クーパーの死
警告を無視した者の末路です。
3月15日、月曜日の午後6時。ノアは仕事帰りに町の家具店へ立ち寄った。店内にはソファや食卓、収納棚が並んでいる。奥の一角には子ども用の家具が展示されていた。ノアはその前で足を止めた。
小さな木製のベッド。丸い角のついた棚。動物の絵が描かれた収納箱。彼がベビーベッドの前に立ち、説明札を読んでいると店員が声をかけてきた。
「何かお探しですか?」
「ベビーベッドを見ているんですが」
「ご出産のご予定は?」
ノアは少し照れくさそうに答えた。
「秋頃です……」
店員は微笑んだ。
「おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
「まだお時間がありますから、ゆっくり選べますね」
「そうですね」
店員はいくつかの商品について説明した。ノアは真剣に聞き、質問を重ねた。
柵の高さ。マットレスとの隙間。組み立て方法。使用できる期間。
店員は丁寧に答えてくれた。一通り見終えた後、ノアは小さな木製のベッドの前に戻った。
淡い色の木目。丸みのある柵。派手な装飾はない。
彼はそこに眠る赤ん坊を想像した。
小さな手。小さな足。まだ何も知らない顔。
ノアはそっと柵に触れた。そのとき胸の奥に、突然冷たいものが走った。
「僕が父親になっていいのだろうか?」
あの夜の不安が、再び顔を出した。ノアは手を離した。
店員が声をかけた。
「いかがですか?」
ノアは顔を上げた。
「とても……いいと思います」
「ありがとうございます」
「でも今日はまだ決めません」
「もちろんです。ご家族と相談して、ゆっくりお選びください」
ノアは頷いた。
「そうします」
店を出ると、夕暮れの空が広がっていた。ノアは駐車場へ向かいながら、携帯電話を取り出した。エリンからメッセージが届いている。
「今日は何時頃帰る? 夕食、先に作っておこうか?」
ノアは立ち止まって返信した。
「今から帰るよ。少し寄り道してた」
すぐに返事が来た。
「寄り道? 何をしてたの?」
ノアは迷いつつも正直に打ち込んだ。
「ベビーベッドを見てた」
数秒後……
「買ってないでしょうね?」
「まだ買ってないよ」
「よろしい。夕食はあなたの好きなチキンパスタです」
ノアは携帯電話をしまってから車に乗り込んだ。エンジンをかける。
家までの道を思い浮かべる。帰ればエリンがいる。彼女が作った夕食がある。そしてまだ生まれていない子どもがいる。
ノアはハンドルを握った。
「帰ろう」
その言葉が以前とは違う意味を持っていることに、彼は気づいていた。
3月17日、水曜日。午後7時。クーパー建設に1本の電話が入った。電話を受けたのは総務部の女性だった。
「お電話ありがとうございます。クーパー建設でございます」
相手は男性だった。
「マーティン・クーパーさん、そちらの代表ですよね?」
女性は眉をひそめた。
「失礼ですが……どちら様でしょうか?」
「州警察です」
女性の手が止まった。
「警察?」
「クーパーさんについて、確認したいことがあります」
女性は言葉を失った。クーパーは先週から会社に戻っていない。携帯電話も繋がらない。
当初はまた急な出張だろうと思っていた。しかし予定されていた会議にも現れず、取引先からの問い合わせも増えていた。
「何か……あったんでしょうか?」
電話の向こうで男が答えた。
「詳しいことは直接お話ししたいと思います」
女性は受話器を握り直した。
「わかりました……」
電話を切った後、彼女はしばらく動けなかった。窓の外では夕日が沈みかけていた。気を取り直して、彼女は役員たちに警察から連絡があった旨を伝えた。
同じ夜。ノアとエリンは居間の床に座っていた。2人の前には古い写真アルバムが広げられている。エリンが実家から持ってきたものだった。
「これ、私が5歳のとき」
エリンは写真を指さした。
小さな女の子が、庭で大きな犬に抱きついている。
「かわいいね」
ノアが言った。
「でしょう?」
「犬が」
エリンは彼を睨んだ。
「ノア!」
「冗談だよ」
「あなた、最近ちょっと意地悪になったわね」
「君の影響かもしれない」
「失礼ね」
エリンは次のページをめくった。そこには学校の制服を着た少女の写真があった。
「これは?」
「中学校の卒業式」
「今とあまり変わらないね」
「本当?」
「うん。笑い方が同じ」
エリンは照れくさそうに笑った。ノアは写真を見つめた。エリンにはこうして振り返ることのできる時間がある。子どもの頃の写真。家族と過ごした日々。友人との思い出。
ノアは自分の過去を思い浮かべた。
「僕にはダニーとの写真以外、何かあるだろうか?」
しかしすぐにその考えを振り払った。
エリンはページをめくりながら言った。
「ねえ、ノア」
「何?」
「あなたの子どもの頃の写真って、ある?」
ノアの手が止まった。エリンは顔を上げた。
「……ごめん。嫌だった?」
ノアは首を振った。
「いや……」
彼は少し考えた。
「ほとんど、ないんだ。施設で撮ってもらった写真が、何枚かあったと思うけど……」
エリンは黙って聞いていた。
「でも手元には残ってない」
「そっか……」
ノアは彼女の顔を見た。
「ごめん」
エリンは首を振った。
「謝ることじゃないよ」
彼女はアルバムを閉じた。
「じゃあ、これからたくさん撮ろう。赤ちゃんが産まれたら、いっぱい写真を撮ろう。あなたと赤ちゃんの写真。私と赤ちゃんの写真。3人で写ってる写真も」
エリンは続けた。
「それで、いつか大きくなったら見せるの。あなたが生まれる前から、お父さんはベビーベッドを置く場所を測ってたんだよって」
ノアは笑った。
「それは少し恥ずかしいな……」
「絶対に話す」
「勘弁してほしい」
エリンは笑いながら、ノアの肩に寄りかかった。
「私、楽しみなの。赤ちゃんが生まれることも、あなたが父親になることも」
ノアはエリンの肩を抱いた。
「僕もだよ……」
その声は、穏やかだった。エリンは目を閉じた。
ノアが自分の過去について話す日は、まだ来ないのかもしれない。それでも今は彼が未来を楽しみにしている。そのことが何より嬉しかった。
3月18日、木曜日。午前8時30分。町外れの河川敷で、1台の黒いセダンが発見された。
車は舗装されていない道路の奥に停められていた。運転席のドアは閉まっていたが、鍵はかかっていなかった。車内には財布も携帯電話もなかった。ただ助手席の足元に1枚の名刺が落ちていた。
そこにはこう印刷されていた。
クーパー建設株式会社 マーティン・クーパー
警察は周辺の捜索を開始した。そしてその日の午後。川沿いの雑木林で1人の男性の遺体が発見された。
遺体の身元は、まもなく判明した。マーティン・クーパー。45歳。クーパー建設の代表取締役。
死亡推定時刻は、3月10日の夜から11日未明。警察は事件性が高いと判断した。
その夜。ノアは居間でテレビのニュースを見ていた。エリンは台所で食器を片づけている。画面にクーパーの顔写真が映し出された。
「町外れの河川敷で発見された遺体は、建設会社経営者のマーティン・クーパーさんと確認されました。警察は何者かによって殺害された可能性があるとみて捜査を進めています」
ノアは表情を変えないまま、そのニュースを見ていた。ただ手に持っていたリモコンをゆっくりとテーブルに置いた。
エリンが居間に入ってきた。
「え?」
彼女は画面を見た。
「クーパーさん?」
「そうだね」
エリンがテレビに近づいた。
「この前、家に来てた人よね?」
「うん」
「殺された?」
ニュースでは警察が周辺の防犯カメラを調べていると伝えていた。
エリンは口元を押さえた。
「怖い……」
ノアは何も言わなかった。エリンは彼を見た。
「ノア、大丈夫?」
「うん」
「何か思い当たることは?」
ノアは静かに首を振った。
「ないよ」
彼女はノアの隣に座った。テレビでは、別のニュースが始まっていた。
エリンは彼の手を握った。ノアはその手を握り返した。しかし彼のはしばらくテレビから目を離せなかった。
深夜。エリンが眠った後、ノアは1人で居間で座っていた。テレビは消えている。窓の外で春の雨が降っていた。ノアは自分の手を見つめていた。クーパーの顔が頭に浮かんだ。
病院の面会室。自宅の玄関。そしてあの言葉。
「後悔するぞ、ベネット」
ノアは目を閉じた。クーパーが何をしようとしていたのか、すべてを知っているわけではない。誰が彼を殺したのかもわからない。だが1つだけ確かなことがあった。
自分がどれほど遠くへ来たつもりでも、過去は消えていない。
ノアは立ち上がり寝室へ向かった。扉を開けると、エリンが眠っていた。彼女は横向きになり、片手をお腹の上に置いている。
ノアはベッドの脇に立って、その手を見つめた。小さな命がそこにある。
彼はそっとエリンの髪に触れた。
「守るよ」
声はほとんど聞こえないほど小さかった。
ノアはベッドに入り、エリンの隣に横たわった。彼女は眠ったまま彼のほうへ身を寄せた。ノアはその肩を抱いた。
窓の外では雨が降り続いていた。
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