幸福への恐怖
ノアはずっと苦しんでいます。
午前2時を過ぎた頃、エリンは喉の渇きで目を覚ました。
隣に手を伸ばす。そこにいるはずのノアの姿がなかった。掛け布団はめくれたままで、枕にはまだ彼の頭の跡が残っている。
エリンはベッドから起き上がり、トイレに向かった。用を済ませて廊下へ出ると、居間の扉の下から明かりが漏れていることに気づいた。ノアはソファに座っていた。
テレビは消えている。テーブルには水の入ったグラスが1つ。彼は肘を膝に置き、組んだ両手を見つめていた。エリンが入ってきたことにも気づかない。
「ノア?」
声をかけると、彼は顔を上げた。
「ああ、エリン。ごめんね、起こしちゃった?」
「ううん。喉が渇いて起きたの。あなたこそ、どうしたの?」
「ちょっと眠れなくて……」
ノアは笑おうとした。だがその表情はひどくぎこちなかった。エリンは彼の隣に腰を下ろした。
「何か心配事?」
「いや……」
しばらく沈黙が続いた。壁の時計が時を刻む音だけが、部屋に響いている。
「今日のことを考えてたんだ……」
やがてノアが言った。
「今日?」
「赤ちゃんのこと」
エリンは頷いた。
「私もまだ信じられない」
「そうだね」
ノアは両手を見下ろした。
「僕が父親になるかもしれないんだね……」
その声には、喜びよりも戸惑いが滲んでいた。エリンは彼の横顔を見つめた。
「不安?」
「うん……」
ノアは珍しく、迷わず答えた。
「すごく……」
エリンは彼の手に触れた。
「私もだよ。初めてのことだもの」
「そういう不安だけじゃないんだ……」
ノアは俯いた。エリンは何も言わず、続きを待った。
「僕は……」
彼は一度、言葉を切った。
「ずっと、自分は幸せになってはいけない人間だと思ってた……」
ノアは顔を上げなかった。
「仕事をして、誰にも迷惑をかけずに暮らしていければ……それで十分だと思ってた。それ以上のものを望む資格なんて、僕にはないって……」
「ノア……」
「なのに……君と出会った」
彼は小さく息を吐いた。
「君が僕を好きだと言ってくれて、一緒に暮らすようになって……毎朝、目が覚めると君がいる」
ノアは居間を見回した。棚の上には冬の海で撮った2人の写真が飾られている。その隣には、エリンが拾った白い貝殻。
「ここは前から僕の家だった。でも今は違うんだ。君がいて……君のものがあって……帰ってくるのが楽しみで……」
彼の声が震えた。
「それだけでも、僕には十分すぎるくらいなのに……」
エリンはノアの目に涙が浮かんでいることに気づいた。
「今度は、子どもまでできるかもしれない……」
彼はようやくエリンを見た。
「僕は今、こんなに幸せなんだ……」
一筋の涙が、頬を伝った。
「本当にいいんだろうか……」
エリンは息を呑んだ。
「こんなに幸せになって、本当にいいんだろうか。いつか誰かに『全部返せ』と言われるんじゃないかって。そんなことを考えてしまう」
ノアは濡れた頬を拭おうともせず、続けた。
「時々、怖くなるんだ。これは本当に現実なんだろうか?って……」
エリンはすぐには答えられなかった。いつも落ち着いていて、誰かが困っていれば手を差し伸べ、患者が怒りをぶつけても穏やかに受け止める人。そのノアが今は幼い子どものように、幸せになることを恐れていた。
エリンは思い出した。初めて2人で湖のほとりを歩いた日、ノアが口にした言葉。
「僕は君が思っているような人間じゃないかもしれない」
あのときも彼は自分の過去について語らなかった。そして今も……。
何があったのかはわからない。どれほど辛い思いをしてきたのかも、彼女には想像することしかできない。ただ目の前にいる最愛の男性が、長い間自分自身を許せずに生きてきたことだけはわかった。
エリンはそっとノアを抱きしめた。彼の頭を自分の肩に引き寄せ、背中に腕を回す。
「エリン?」
「いいんだよ」
彼女は答えた。
「幸せになって……いいんだよ」
ノアの肩が震えた。
「でも、僕は……」
「あなたの過去に何があったのか、私は知らない」
エリンは彼の髪を撫でた。
「いつか話したくなったら聞く。でも今無理に話してほしいとは思わない」
ノアは何も言わなかった。
「ただ……1つだけ言わせて」
エリンは彼を抱く腕に力を込めた。
「私はあなたと一緒にいて幸せなの!」
涙が頬を伝った。
「あなたが毎朝コーヒーを淹れてくれることも……仕事で疲れて帰ってきたときに『おかえり』って言ってくれることも……くだらないことで一緒に笑えることも……全部、私が欲しかったものなの」
エリンは声を詰まらせた。
「だから私の幸せまで、間違いだったみたいに言わないで……」
ノアは顔を上げた。エリンも泣いていた。
「ごめん……」
「謝らないで」
彼女は涙を拭い、微笑もうとした。
「それに、赤ちゃんのことだって、まだ何もわからないでしょう? これから検査も受けなきゃいけないし、考えることも山ほどある」
「うん」
「きっと楽しいことばかりじゃない。眠れない夜もあるだろうし、喧嘩だってするかもしれない」
エリンはノアの頬に触れた。
「でも……そういうことも全部2人で経験したいの」
ノアは彼女を見つめていた。
「僕で……いいのかな?」
エリンは力強く首を振った。
「違うよ、ノア」
彼は目を伏せた。エリンはその頬を両手で包み、もう一度、自分のほうへ向けた。
「あなたがいいの!」
ノアの表情が崩れた。彼はエリンを抱きしめ、肩に顔を埋めた。声を殺して泣いていた。エリンは何も言わず、その背中を撫で続けた。彼女自身も涙を止められなかった。
「どんな過去がこの人にこんな言葉を言わせるのだろう?」
「何がこれほど優しい人を苦しめているのだろう?」
答えはわからない。それでも彼が今夜1人で泣かずに済んだことだけはよかったと思った。
長い時間が過ぎた。ようやくノアが顔を上げると、エリンはテーブルのティッシュを差し出した。
「ひどい顔」
ノアは涙を拭いながら苦笑した。
「君もね」
「私はあなたにつられたの」
「ごめん」
「だから謝らないでってば!」
2人は泣きながら笑った。
エリンはノアの手を取り、自分のお腹に重ねた。
「ねえ。もし本当に赤ちゃんが生まれたら、どんな子になると思う?」
「まだ、想像もつかないよ」
「私も。でもあなたに似てほしいところがあるの」
「どこ?」
「人の話をちゃんと聞けるところ」
エリンは続けた。
「それから……優しいところ」
「ありがとう」
「でも頑固なところは、ほどほどがいいかな」
ノアは笑った。
「君に似たら、もっと頑固になるかもしれない」
「失礼ね」
エリンも笑った。そして彼の手を握り直した。
「ねえ、ノア」
「うん?」
「もしまた幸せになるのが怖くなったら、私に言って」
ノアは頷いた。
「わかった」
「約束よ」
「うん。約束する」
エリンは彼の肩に頭を預けた。しばらくしてノアが小さな声で言った。
「ありがとう、エリン……」
彼女は目を閉じた。
「どういたしまして」
2人はしばらくソファから動かなかった。夜が明けるまで、まだ時間があった。
翌朝エリンが目を覚ますと、隣にノアがいた。昨夜は2人とも泣き疲れてしまい、寝室に戻った時刻も覚えていない。
ノアはまだ眠っていた。エリンは横向きになり、その寝顔を見つめた。
昨夜の彼を思い出す。あれほど取り乱したノアを見るのは初めてだった。だが不思議と怖くはなかった。むしろ少しだけ彼に近づけたような気がしていた。
いつも自分を支えてくれる人にも誰かに支えてほしい夜がある。その当たり前のことを、エリンはようやく知った気がした。彼女がそっと髪に触れると、ノアが目を開けた。
「おはよう」
「おはよう」
ノアは時計を見た。
「もうこんな時間か」
「今日は2人とも午後からだから、急がなくていいよ」
「そうだったね」
彼は起き上がりかけて、エリンを見た。
「昨日はありがとう」
エリンは微笑んだ。
「うん」
「驚かせたよね」
「ちょっとね」
「ごめん」
エリンは人差し指を立てた。
「1回、罰金」
「え?」
「昨日、謝らないでって言ったでしょう。これから不要な謝罪は1回1ドル」
ノアは笑った。
「厳しいね」
「貯まったら赤ちゃんのものを買うの」
「それは困ったな。僕、結構払うことになりそうだ」
「じゃあ、今のうちに直して」
2人は笑った。
エリンはノアの胸に顔を寄せた。
「ねえ……」
「何?」
「昨日のこと、後悔してる?」
ノアは少し考えた。
「してないよ」
「本当?」
「うん。君に話せて、よかったと思ってる」
エリンは頷いた。
「私も聞けてよかった」
ノアは彼女の肩を抱いた。しばらくして、エリンが言った。
「そろそろ起きようか。お腹すいた」
「何が食べたい?」
「トースト。あと卵」
「わかった」
「それから、今日はコーヒーじゃなくて、温かい麦茶にする」
ノアは頷いた。
「そうしよう」
エリンはベッドから降り、寝室のカーテンを開けた。朝日が差し込んだ。庭の木々はまだ葉を落としていたが、枝の先には小さな芽がついている。エリンは窓辺に立ったまま、振り返った。
「ノア」
「うん?」
「今日、病院に電話して、受診の予約を取ろうと思う」
「一緒に行ってもいい?」
エリンは微笑んだ。
「当たり前でしょう」
「仕事、調整するよ」
「ありがとう」
ノアはベッドから立ち上がり、彼女の隣に来た。2人は窓の外を眺めた。
まだ春には早い。木々は葉を落とし、庭の土も冷たいままだった。
それでも季節は確かに動いていた。
エリンは自分のお腹に手を当てた。ノアはその手を見た。
「触ってもいい?」
「もちろん」
ノアはためらいがちに手を重ねた。昨夜、涙に濡れていた彼の顔は今は穏やかだった。
だがエリンはその穏やかさだけが彼のすべてではないことを知っている。誰にも見せずに抱えてきたものが、彼にはある。いつかそれを話してくれる日が来るのかもしれない。来ないのかもしれない。エリンにはわからなかった。
ただ今この瞬間、彼の手は自分のお腹に重なっている。その温かさは、疑いようのない現実だった。
「ねえ、ノア」
「何?」
「私たち、きっと大丈夫だよ」
エリンは微笑んだ。
「何でもうまくいくって意味じゃないの。困ったことがあったら、2人で考えればいいってこと」
ノアは重ねた手に目を落とした。
「そうだね」
エリンは彼の肩に寄り添った。ノアも彼女を抱き寄せた。
窓の外では冬の終わりを告げる風が、まだ硬い木の枝を揺らしていた。春はもうすぐそこまで来ていた。
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