること」
ノアは微笑んだ。
「そういうことなのかなって」
エリンが小さく頷いた。
「私も、そう思う。でも結婚したら、もっといろんなことがあると思うよ」
「そうだね」
「お金のこととか、仕事のこととか、子どものこととか」
「うん」
「喧嘩もするかもしれない」
ノアは笑った。
「もうしてるよ」
エリンが目を丸くした。
「いつ?」
「この前、食器の洗い方で」
「あれは喧嘩じゃないわ。指導よ」
ノアは声を上げて笑った。つられてエリンも笑った。その後彼女は真面目な顔に戻った。
「あなたは、どう思ってる?」
ノアの目には迷いがあった。だが以前のように視線をそらすことはなかった。
「僕は君と一緒にいたい。赤ちゃんが産まれても。その後も。ずっと……」
彼は少し考えた。
「ただ……結婚については、ちゃんと考えたいんだ」
エリンは微笑んだ。
「私も」
ノアは彼女の手を取った。
「君が妊娠したから、責任を取るために結婚するんじゃなくて……」
「うん」
「僕が君と結婚したいと思うからそうしたい」
エリンの目が潤んだ。
「それ……すごく嬉しい」
「本当?」
「うん」
エリンは彼の手を握り返した。
「私もそう思ってる」
2人は、しはらく向かい合っていた。
結婚する
その言葉が、初めて現実の重さを持った。不思議と怖くはなかった。むしろこれから何を話し合えばいいのか、少しずつ見えてきた気がした。
3月27日、土曜日。午後2時。ノアは町の中心部にある小さな宝飾店の前に立っていた。ショーウィンドウには指輪が並んでいる。
金色のもの。銀色のもの。小さな宝石がついたもの。装飾のない、シンプルなもの。
ノアはしばらくガラス越しに眺めていた。そして店の扉を開けた。
店内には年配の男性店主が1人いた。
「いらっしゃいませ」
ノアは少し緊張した。
「指輪を見せていただきたいんですが」
店主は微笑んだ。
「婚約指輪ですか?」
「はい」
店主はショーケースの前へ案内した。
「どのようなものをお探しですか?」
ノアは並んだ指輪を見た。
「派手すぎないものがいいと思っています」
「なるほど」
「普段から身につけやすいものがいいかなと」
店主はいくつかの指輪を取り出した。ノアは1つずつ眺めた。
どれも美しかった。彼はエリンの手を想像した。
患者の体を支える手。料理をする手。自分の手を優しく握ってくれる手。そして……あの夜、涙を流しながら自分の頬に触れてくれた手。
あなたがいいの
ノアはあの言葉を思い出した。胸の奥が熱くなった。
店主が声をかける。
「何か気になるものはございましたか?」
ノアは1つの指輪を指さした。細いプラチナの輪に、小さなダイヤモンドが1粒だけ留められている。飾り気のない、落ち着いたデザインだった。
「これを見せていただけますか?」
「もちろんです」
ノアは指輪を手に取った。小さな光が店内の照明を受けて輝いた。
彼はしばらく見つめていた。そして静かに言った。
「これにします」
店主は微笑んだ。
「ありがとうございます」
ノアは指輪を箱に戻した。そのとき、ふと気づいた。
自分は今、未来のために何かを選んでいる。誰かに言われたからではない。何かを償うためでもない。ただエリンと一緒に生きていきたいから。
ノアは胸の奥に広がる感情を確かめるように、ゆっくりと息を吸った。そして店主に尋ねた。
「1つ相談してもいいですか?」
「何でしょう」
「指輪のサイズが、正確にはわからないんです」
店主は笑った。
「それはよくあることですよ」
ノアも少し照れくさそうに笑った。
その夜。エリンは寝室で本を読んでいた。ノアは隣の部屋で小さな箱を手にしていた。
濃紺のベルベットに包まれた、婚約指輪の箱。彼は蓋を開けた。中には今日選んだ指輪が入っている。ノアはしばらくそれを見つめていた。そして蓋を閉じた。
「いつ渡そうか?」
誕生日でも、記念日でもない。特別な場所でなくてもいいのかもしれない。だがエリンが喜んでくれるような日にしたかった。彼女が後になって思い出したとき、笑顔になれるような日に。
ノアは箱を引き出しにしまった。そのとき寝室からエリンの声がした。
「ノア?」
「何?」
「そろそろ寝ない?」
「今行くよ」
ノアは引き出しを閉めた。そして寝室へ向かった。
エリンはベッドの上で、彼を待っていた。
「何してたの?」
「ちょっと、片づけをね」
エリンは眉を上げた。
「また棚を動かしてたんじゃないでしょうね?」
ノアは笑った。
「今日は動かしてないよ」
「今日は?」
「うん!」
エリンは呆れたように笑った。
「もう、あなたって人は……」
ノアはベッドに入り、彼女の隣に横たわった。エリンは彼の胸に頭を預けた。
「ねえ、ノア」
「何?」
「今日もいい日だったね」
ノアは彼女の髪を撫でた。
「そうだね」
エリンは目を閉じた。ノアは天井を見つめた。
明日
来週
来月
そして何年も先の未来。
以前の自分なら、考えようともしなかった時間。今はそのすべてをエリンと過ごしたいと思っている。
ノアは彼女の肩を抱いた。
「エリン」
「ん?」
「僕……君に出会えてよかった」
エリンは顔を上げて微笑んだ。
「私もだよ」
ノアは彼女の額にキスをした。エリンは目を閉じた。やがて2人は眠りについた。
隣の部屋の引き出しには、小さな指輪の箱がしまわれていた。まだエリンの知らない約束が、そこにあった。
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