突然の訪問
クーパー、まだまだ食い下がります。
午後4時。ノアはリハビリ室に戻っていた。ルークが次の患者の記録を持ってくる。
「ベネットさん、プライスさんのご家族から連絡がありました」
「何かあった?」
「退院前の自宅確認に、奥さんも立ち会いたいそうです」
「それはよかった。日程を調整しよう」
ノアは記録に目を通した。ルークは少し迷ってから尋ねた。
「さっきのお客さん、何だったんですか?」
「仕事の相談だよ」
「建設会社の人ですよね?」
「うん」
「何かリハビリ室の改修でも?」
ノアはペンを置いた。
「そういう話ではなかったよ」
ルークは頷いた。
「そうですか」
それ以上、尋ねなかった。ノアは記録を閉じた。
窓の外では病院の駐車場に長い影が伸びている。ノアは時計を見た。あと1時間で今日の勤務が終わる。帰ればエリンがいる。
夕食は彼女が作ると言っていた。今朝、冷蔵庫にはトマトと鶏肉が残っていた。何を作るつもりなのだろう? そんなことを考えた。そして自分が今、何よりも家に帰りたがっていることに気づいた。
午後7時。クーパーは町外れのホテルに戻った。
部屋に入ると、ネクタイを緩め携帯電話を取り出した。画面には何件もの着信履歴が並んでいる。彼は1つを選び電話をかけた。数回の呼び出し音のあと、男が出た。
「どうだった?」
「会ったよ」
クーパーは窓際に立った。
「やはり、あいつだった」
電話の向こうで、男が何かを言った。クーパーは笑った。
「間違いない。顔も声も昔と変わっていない」
相手の声が低くなった。クーパーは眉をひそめた。
「わかってるさ。だがこちらにも事情がある」
しばらく沈黙が続いた。
「何?」
クーパーは窓の外を見た。
「今さら手を引けだと?」
相手は何かを繰り返した。クーパーは舌打ちした。
「お前たちは、あいつを買いかぶりすぎなんだよ」
電話の向こうで、男の声が鋭くなった。クーパーは苛立ったように言った。
「昔はどうだったか知らん。今のあいつは田舎の病院で患者の歩行訓練をしてるだけの男だ。女と暮らして、子どもまで作って……」
相手が遮った。クーパーは口を閉じた。
そしてゆっくりと笑った。
「だからこそ……使えるんじゃないか」
彼は電話を切った。窓ガラスに自分の顔が映っていた。クーパーはしばらくその顔を見つめ、カーテンを閉めた。
3月10日、水曜日。午後6時半。エリンは台所で鶏肉と野菜の炒め物を作っていた。ノアは食卓に皿を並べている。
「今日は、ちょっと味が薄いかも」
エリンが言った。
「大丈夫だよ」
「まだ食べてないでしょう」
「君が作るものなら、何でも美味しいから」
エリンは振り返った。
「そういうこと言うと、味見係を任せるわよ」
「喜んで!」
ノアは小皿を受け取り、一口食べた。
「美味しいよ」
エリンは目を細めた。
「本当?」
「うん」
「じゃあ、もう少し塩を入れる」
ノアは笑った。
「えっと……僕の意見は?」
「参考にしたわ」
エリンは塩を少し加え、フライパンを振った。
食卓に料理を運ぶと2人は向かい合って座った。
「今日、エミリーがね……」
エリンは話し始めた。
「赤ちゃんの名前の候補を10個も送ってきたの」
ノアは驚いた。
「10個?」
「そう。しかも男の子と女の子で10個ずつ」
「ということは……20個?」
「うん」
ノアは笑った。
「僕たちより張り切ってるね」
「本当よ。まだ性別もわからないのに」
エリンはスマートフォンを取り出した。
「見てよ。『エミリー』って名前まで候補に入ってる」
ノアは画面を覗き込んだ。
「なかなか大胆だね」
「しかも、『絶対かわいい』って書いてある」
2人は笑った。
食事を終えノアが皿を洗っていると、エリンは居間で本を読んでいた。
そのとき玄関のチャイムが鳴った。ノアは手を拭いた。
「僕が出るよ」
「お願い」
ノアは廊下を歩き、玄関の扉を開けた。そこに立っていたのは、マーティン・クーパーだった。
ノアは動かなかった。クーパーは薄く笑った。
「こんばんは、ベネット先生」
「何のご用ですか?」
「少し話がある」
「先日、お断りしたはずです」
「そう冷たくするなよ」
クーパーは家の中を覗き込んだ。
「いい家じゃないか」
ノアは扉の前から動かなかった。
「お帰りください」
クーパーは笑みを消した。
「ここまで来たんだ。少しくらい話を聞いてもいいだろう?」
「お話しすることはありません」
そのとき居間からエリンの声がした。
「ノア? 誰?」
クーパーの目が細くなった。ノアは振り返らずに答えた。
「仕事関係の人だよ。すぐ終わる」
エリンが廊下に出てきた。
「あら……」
彼女はクーパーを見て少し驚いた。
「クーパーさん?」
クーパーはすぐに愛想のいい笑顔を浮かべた。
「やあ、ウォーカーさん。久しぶりですね」
「お久しぶりです」
「元気そうで何よりだ」
エリンはノアを見た。
「何かあったの?」
ノアは答えた。
「仕事の話だよ。もう済んだところ」
クーパーは笑った。
「そう。今日は少し急な相談をしてしまってね」
彼はエリンに向き直った。
「お邪魔して申し訳ありません」
「いえ……」
「それでは、失礼します」
クーパーは軽く頭を下げ、玄関を離れた。
ノアは扉を閉めた。鍵をかける。その動作を、エリンは黙って見ていた。
「ノア?」
「何?」
「大丈夫?」
ノアは振り返った。
「うん。大丈夫だよ」
エリンは彼の顔を見つめた。
「クーパーさん、何か困ったことを言ってきたの?」
「仕事の相談を受けたんだけど、僕にはできない内容だったから断ったんだ」
「そう……」
エリンは少し考えた。
「家まで来るなんて、ずいぶん熱心ね」
「そうだね」
ノアは彼女の肩に手を置いた。
「心配しなくていいよ」
エリンは、その手を見た。そしてゆっくりと頷いた。
「わかった」
彼女はそれ以上、尋ねなかった。ただノアが台所へ戻ってからも、しばらく玄関を見つめていた。
午後8時45分。
クーパーはホテルの駐車場に車を停めて考えに耽っていた。
「自宅の場所を把握していることがこれでわかったはずだ。この後、あいつがどう動いてくるかだな」
そのとき携帯電話が鳴った。知らない番号だった。
「誰だ?」
電話の向こうで男が言った。
「クーパー。お前には何度も警告したはずだ」
クーパーの表情が変わった。
「何の話だ?」
「ノア・ベネットには関わるなと」
クーパーは車の中で身を起こした。
「お前、誰だ?」
「そんなことは大した問題ではない」
男の声は落ち着いていた。
「お前は我々の警告を無視した。それが重要なんだ」
クーパーは唇を舐めた。
「俺は何もしていない……」
「今日、彼の家を訪ねただろう?」
クーパーは黙った。男は続けた。
「彼の大切な人に顔を見られた」
「だから何だ!」
クーパーは声を荒らげた。
「俺が誰に会おうと、俺の勝手だろう!」
電話の向こうで、短い沈黙があった。そして男が言った。
「本当にお前は何もわかっていない」
通話が切れた。クーパーは携帯電話を握りしめた。
しばらくして彼は車のエンジンをかけたがすぐに止めた。
駐車場の出口に1台の黒い車が停まっていた。ヘッドライトが消える。車の扉が開いた。
クーパーは息を呑んだ。車から降りてきた男たちは、ゆっくりとクーパーの車へ向けて歩いてきた。
同じ頃。ノアは居間のソファに座っていた。エリンは隣で妊娠中の生活について書かれた本を読んでいる。
「ねえ、ノア」
「何?」
「赤ちゃんが生まれたら、寝室にベビーベッドを置けるかな」
ノアは部屋を見回した。
「置けると思うよ。棚を少し動かせば」
「そうね」
エリンは本を閉じた。
「でも、まだ先の話か」
「そうだね」
彼女はノアの肩に頭を預けた。
「楽しみだね」
ノアは彼女の手を握った。
「うん」
エリンは目を閉じた。ノアは窓の外を見た。
庭は暗く街灯の明かりが木の枝を照らしていた。しばらくして彼はカーテンを閉めた。
エリンが顔を上げる。
「どうしたの?」
「少し冷えてきたから」
「そう?」
「うん」
ノアは彼女の隣に戻った。エリンは再び彼の肩に寄りかかった。
やがて彼女の呼吸が穏やかになった。ノアは眠り始めたエリンを見つめた。
そしてそっと彼女の髪を撫でた。その手はわずかに震えていた。
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