クーパーからの依頼
好事魔多しというやつです。
3月8日、月曜日。午前10時15分。サミュエル・プライスは、リハビリ室の平行棒を前にして、不機嫌そうに腕を組んでいた。
「俺は郵便配達を37年やったんだぞ」
「知っています」
ノア・ベネットは、プライスの右足の位置を確認しながら答えた。
「雨の日も雪の日も、毎日歩いた。犬に追いかけられたことだってある」
「それも聞きました」
「だったら、こんな棒につかまって歩くくらい、できないわけがないだろう」
「そうですね。ですから、今日は杖を使った歩行の練習もします」
プライスは眉をひそめた。
「なぜ先にそう言わん」
「説明しようとしたら、犬の話が始まったので」
傍らで記録を取っていたルークが思わず吹き出した。プライスは彼を睨んだ。
「笑うな、若造」
「すみません……」
「まったく……最近の若い連中は年寄りを敬わん」
ノアは平行棒の高さを調整した。
「では敬意を込めて。まず3往復お願いします」
「鬼だな、お前は……」
「よく言われます」
「誰にだ?」
「今、プライスさんに」
ルークはとうとう声を上げて笑った。プライスも口元を緩めたが、すぐに真顔に戻り、立ち上がった。
右足を一歩前に出す。体重を移し、左足を運ぶ。慎重な動作だった。それでも先月に比べれば、明らかに安定している。3往復を終えたプライスは、椅子に腰を下ろし額の汗を拭った。
「どうだ?」
「よかったですよ。右足に体重をかけるときのふらつきが減っています」
「だったら、もう帰れるな」
「退院については、主治医や看護師、ご家族とも相談して決めましょう」
プライスは舌打ちした。
「お前はいつもそうやって俺の希望に水を差す」
「希望をかなえるために、準備しているんです」
ノアは椅子を引き寄せた。
「プライスさん。家に帰ったら、最初に何をしたいですか」
「鳥の餌台を直す。前にも言っただろう」
「覚えています。その餌台、庭のどこにあるんですか」
「裏庭だ。玄関から回ると遠いから、台所の勝手口から出る」
「段差は?」
「2段」
「手すりは?」
「ない」
ノアは頷いた。
「では次の練習は2段の段差です」
プライスは目を丸くした。
「本当か?」
「はい。ただしまずは安全な環境で練習します。実際のご自宅の段差も確認する必要があります」
プライスはしばらくノアを見つめていた。そしてぼそりと言った。
「お前……案外、人の話を聞いてるんだな」
「案外ですか……」
「褒めてるんだ」
ノアは笑った。
「ありがとうございます」
正午を少し過ぎた頃、ノアは職員食堂でエリンと向かい合っていた。エリンの前には野菜スープとクラッカー、ノアの前にはチキンサンドイッチがある。
「プライスさん、段差の練習を始めるんだって?」
「うん。本人はもう明日にでも餌台を直せるつもりだけど」
「相変わらずね」
「でも目標がはっきりしてるのはいいことだよ」
エリンはスープを口に運んだ。
「奥さんの気持ちもわかるけど、本人にとっては大切なことなんだろうね」
「そうだね。庭に来る鳥を30年以上見てきたらしいから」
「30年?」
「毎朝、同じ時間に餌を置くんだって」
エリンは感心した。
「それはもう、奥さんより鳥のほうがプライスさんを待ってるわね」
「本人もそう言ってた」
ノアはサンドイッチを置いた。
「エリン、今日は食べられそう?」
「うん。朝よりずっといい」
「よかった」
「でも毎回確認しなくても大丈夫よ。調子が悪いときは自分から言うから。心配してくれるのは嬉しいけど、あなた……最近ちょっと過保護」
「気をつけるよ」
エリンはクラッカーを1枚割った。
「それと今夜は私が夕食を作るから」
「無理しなくても……」
「ほら、また!」
ノアは口を閉じた。エリンは笑った。
「私、妊娠したけど。急に何もできなくなったわけじゃないんだから……」
「そのとおりだね」
「よろしい」
2人が笑ったところへ、エミリーがトレーを持って現れた。
「何がよろしいの?」
「ノアの教育」
エリンが答えた。エミリーは大きく頷いた。
「それは大切ね」
「僕、そんなに問題あるかな?」
「問題がある人ほど、自分では気づかないものよ」
エミリーは平然と言い、空いている椅子に腰を下ろした。ノアが肩をすくめた。
「2対1だ」
「3対1になる前に諦めたほうがいいわよ」
「3人目は誰?」
「スーザンさん」
ノアは両手を上げた。
「降参します」
エリンは笑いながら、スープを飲んだ。
そのときはまだ3人とも気づいていなかった。食堂の窓の向こう、病院の正面玄関に1台の黒いセダンが停まったことに。
午後1時40分。ノアはリハビリ室の記録を整理していた。ルークは別の患者の歩行練習に付き添っている。
窓から差し込む日差しは明るく、暖房を少し弱めてもよさそうだった。
「ベネット先生」
受付の女性が顔を出した。
「お客様がお見えです」
ノアは顔を上げた。
「僕に?」
「はい。クーパー建設のマーティン・クーパーさんです」
ペンを持つノアの手が止まった。ほんの一瞬だった。
「わかりました……」
受付の女性は続けた。
「お仕事のお話だそうです。面会室にご案内してあります」
「ありがとうございます」
ノアは記録用紙を閉じた。椅子から立ち上がり、白衣の裾を整える。廊下に出ると、病院のいつもの音が聞こえた。
ワゴンの車輪。遠くのナースステーションからの呼び出し。患者と看護師の会話。何も変わっていなかった。
ノアは面会室の前で立ち止まった。一度だけ息を整え、扉を開けた。
マーティン・クーパーは窓際の椅子に座っていた。濃紺のスーツに、灰色のネクタイ。以前より少し痩せたように見えたが、日に焼けた顔と人を値踏みするような目つきは変わっていない。
「やあ、ベネット先生」
クーパーは立ち上がり、片手を差し出した。ノアはその手を見た。そして握手に応じた。
「お久しぶりです」
「そうだな。昨年の11月以来か」
「今日は、のようなご用件でしょうか」
クーパーは笑った。
「相変わらず、話が早い」
彼は椅子に座り直した。
「旧製紙工場の再開発について、少し相談があってね」
「それでしたら、病院の施設管理担当者にお話しいただいたほうが」
「いや。今日は君に用がある」
ノアは黙っていた。クーパーは足を組んだ。
「最近、仕事は順調かね」
「おかげさまで」
「私生活も充実しているようだ」
ノアの表情は変わらなかった。
「どういう意味でしょう」
「エリン・ウォーカーさん。いい女性だな」
窓の外で救急車がサイレンを鳴らして通り過ぎた。
ノアが鋭い目線をクーパーに注ぐ。クーパーは一瞬たじろいだ。
「彼女に何かご用ですか?」
「いやいや。単なる世間話だ」
クーパーは笑った。
「一緒に暮らし始めたそうじゃないか。おめでとう」
「ありがとうございます」
「それに近いうちに家族が増えるという話も聞いた」
ノアは答えなかった。
クーパーはその沈黙を楽しむように、ゆっくりと続けた。
「幸せそうで何よりだよ」
ノアは椅子に座らなかった。
「クーパーさん」
「何だね」
「僕に話があるのでしたら、要件をお聞かせください」
クーパーの笑みが消えた。
「噂どおりだな……」
彼は内ポケットから小さな封筒を取り出しテーブルに置いた。
「場所を変えよう。ここでは話しにくい」
ノアは封筒を見た。
「ここで話せない内容なら、お引き取りください」
クーパーは鼻で笑った。
「強気だな」
「仕事中ですので……」
「わかった。では少しだけ話そう」
クーパーは封筒の端を指で叩いた。
「君に頼みたいことがある」
「何でしょう」
「ある男に会ってほしい」
ノアは黙っていた。
「君が会えば話は早い。相手は君のことを知っている」
「どなたですか?」
クーパーは男の名前を告げた。ノアはその名前を聞いても表情を変えなかった。
「存じません」
「そう言うと思ったよ」
クーパーは椅子にもたれた。
「だが向こうは君をよく知っている」
ノアは封筒を手に取らなかった。
「お断りします」
クーパーの眉が動いた。
「まだ依頼の内容も聞いていないだろう?」
「僕の仕事とは関係がありません」
「報酬は十分に用意する」
「必要ありません」
クーパーは笑みを浮かべた。
「君は昔から金には興味がなかったのか?」
ノアは答えなかった。クーパーは立ち上がった。
「まあ、いい。今日は挨拶だけのつもりだった」
彼は封筒をテーブルに残した。
「気が変わったら連絡してくれ」
ノアは封筒を見た。
「お持ち帰りください」
クーパーは振り返った。
「何?」
「僕は受け取りません」
2人はしばらく見つめ合った。
やがてクーパーは、封筒を拾い上げた。
「後悔するぞ、ベネット……」
ノアは扉を開けた。
「お帰りは、こちらです」
クーパーは彼を睨みつけた。そして何も言わずに部屋を出ていった。
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