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神様は見ている  作者: ももらら
幸せになる資格

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諦めてきた人

理学療法士ならではの視点でベビーベッドを考えます。

 3月11日、木曜日。午前9時20分。マーティン・クーパーの携帯電話は、電源が切られていた。

 ホテルのフロント係が最初に異変を感じたのは、チェックアウトの予定時刻を過ぎても、彼が姿を現さなかったときだった。部屋に電話をかけても応答がない。清掃係が確認すると、ベッドは使われた形跡がなかった。洗面台には前夜に使ったと思われるタオルが残っていた。車もなかった。

 フロント係はクーパーが急な仕事で出発したのだろうと考えた。実際、彼は滞在中、予定を何度も変更していた。ただ1つ、奇妙なことがあった。彼がいつも持ち歩いていた革製の書類鞄だけが、部屋に残されていたのである。


 同日午後。ノア・ベネットは自宅の寝室で巻尺を伸ばしていた。ベッドの右側の壁から窓まで、約2メートル。反対側には低い棚がある。その棚を動かせば、ベビーベッドを置く場所が確保できるかもしれない。

 ノアは手帳に寸法を書き込んだ。寝室の扉を開けたまま、もう一度測る。

「60センチ……いやもう少し必要かな」

 彼は棚の引き出しを開け、中身を確認した。古い雑誌。使っていない充電器。数年前に買った工具の説明書。捨てても困らないものばかりだった。ノアは段ボール箱を持ってきて、中身を移し始めた。

 1時間後。棚は隣の部屋へ運ばれ、寝室の壁際には思っていた以上に広い空間ができていた。ノアは満足そうに頷いた。そして携帯電話を取り出し、家具店のウェブサイトを開いた。

 ベビーベッド。

 検索すると、さまざまな商品が並んだ。木製のもの。高さを調整できるもの。柵の片側が下がるもの。折りたためるもの。ノアは説明を読み比べた。

 安全基準。マットレスの硬さ。柵の構造。仕事柄、体の動きや姿勢に関する説明には自然と目が向く。しかし、乳児用家具については知らないことが多かった。

「こんなに種類があるのか……」

 彼は独り言を言った。

 30分ほど調べたところで、ようやく気づいた。自分は今、笑っている。誰もいない寝室で、ベビーベッドの寸法を調べながら。

 ノアは携帯電話を置いた。そして棚のなくなった壁際を見た。ここに小さなベッドが置かれる。その中で赤ん坊が眠る。

 夜中に泣くかもしれない。エリンと交代で起きることになるだろう。寝不足で仕事に行く日もあるかもしれない。

それなのに……。ノアはそんな日々を想像することが楽しくて仕方なかった。

 胸の奥に奇妙な感覚が広がった。不安ではない。恐怖でもない。もっと先の時間が、早く来てほしい。そう思っている。ノアはベッドの端に腰を下ろした。

 僕がこんなことを考えるなんて。少し前まで明日のことさえ考えたくない夜があった。仕事を終え、食事をし、眠る。翌朝になれば、また病院へ行く。それだけで十分だと思っていた。

 未来に何かを期待すれば、失ったときに苦しくなる。だから、期待しない。望まない。それがいつの間にか身についた生き方だった。

 ところが今は違う。来週の診察。次の超音波写真。エリンのお腹が少しずつ大きくなること。生まれてくる子どもが初めて自分の指を握る瞬間。まだ起きてもいない出来事が次々と頭に浮かぶ。

 ノアは自分の両手を見た。そして誰に聞かせるでもなく呟いた。

「楽しみだな……」

 口に出してから、驚いた。それはずいぶん久しぶりに、自分のために言った言葉だった。


 午後5時40分。エリンが帰宅すると、玄関には見慣れない段ボール箱が3つ積まれていた。

「何、これ?」

 靴を脱ぎながら声をかける。台所からノアが顔を出した。

「おかえり」

「ただいま。引っ越しでもするの?」

「いや。少し片づけをしてたんだ」

 エリンは箱を見た。1つは「雑誌」、もう1つは「電気製品」と書かれている。3つ目には「保管」とだけあった。

「どこを片づけたの?」

「寝室」

「寝室?」

 ノアは少し照れくさそうに笑った。

「見てみる?」

 エリンは鞄を置き、寝室へ向かった。扉を開ける。そして立ち止まった。

「あれ?」

 いつも壁際にあった棚がない。その場所には、ぽっかりと空間ができていた。

「棚、どうしたの?」

「隣の部屋に移したんだ」

「どうして?」

 ノアは彼女の隣に立った。

「ここにベビーベッドが置けると思って」

 エリンは振り返った。

「ベビーベッド?」

「うん」

「もう?」

 ノアは頷いた。エリンは部屋を見回した。確かに以前より広く感じる。しかも床には巻尺が置かれ、壁際には小さな付箋が貼られていた。付箋には数字がいくつも書き込まれている。

「もしかして、寸法まで測ったの?」

「うん。扉の開閉や、夜中に歩く動線も考えてみた」

 エリンはノアの真剣な顔を見て吹き出した。

「ちょっと待って!」

「何?」

「まだ先の話だって言ってなかった?」

 ノアは少し考えた。

「言ったね……」

「昨日の夜よ?」

「そうだった」

 エリンは腰に手を当てた。

「じゃあどうしてもう棚を動かしてるの?」

 ノアは照れたように笑った。

「待ちきれなくて……」

 エリンは目を丸くした。

「待ちきれないって!」

「おかしいかな?」

「おかしくないけど」

 エリンは笑いながらベッドに腰を下ろした。

「まだ3月よ。予定日だって、これから確認していくところなのに」

「うん」

「ベビーベッドを買うのは、もっと先でいいんだからね」

「わかってる。今日は場所を考えただけだよ」

「本当に?」

 ノアは少し視線をそらした。エリンはその様子を見逃さなかった。

「ノア?」

「何?」

「何か買った?」

「まだ買ってないよ」

「まだ?」

 ノアは観念したように笑った。

「候補をいくつか調べた」

 エリンは両手で顔を覆った。

「もう!」

 ノアは笑った。

「安全基準とか、いろいろあるんだね。知らなかった」

「そりゃそうよ。私だって勉強しなきゃいけないことが山ほどあるもの」

 エリンは立ち上がり、空いた壁際へ歩いた。

「でもここなら置けそうね」

「そう思う?」

「うん。夜中に起きたときも動きやすそう」

 ノアが嬉しそうに頷いた。エリンはそんな彼を横目で見た。

「本当に楽しみなのね……」

「そうみたいだ……」

「そうみたい?」

「自分でも驚いてるんだ……」

 エリンは彼に向き直った。ノアは何も置かれていない壁際を見ていた。

「赤ちゃんが生まれたら、ここで眠るんだなって考えたら……なんだか、嬉しくなって」

 エリンは黙って聞いていた。

「夜中に泣いたり、寝不足になったり、きっと大変なことも多いんだろうけど」……

 ノアは笑った。

「それでも早く会いたいと思うんだ」

 エリンは胸の奥が温かくなるのを感じた。

「私も……。私も早く会いたい」

 2人はしばらく、何もない壁際を眺めていた。そこにはまだベビーベッドも、赤ん坊の服も、おもちゃもないしかしノアには、もうその場所に小さな家族の姿が見えているようだった。


 翌日。エリンはエミリーと病院の中庭で昼食を取っていた。3月の風はまだ冷たかったが、日なたに座っていれば、それほど寒くはない。

「それでね……」

 エリンはサンドイッチを置いた。

「昨日、帰ったら寝室の棚がなくなってたの」

 エミリーは眉を上げた。

「盗まれたの?」

「違うわよ」

「じゃあ、何?」

「ノアが動かしたの。ベビーベッドを置くために」

 エミリーは口をあんぐりと開けた。

「ちょっと! 早すぎない?」

「でしょう?」

「まだ3月よね?」

「そう」

「予定日、秋でしょう?」

「そうなの」

 エミリーは笑いながら首を振った。

「あのノアがねえ……」

 エリンは頷いた。

「私も驚いた」

「しかも寸法まで測ってたんでしょう?」

「そう。扉の開閉とか、夜中に歩く場所とか……」

 エミリーは感心したように言った。

「さすが理学療法士。赤ちゃんが生まれる前から動線を考えてる」

「でもね……嬉しかったの」

エミリーは笑みを収めた。

「うん」

「ノアがあんなに楽しそうにしてるの、初めて見た気がする」

「そうなんだ」

 エリンはしばらく考えた。

「ノアって落ち着いてるでしょう。仕事でも、家でも。何かあってもまず相手のことを考える人なの」

「そうね」

「でも自分が何をしたいとか、何が欲しいとか、あまり言わないの……」

 エミリーはサンドイッチを置いた。

「確かに、そうかも」

「だから昨日、赤ちゃんのことが待ちきれないって言ったとき……なんだか、すごく嬉しかった」

 エミリーは彼女を見た。

「ノア、変わってきたんじゃない?」

 エリンは少し考えた。

「そうかもしれない」

「あなたと暮らし始めて、これからのことを考えるようになったんじゃないかな」

 エリンは頷いた。しかし心のどこかに別の思いがあった。

 ノアが幸せになることを恐れていた理由。あの夜、涙を流しながら語った言葉。


「僕はずっと自分は幸せになってはいけない人間だと思ってた」


 エリンはその言葉を忘れられずにいた。ノアは何を経験してきたのだろう。どうして自分自身をそこまで厳しく裁いているのだろう。

 彼女にはわからない。

 だけど昨日のノアは確かに未来を楽しみにしていた。その姿が嬉しかった。そして少しだけ切なかった。

「ノアは今までどれほど長い間、何かを楽しみにすることを諦めてきたんだろう……」

 エリンは遠くの空を見上げた。春の雲がゆっくりと流れていた。

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